2014年4月30日水曜日

心得 第二十九 「能力と誠実さの両立が最高の侍」

能力主義と精勤主義の一項である。


《主君を持って奉公する武士のうちに三つの種類がある。第一が忠節の侍、第二が忠功の侍、第三が忠節忠功の侍である。

まず、忠節の侍というのは、どのようなことであれ、一生のうちに一度は、主君の御ために他の同僚たちにはできぬような立派な仕事ぶりを見せて大きな貢献を行っているために、主君や重臣の人々からも重んじられ、たとえ日頃の勤務ぶりについては、至らぬ点があろうとも大目に見られて、気楽に過ごしている侍のことをいうのである。

次に忠功の侍というのは、何か特別に大きな貢献を行っいるというのではないが、何はともあれ主君のおんためということを大切に考えてて、御用のこととさえなれば昼夜の区別なく真剣に打ち込み、自分の本来の役目に励むことは勿論、同僚の病気や事故による臨時の勤務であろうとも、進んで手落ちなく勤めるといった、誠実な武士をいう。

次にまた忠節忠功の侍というのは、一方では誰にもまねのできぬようなご奉公をしてお役に立ちたいという積極性を持つとともに、日頃の勤めにおいても誠実な努力を重ねている侍であって、一頭の馬が二つの鞍をつけているように、二つの面でともに優れている者をいうのである。右に述べた忠節一方、忠功一方のどちらも、それではだめだというわけではないが、忠節と忠功の二つを兼ね備えた武士と引き比べてみれば、はるかに劣っているといわねばなるまい。

こうした点をよくよく考えて、どうせ奉公人となったからには、人からあれこそ忠節忠功を兼ね備えた武士よといわれるようにはげむ意欲を持ちたいものである。なお、ここに述べた三つの種類の、どのひとつにも当てはまらないような武士をさして、武家奉公の縠つぶしというのである。》


武士には三種類ある。能力主義者と精勤主義者と能力・精勤主義者である。
武闘派と文治派と文武派ということである。
武士道は文武両道を説く。つまり、文武派を目指せということである。
これは武士の立場と役割の問題でもある。力の源泉をどこに見出すかということと重なってくる。

2014年4月29日火曜日

心得 第二十八 「年功だけでは使いものにならぬ」

年功序列に甘えるなの一項で、「自己啓発は若いときから」に続くものである。

《これを禅僧などでいえば、役に付かぬ僧のうちに朝寝昼寝を勤めにして、教義の学問を怠って居たまま、出世の年功になってきて、頭が禿げたのを武器にして長老、和尚に成り上がり、身には彩色の法衣をまとい、手には払子などを握って、多くの弟子に説法をしているようなものである。但し、こうしたインチキ坊主の場合には、大事な法会の席などで、なにかの失敗でもあれば人々の物笑いにされて、わが身ひとりが赤恥を書いて引っこめばそれでことがすみ、一般の人々に難儀がかかるというわけではない。
それにひきかえて武家においては、士大将、物頭、物奉行などという、仏門で言えば和尚役を勤める武士が、もし采配を振りそこない、軍勢の動かし方が悪かったときには、合戦の勝利を失い、味方の士卒の生命を危うくするのであるから、その被害は極めて大きい。ここのところを十分に考え、どうせ武家としての修業をするからには、無益の平の侍として暇が或時から、武芸の収斂はもちろんのこと、軍陣の敷き方や戦い方などについてもよく心掛けて奥義を極め、またほかの役目についても同様、たとえ采配を持つ役柄を仰せつかっても、勤まらぬなどということのないように修業を積んでおくことが大切なのである。》


ここで説くことは重要である。
修業の方法としては禅家の方に軍配を上げながら、修業の成否が実際の命のやりとりを左右する武家における修業は誤魔化しが効かないのである。
今日の社会で偽装が蔓延るのはこの虚実の間を解しないことにある。
真剣になる》という言葉を体解することが武士道である。
訳者の吉田氏はこの章を共に厳しい階級制度のもとにある武士と僧侶とを引き比べて、修業の心得を説いているが、ここでは、年功や家柄によりかかりがちな武士よりも、実力一本の僧侶の方が、はるかに真剣な修業をしているとして、武家のあり方に反省を促している点が注目される。》解説する。
俗に絡まれては、聖のみに生きる僧侶に劣るのは当然である。しかし、それでは俗において聖を実現する武士の修行としては不十分である。なぜなら、聖に生きるだけの僧侶以上の修業がなければ、俗を超えて生を実現できないからである。年功序列は俗の制度である。この俗の制度を聖に保つのが武士の役目であり、武士道に求められるものである。
帰一」という言葉がある。《別々の事柄が、同一のものに帰着すること。》である。〈きいつ〉は「器一」を書くこともできる。
「器一」ということを考えてみた。「器度と器量が一致すること」とすれば、「帰一」と似た意味になる。《心身一如》を説く武士道は「器一」を目指している。
名器は形だけではないのである。《玉磨かざれば器を成さず》なのである。

