2014年4月9日水曜日

心得 第九 「不義に流れやすいのが人の心」

《武士というものは、義と不義の二つの区別をしっかりとその心にとどめ、ひたすら義を行うようにつとめ、不義の行為を慎むよう決意しさえすれば、武士道を全うすることはできるのである。》

《義、不義とは善と悪とであり、義はすなわち善、不義はすなわち悪である。 およそ人として、善悪、義不義の区別が判らないなどということはないのであるが、誰しも義を行い、善に励むというのは窮屈で苦労なことと感じ、不義を行い悪事をすることはおもしろく気やすいものであるから、ひたすら不義、悪事のほうへばかり走って、義と善につとめるのはいやになってしまうものなのである。》

《もし、当人がまったくのばか者であって、善悪も義不義もすべて区別がつかぬというのであれば論外であるが、自分の心では、これは不義の悪事であると承知しておりながら、義理を踏み外して不義を行うなどというのは、武士の心構えとも思えず、まことに残念というほかはない。》

《そのようになる根本はといえば、物事に耐える精神が弱いためであるといえよう。耐える精神が弱いといえば、少しは格好よく聞こえるが、さらにその根底は、臆病な心から不義が生まれるのだと理解してよいであろう。》

《それであるから、武士は、常に不義を慎み、義の道を進むことが大切だというのである。》



〈義〉という字は、字源によれば《「己之威儀也従我羊」 我が威儀を正しく立派にする意なり。故に羊(善美の意)と我を合す。仁が他人との関係を示すのに対し、義は性善の発露、すなわち豁然の気と一致する》という。つまり、〈義〉とは「我を羊の如くにする」ことである。
武士道は性善説なのであり、武士は義に生まれついている、だから、義を理解できないはずはないという。
武士の本分は「義を貫く」ことにあると言われるが、〈貫〉には《代々血すじがつらぬいている意》があり、本来、武士は、上述のように義に生まれついているのだから、本分を尽くせば、自ずと義が貫かれて行くのである。だから、それは難しいことではないというのである

0 件のコメント:

コメントを投稿