2014年4月26日土曜日

心得 第二十七 「自己啓発は若いときから」

年功序列に甘えるなの一項で、「修業の心がけは出家がまさる」に続くものである。


《なぜならば、武家の様々な役目といっても、それほど多くの種類があるわけでもないのだから、まだ役につかず、毎日、何の仕事もない間から、いつ、どのようなお役につけられるかは主君のお考え次第であることを心にきざんで、さまざまな勤めのやり方に日頃から関心を持ち、また親類縁者の中などにこれらのことに熟達した人があれば、面談の折には無益な雑談などはせずに、将来の参考となりそうなことを繰り返し尋ねては覚え込むのである。また古い覚書や絵図なども、すぐの役には立たなくとも借り受けて目を通し、または書き写しておく。

このようにして、それぞれの役目の勤め方の大筋を飲み込んでおくならば、いつ、どのような役を勤めることになっても安心である。第一、先輩や同僚を頼りにして教えを受け、助けに預かって任務を果たすなどというのは平穏な時世だからこそできるのであって、もしも世間に騒動が起こって、事態が差し迫っている場合には、他人の能力にすがってその助力を受けることは不可能であり、よくも悪くも、自分一人の予測で決着をつけねばならぬものである

とりわけ、戦陣における使い番などの役は、敵味方の兵力の多少、陣の配備の善し悪し、城の堅固さの程度、地形の有利不利、さらには合戦の勝敗を判断するまでの能力を身につけなければ勤められない。それであるから、昔から軍師の役は難しいものとされているのである。

しかしながら、使い役については、もしも偵察の仕方に間違った点があったにしても大抵は当人ひとりの失敗ということで事がすまされることが多い。ところが足軽大将より上の役について、采配を揮って軍勢を動かし、合戦の指揮をとるというのは、極めて重い役目である。なぜならば、すぐれた技量の者が人を討ち、劣った技量の者は人に討たれるというのが、古今を問わず戦場の定めであり、味方の人々の生死は大将の技量にかかっているからである。ところが、それについての自覚もないままに、采配を許された役についたことで思い上がり、人々の上に立っているなどということは、まったくもって不届至極と言わねばならない。》

武士は、いつ、どのような役につくかは主君のお考え次第である。いつ、どのような役につくことになっても安心できるように日頃から準備せよと誡める。なぜなら不測の事態が起きた時には人に頼ることは出来ない。自分一人の判断で処理しならず、役目に相応しい力が必要とされる。
使い番程のものであれば、合戦の勝敗を判断するまでの能力が必要であり、さらに足軽大将より上の役では技量のすぐれた者が技量の劣った者を討つのが戦場の習いであり、部下の生死を預かっていることを自覚できなければならない。

2014年4月25日金曜日

心得 第二十六 「修業の心がけは出家がまさる」

年功序列に甘えるなの一項で、「階級制厳しい出家と侍」に続くものである。

《但し、修業のあり方という点から見れば、修業中の武士のありさまは、同じく修業中の仏門の人々から見て、はるかに劣っているように思われる。なぜならば、仏門においては、まだ並みの僧の身分にあるうちに師のもとを離れ、さまざまな寺を巡り歩いて多くの学僧名僧の教えを受け、座禅の修行を積んで、将来、単寮、西堂、または長老、和尚の身分になって本山の住職を勤めるようになっても、少しも恥ずかしいことがないほどに教えを極めつくして、のちの出世を待つのである。これは修業のあり方としては、まことに最上のものといえよう。

武家においても、このようにありたいものではあるが、修業中の武士というものは、まだ役もつかず、末端の部署にある身分ではあっても、親の跡目、あるいは隠居後の家督を譲り受けて、それ相応の禄もあるため、衣食住の三つについて、何の不自由もない。このためまだ年若いうちから妻子を養い、朝寝、昼寝を日課とし、武士の日常の勤めである武芸の修行をさえ怠るほどであるから、まして日頃関係の薄い合戦の作法などにほとんと興味もなく、その日暮に年月を送るうちに、そろそろ白毛や髭も生え、額も禿げあがってきて、何となくもっともらしい年格好となってくる。すると、役の欠員を埋めるための人選に入るのだが、例えば使い番などという軽い役であっても、早速行き詰って、同僚の助けを受けながら、何とか勤めているという状態、そこへ、たまたまむずかしそうな遠国への使いなどの御用があったりすれば、たちまち困り果てて、旅の支度を口実に、先輩、同僚の所を訪ねては、役の心得を聞き出し、あるいは古い文書などを借り受けて、ようようその役を勤めるというしだいである。これも、幸いにうまくいったからよかったといえるものの、とうてい本来の姿とはいえない。》

ここでは、仏門の修行が武門の修行にまさっているという。
なぜなら、仏門においては並みの内から世間的な保護を離れ学問に身を置いているが、武門においては日常の生活を維持したまま修業を行う事になる。従って、日々の生活に追われ、修業がおろそかになるという。役目を通じて形は真似ることは出来るが、心が備わらないのである。
役割と立場の問題である。今日、混同されていることの一つである。
立場を確立していない者を役割につけると役割に見合う働きができないのである。
役割が人をつくるのではなく、立場が人をつくるのである。
成果主義の弊害はこの役割と立場の混同にある。主客転倒の始まりである。

2014年4月24日木曜日

心得 第二十五 「階級制厳しい出家と侍」

年功序列に甘えるなの一項で、「出家と侍」は似ているとして、比較検討する。

《昔からひとくちに、「出家と侍」といいつけてきたのは、どういうわけであろうかと考えたところ、なるほど出家と侍とは互いに似通ったとこらが見受けられる。 例えば、禅宗の方で、何々蔵主、何々首座などと呼ばれているのは、一般の僧であって、出先、末端の部署で組に所属している一般の武士と同格である。次に一段、階級が変わって単寮、西堂などと呼ばれているのは、武家でいえば目付、あるいは使い役組、徒士組などの組頭などの任にあるものと同じである。さらに同じ出家とはいっても、色のついた法衣を身に纏い、手には払子、竹箆を持って多くの弟子たちに説法するほどの人を長老、和尚などというが、これは武家にあてはめれば、わが家の指物を立て、陣羽織、采配などを許されて士卒を指揮し、合戦の命令を下す士大将、足軽大将、あるいは弓矢の六奉行(武者奉行、旗奉行、長持奉行、各二人の総称)などと呼ばれる武士と同じようなものである。このような点を考え合わせてみると、仏門と武門とは、そのしきたりから見て互いに似たところがあるので、「出家と侍」などというのであろうか。》
次のような階級的対応、階級制度があり、仕来りが似ていることから「出家と侍」などというのであろう。
  何々蔵主、何々首座    ⇔    出先、末端の部署
  単寮、西堂          ⇔    目付、あるいは使い役組、徒士組などの組頭
  長老、和尚          ⇔    士大将、足軽大将、あるいは弓矢の六奉行
  仏門の仕来り        ⇔    武門の仕来り

心得 第二十四 「忘れるな”常在戦場の心”」

「戦場を思えば骨惜しみはできぬ」の一項で、第二十三講「気楽な稼業にも文句たらたらとは」に続くものである。
《部門の生を受けた身としては、昼夜甲冑を放さず、山野海岸を家として暮さねばならぬものを、天下平穏の時代に生まれたがために、身分の高い者も低い者も夏は蚊帳を釣り、冬は夜具布団にくるまり、朝夕、好みのものを食べて安楽に生活しているのであるから、これを非常な幸福と考えるべきで、座敷の中での警備や近所へのお供、お使いお役などを苦労と思う理由は全くないのである。この事について話がある。
甲州武田信玄の家老の中でも、とりわけ戦上手といわれた馬場美濃守という侍は、「戦場常在」という四文字を書いて壁に掲げ、日常の教訓としていたと伝えられている。》

ここで説かれていることはわかり易い。侍の本分は〈変〉のときに発揮されるものであり、要するに「戦場での働き」にある。だから武士は「常在戦場」ということを忘れるなというのだ。
それは、その通りである、が、さらに深く理解したい。
前半部分で《身分の高い者も低い者も夏は蚊帳を釣り、冬は夜具布団にくるまり、朝夕、好みのものを食べて安楽に生活しているのであるから、これを非常な幸福と考えるべきで》と言って居ることから、次のように解釈を進めることができる。
今の平穏な生活を《非常な幸福》と実感できるのは、《「戦場常在」》の実感があるからである。
「戦場常在」の実感がなくなると武士の本分を失うにとどまらず、「幸福」というものを人感できない人間になる。武士道が〈文武両道〉にこだわった所以はここにある。武徳の上に、文徳を完成させる。

2014年4月22日火曜日

心得 第二十三 「気楽な稼業にも文句たらたらとは」

「戦場を思えば骨惜しみはできぬ」の一項で、第二十二講「日ごろの勤めはお役のうちにもはいらぬ」に続くものである。
《又、兵仗の警備、お供、お使いといったお役についても本来、自分の責任となっている勤めを果たすことさえ、えらい苦労のように考えて、大した病気でもないのに、欠勤を願い出て同僚の助けを受け、人に苦労をかけて何とも思わぬ者がある。又遠路にかけての使いと言えば、途中の旅費の出費や、道中の苦労を嫌って仮病を使い、出費や苦労に人をおしつけ、その場を逃れておいて、やがて出勤しては同僚たちに軽蔑されても平気でいる者もいる。又近い場所へのお供、お使いであっても、一日のうちに二度にわたったり、風雨のはげしい折などには、同僚たちの聞いているところで役にも立たぬ愚痴を遠慮もなく言い立て、どうせ骨を折る事なのに根性の腐った仕事ぶりを見せたりする。
これらは、すべて、侍の皮をかぶっていても、小者、中間と変わりない態度である。
どんなに激しい勤めとはいっても、畳の上でお勤務や、近所へのお供に出るくらいは、まったく気楽な役目に過ぎないのである。そのわけを述べよう。
戦闘の時代に生まれた武士は、幾度となく戦場に赴いて、夏の炎天には甲冑の上から照りつけられ、冬の完封には甲冑の下の素肌を吹き通されて、まことにつらい思いをしたが、その暑さ寒さから逃れる術とてもなく、雨に打たれ、雪をかぶり、山中や道の上で鎧の袖を敷いて寝たものである。しかも飲食するものといっては、玄米飯と塩汁のほかにはない有様、また対陣、城攻め、籠城などの苦労は、難儀とも苦労とも、実にひととおりの事ではなかったのである。


このように考えてみると、太平の世の警備、お供、お使いといった役目は、何とも気楽なものである。それなのに、この気楽な勤めさえも勤めきれぬような気持ちでは、戦場の労苦を果たして耐え忍ぶことができるであろうか。心ある武士から軽蔑されはしないかと、恥ずかしく思わなぬものであろうか。》

現代的解釈をすれば、次のようになる。一語一語の解釈に深浅はあるが・・・・。
《人は経験に学ぶことによって成長する》のである。《艱難汝を玉にす》、戦場での経験によって今日がある。武士の分限分際》を忘れてはならない。《質実剛健勤倹尚武》が武士の本分である。《経験しないことは学べない》のであるから、《誠実》であれ!!《恥を知る》武士となれ!!という。

2014年4月21日月曜日

心得 第二十二 「日ごろの勤めはお役のうちにもはいらぬ」

《大身、小身を問わず、武士の役目と言えば戦闘と工事の二つである。戦乱の時代にあっては、開けても暮れても、ここの戦いあそこの戦闘という次第で、武士は一日と言えども安楽に過ごすことはできなかった。
又、戦といえば工事がつきものであって、ここの要塞、ああそこの砦、あるいは合戦の場の城、国境の出城など、昼夜兼行の急ぎの工事をせねばならず、上下共にその労苦は並大抵のものではなかった。
太平の世にあっては、戦陣ということもなく、それに伴う工事とてもない。そこで、武将に従う大小の侍に対して、警備、お供、お使い、そのほかさまざまな役を定めて、ただそこにいればよいという程度の任務を与えてあるのだ。ところが、それこそが武士の本来の役目であるかのように思い込み、最も大切な戦闘や工事といった役目については夢にも考えようとしない。時たま幕府で行われる工事のお手伝いが主君に申しつけられ、その出費がかさむために、家中の大小の侍に対しても割り当てが来て、少しずつ金を出すようなことでもあれば、何か出さないでもよいものを出すかのように口惜しがって文句をいったりするのも、結局は、武士の最大の務めは戦闘と工事にあるということを意識しないところから来た不心得である。》

戦闘者である武士は、太平の世にあって、働く場がなくなった時であっても、その本分を忘れてはならないと誡めている。〈武〉を発揮する機会が少なく、〈侍〉なり、〈侍(さぶら)う〉機会が多くなっても気を抜かず、本分を忘れてはならないという。
その本分を弁えた時、今日の太平の有り難さ、仕合わせ(幸せ)が味わえるのである。

2014年4月20日日曜日

心得 第二十一 「下からの批判は主君への誹謗」

《一方、様々な役に当たる用人などの役目の者は、家系、家柄といった事とは関係なく、家中の多くの侍の中から、その人物だけを見てお選びになるのであるから役目には不足のような者はいないのが当然である。しかしながら、主君のお気に召した者であるため、ゆくゆくは役目が勤まるよう育ててやろうとのお考えによって、まだ若い者に対してお身のまわりの役などを仰せつけられることもあるのである。こうした者の中には、往々にして心得違い、無分別の者もおらぬわけではない。だからといって、それを見聞きしては問題に取り上げ、批難嘲笑することはよろしくない。いかに賢い者であっても、若気のためにお役が勤まらないのだと理解すれば、それですむことである。
およそ、家老、年寄り、用人などという役目は、主君のご判断によって仰せ付けられるのであるから、それらの人々のことを悪くいうことは主君を非難するのと同じこととなる。また、そうした人の力を借りねばならなくなった時には、機嫌を見計らい、手をそろえ、膝をかがめて、ひとえにお願いいたしますなどといわねばならぬ場合が起こらないとはいえない。そのようなとき、ついさっきまでは陰で批難嘲笑していたその口で、いかに用があろうとも、そうしたことは言えたものではない。そのようなことも、前もって考えておくべきであろう。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。》


主の用心によって、用人は任命されている。用人に対するには、心得違いをしないで、用心し、主の用心を受け止めることであるというのである。〈心は人に表れ、人は心を現わす〉。
真意を理解する力を養うこと。

2014年4月19日土曜日

心得 第二十 「目上の人はいたらずともあがめよ」

《主君を持って奉公している武士としては、同僚たちの身の上について悪事を見聞きしても、それを陰で噂をしないという心がけが大切である。なぜならば、自分にしても聖人賢人というわけでもないのだから、長い年月のうちには、何かのやりそこない、考え違いなども必ずあるということを前もって考えておくのである。
とりわけ、そのお家の家老、年寄りなどと呼ばれて侍たちの上に立つ人々について、「身分、俸禄共に重いのであるから、当然、人格、才能ともにそれ相応でなければならないのに、いっこうにそのようでない」などと批判することは、一間、理屈が通っているようだが、結局は理屈に合わぬことなのである。そのわけを述べよう。
天下を治められる将軍家のもとにおける老中などの人々は、その時代の数多くの大名たちの中から、先ずその人格によって選ばれたのであるから、その職にあるほどの人であれば、さして劣った人がいるわけはないのである。
しかしながら、一国、一郡を治める大名の家中においては、俸禄、家柄ともに家老職にふさわしいような侍は、多くの家臣の中にも数多くいるものではない。そこで、厳しく人を選ぶこともできかね、家柄と俸禄から見てふさわしい者の中から、先ずは人並みの者を選んで家老、年寄の列に加えておけば、次第に職務にも慣れ、年功も経て、後には役を勤めることもできるであろうとの、主君のご判断によって任命される場合もあるわけである。
そのような家老、年寄りの場合には、その身分、責任から見れば、いささか不足という人がいるのも、ありうることである。しかしながら、その不足の所を見たり聞いたりして問題にし、何かと批判して非難し、あざけるなどということは、はなはだ心得違いというべきである。
なぜならば、草木についてみても、年によってよく花が咲き、身を結ぶ年もあれば、花も実もよくできぬ年もある。人間についても同様で、賢い親の子に不出来なものが生まれ、そのまた子は親にまさる出来であるといったことは昔からのならいである。
主君の御目から見て、不足なところがお分かりにならぬわけではないのだが、その者の先祖代々の忠義、功績をお忘れにならず、その家柄に応じて重い役職についておかれたのであるから、御家来の身としては、まことにたのもしく、ありがたいことと思あわねばならない。
従って、もし、そうした家老、年寄りの口から、納得のいかない無理を言いかけられ、そのままにはしておかぬと思うときにも、言いたい放題に反論することはひかえて、適当に応答し、そのままにしておくのである。これが、もし主君のお言葉であったならば、どれほどのご無理があろうとも、一言の反論も許されまい。家老、年寄などについても元々主君のご名代の身分であり、その言葉は主君のおことばと同様の意味を持っている。ただ、それにしても、主君と家臣という相違はあるのだから、こちらの一応の考えを、できるだけ穏やかな言葉で述べることは結構であろう。但し、如何にこちらに道理があろうとも、家老、年寄などという重い身分の人たちに対して、ことばに角をたて、いいたい放題のことをいうなどということは、主君に対しても非常な無礼にあたるのだと判断するのが武士の道である。》

完全なる人はいない。俸禄、家柄ともに家老職にふさわしいような侍は、多くの家臣の中にも数多くいるものではない。》〈場〉に相応しい人が最初からいるわけではない。《その身分、責任から見れば、いささか不足という人がいるのも、ありうることである。》のだから、《無理を言いかけられ、そのままにはしておかぬと思うときにも、言いたい放題に反論することはひかえて、適当に応答し、》場を弁え、適当に対処すること、《判断するのが武士の道である。》という。
なぜならば、草木についてみても、年によってよく花が咲き、身を結ぶ年もあれば、花も実もよくできぬ年もある。人間についても同様で、賢い親の子に不出来なものが生まれ、そのまた子は親にまさる出来であるといったことは昔からのならいである。》と、〈自然の摂理〉、〈長幼の序〉によって調えられた〈場〉が人を涵養すると考えるのである。

2014年4月18日金曜日

心得 第十九 「可児才蔵、大いに怒ること」


《慶長のころ、福島左衛門太夫正則の家来に可児才蔵という武勇の侍がいた。この人は侍大将として、芸州広島城内の黒鉄門の守備にあたり、一日一夜、ぶっ続けの勤めをしていたが、老体のため、寝転んで休息をしていた。そこへ正則公の傍に召し使われている小坊主が鷹狩の獲物のウズラを持参して、これは殿様の鷹が取った鳥なので下さったものでありますと述べた。才蔵はこれを承ると、すぐに起き上がって、わきに脱いであった袴をつけ、本丸に向かってウズラを押し頂き、「御礼は只今よりそちらへ参って申しあげます」と述べてから小僧に向かい、「そのほうは、いかに子供とはいえ、ひどい大馬鹿者であるぞ。殿様の御意なら御意とまずいいもせず、よくも身共を寝たままにして殿の御意を聞かせたな。おのれ、子供ででもなければ考えがあるが、小僧のことゆえ、許してやるが・・・」と大いに叱りつけた。小僧は肝をつぶして急いで帰り、小姓たちの中でそのいきさつを話したことから、それが正則公のお耳に入った。そこで小僧を呼び出してお尋ねになったところ、小僧は才蔵の言ったことを残らず申し上げた。公は「それは、そのほうの不調法である。才蔵が立腹はもっともであるが、それにしても芸備両国の侍どもの心を、残らず才蔵の心のようにしたいものである。そのようであれば、何事も思うままになるであろうに」といわれたということである。》

福島正則は《賤ヶ岳の七本槍》の一人で、加藤清正らと共に秀吉子飼いの家臣であった。その福島正則の家臣の可児才蔵の話である。心得第十八で述べたように、「行住坐臥」忠義に励む武士に対し、その徳を損なうような振る舞いをすることを戒めたのである。
心が共有できれば、志も遂げることができるというのである。
《人は生垣人は城、情けは味方、仇は敵也》は武田信玄の言葉である。
一心不乱》《一意専心》、〈心情〉の高潔さを身上としたのである。

2014年4月17日木曜日

心得 第十八 「礼法を守るのは武士の特質」

忠孝の二つの道を守らねばならないのは、別に武士だけに限ったことではない。農、工、商の身分のものにおいても、親子、主従の関係は忠孝の道を尽くすことによってのみ作られる。しかしながら、百姓、職人、町人などの場合には、日常の行儀作法は二の次でもよいと言うところが違っているのだ。

たとえば、子供なり召使なりが、親や主人と同席しているとき、胡坐を欠いたり、懐手をしたりする。あるいは座っている親や主人に対して、立ったままでものを言うといった無作法があったとしても、親や主人を粗末にしない気持ちを持って誠実に尽くしていさえすれば、農工商の身分のものは忠孝の道にかなっているのである。

しかし武士においては、たとえ心の中でどれほど忠孝の道を守っていようとも、形の上に礼儀を尽くさぬ以上、忠孝の道を全うしているとはいえない。

主君に対してはいうまでもないが、両親の前においても無作法な振る舞いなどは、武士道を行おうとする者にとって許されることではない。さらには、主君や親の目の届かぬところにおいても、少しもだらしのない態度をとらず、常に礼儀を重んじるのが、武士の忠孝というものである

たとえば、どこかに宿泊して寝るときにも、主君の居られるほうへは足を向けず、槍や長刀をかけるにも主君のほうへ切っ先が向かぬようにする。また主君のお噂を耳にしたり、自分の口から主君のお噂を口に出すときには寝転んでいれば起き上がり、座っていても居住まいを正すといった作法を守ってこそ、武士本来の心がけといえよう。それに反して、主君の居られる方と知りながら足を差し向け、寝転んだままで主君のおうわさをし、または親から届いた自筆の手紙を押し頂きもせずに受け取って、大胡坐をかいたり、寝転んだりしたまま読んでは傍に投げ捨て、さてはその手紙を使って行灯の掃除をさせるなど、これらはすべて頼りにならぬ心がけによるもので、武士の忠孝の本道を外れた振る舞いである。そのような心がけのものは、義理を知らず、身内と他人との区別がついていないのだ。

このような者は、他家の者に出会っても、自分の主君のお家のよからぬことを並べ立ててはいいふらし、また、あかの他人であっても親しそうに近づいてくれば、喜んで親兄弟の悪いうわさを洗いざらいさらけ出してはあざけったり、非難したりするものである。

そうしたわけで、いつかは主君や親の罰に当たって、何か大きな災難に会い、武士の名誉を汚すような死に方をするか、たとえ生きていても、その甲斐もないような姿となるか、いずれにせよ無事に生涯を送ることは決してできないに違いない。


人として、忠孝を尽くす事は当たり前である。しかし、武士の〈忠孝〉は他の農工商の者とは違うという。既に、「心にかたちを、形に法を」ということを学んだ。武士の忠孝は「礼」にはじまる。心に思うだけでなく、形に現わさなければ不十分である。体感、体認、体得、体現である。
だから、行住坐臥武士として振る舞うことが大切であるという。「一事が万事」と心掛けるのである。

2014年4月16日水曜日

心得 第十七 「太平の世における堕落」

本著の訳者 吉田豊氏は「風習が形式化していく」ことについて、次のように言う。
《太平の世が続くなかで、戦国以来の風習が次第と形式化し、その本質が見失われていくことに、友山は警鐘を鳴らしている。合戦の道具であったはずの馬が、単なるステイタス・シンボルに代わり、さては利殖の手段とさえなっていく世相は、現代のモータリゼーションと一脈通ずる愚かしさを感じさせる。》という。
ステイタス・シンボル化が進めば、形式は独り歩きし、精神と離れる。そこに偽装が始まる。
太平の世とは、〈常法〉のときである。それはまた技能を養成する時である。「士農工商」の最上位に位置づけられた武士はその本分を忘れてはならない。
〈変法〉の為に養育した能力を使うべきところに使わず、間違ったもの(利殖)に使うと、武士の本分である忠義の精神が損なわれる。それを〈迷う〉といって避けた。
間違って精神が〈刀が鈍になる〉ことを懼れ、武士は清貧を尊んだのである。

この講を記している今日、「科学」の健全性について警告を発している記事が朝日新聞デジタルに掲載された。その原因が《科学の商業化》にあるというのである。瞑目すべきである。

2014年4月15日火曜日

心得 第十六 「”趣味と実益”の卑しさ」

《又武士の身として、馬に趣味を持つというのは、たいへん結構なことではあるが、これにも善悪二つのあり方が見受けられる。
昔の武士が馬を愛してというのは、一旦、戦いが起こったならば、甲冑をつけ、旗指物をつけて体が重くなり、自由に歩行することができず、戦場での働きは馬上でなければならなかったから、我が両足の代わりとして馬を重んじたのである。また場上で敵と戦う場合には、事と次第によっては馬も重傷を負い、命を落とすことさえある。そのように思えば、畜生ながらも哀れと思って、日頃の餌や手入れにも、何かと念を入れ、心を配ってきたものなのである。
これに対して、近頃の馬が好きだというもののうち十人に九人までは、人が持て余している悪癖のある馬を安値に買って曲を直し、あるいは田舎育ちの丈の低い馬を見つけてきては手入れをし、調教をして仕立て上げ、望むものが有れば高価に売り払うのを目的としているのであるから、自分の厩には、いつもよい馬を置くことはできずにいる。これではまるで馬商人、仲買人同様の根性であって、馬の趣味をまったく持たぬよりも、さらに困ったことである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。》



心得 第十五 「選ぶ基準は実用本位で」において、〈変〉の時、最も武士の働きを助ける〈馬〉の選び方を学んだ。ここではうまに趣味を持つことについて、二通りあるという。
戦場では人馬一体で働く。一心同体である。だから心を通わせた。しかしながら、近頃の馬が好きは、営利目的である。目的を違えて、商人根性、商業趣味に走る心を堕落として卑しんでいる。
新渡戸稲造『武士道』は《封建社会の身分制度は為政者である「士」の心が卑しくならないようお金に関わる「商」を最も遠い位置においた》という。

2014年4月14日月曜日

心得 第十五 「選ぶ基準は実用本位で」

遠い昔にあっては、武士道を弓馬の道といったほどで、大身小身共に弓を射、馬に乗ることを武芸の中心としていたということである。
現代における武士は、剣術、槍術、さらには馬術を重んじて、修業につとめるようになってきた。
そのほか、弓、鉄砲、居合、柔術などといった各種の武芸についても年若い武士としては、朝夕のつとめとして習熟することが望ましい。年を取ってしまってからでは、筋骨も弱まってしまうので、何を習っても思うようにはいかぬものである。
とりわけ小身の武士としては、馬術については十分な修練を積みたとえ非常に欠陥があったり、または手に負えぬような馬であっても、いっこうにさしつかえなく乗りこなせるようでありたい
それというのは、乗りごこちがよくて、しかも外見のよい馬などというものは、めったにいるものではなく、たとえいたとしても、大身の武士の乗り料となって、小身の武士の厩につなぐことは出来ないからである。
馬術さえよく身につけているならば、これはよい馬だが欠陥があるとか、悪癖があって人に乗られることをいやがるような馬を見つけて、安価に買い求め、乗り料とするならば、いつも財産不相応なほどのよい馬をもっているのと同様なわけである。
そもそも、馬の毛色の好き嫌いや、毛の色取りの欠陥などを大きく問題とするのは大身の武士のすることであって、小身の武士としては、自分の好みに合わぬ毛色や、色どりに欠陥があって人の嫌うような馬であっても、乗り料としてすぐれてさえいれば、これを買い求めて飼う心がけが望ましい
昔、信州村上家(旧つ葛尾城主・武田信玄に破れて越後に逃れた)の侍大将に、額岩寺某といって、三百騎ほどの手勢を持つ、合戦上手の武士があった。彼は自分の乗り料にも家中の馬にも世間で嫌うような毛色の馬をも平気で買い求めて飼うような家風をつくりあげ、乗馬の練習には馬場を使わず、城下の広い野に五十騎、百騎とうちつれて出かけ、額岩寺が先頭を切って原の中を縦横十文字に駆けめぐり、馬から落ちるかと思えば飛び乗り、乗るかと思えば飛びおりるなど自由自在に乗りこなすものほめ、未熟なものを馬下手としたものである。こうしたわけで、当時、甲州の武田信玄の家中においても、信州の額岩寺のような敵に対しては、厳重な偵察をせねばならぬといわれていたが、これは額岩寺にとて非常な武道のほまれといえよう。
又、武士が戦場で乗るための馬は、気性は中の上ほど、体高は四尺一寸から三寸まで、頭の高さは中ぐらい、後脚の間隔は中程度がよいとされている。ところが予備の馬を持つことも出来ぬ小身の武士が、ただ一頭の持ち馬を選ぶのに、気性はげしく体高が高く、頭の位置も高く、五脚の間が一間もあるような大きなものを喜び、前足の筋を切ったり尾を切るなどして、生まれもかつぬかたわ馬にして喜んでいるなどは、すべて武士本来の道をはずれた無知から生じた道楽といえよう。

なぜならば四肢の筋を切った馬は、山道、長途の歩行、あるいは川を渡るといった時に早く疲れて役に立たない。又尾を切った馬は、溝や堀などを飛び越えるときに、決まって尻がいがはずれがちなものである。また五脚の間が広すぎる馬は、細道を通るのによろしくない、というのが古来からいわれているところだからである。

物によって、身を高めるのではなく、業によって身を高めることを説いている。物持ちとなれる大身の武士には、物で飾ることは出来るが、小身の武士には分不相応になる。従って戦場で武士として十分な働きをするためには技を磨けという。つまり自分を高めることを勧めている。
額岩寺がその働きを武田の家中におそれられたことを武士の誉れとしたことを例に挙げ、実用本位の馬の選び方を説いている。要するに、〈質実剛健〉、本分に基づいて生活を整えることを勧める。

2014年4月13日日曜日

心得 第十四 「戦乱に備えて油断怠りな」

《右にいう士法、兵法の二つの修行さえできあがっていれば、平時においては、何の不足もなく、一般から見ればまことに立派な武士、よいご家来と思われるものである。
しかしながら、本来、武士とは"変"のときのための職分である。"変"とは世間の騒動のことをいう。
そのような場合には、"甲冑礼なし"のことばどおり、日ごろの士法はしばらく離れて、普段ならばご主君様、殿様などとお呼びしている方を御大将と申し上げ、家中大小の侍たちを軍兵、士卒などと呼び、上下ともに礼服を脱ぎ捨てて身には甲冑をまとい、手には武器を携えて敵陣に向かって進む。この態勢を軍陣という。こうした際の、さまざまなやり方についての教えを軍法と呼ぶのであり、これを知らぬということがあってはならない。
次に戦法というのは、いざ、敵と味方が出会って一戦が始まろうというときに、味方の陣の配置、兵の動かし方に成功すれば勝利をうることができ、これに失敗すれば勝利を失って敗北するというのが決まりである。そのやり方についての教え、秘伝といったことを戦法といい、これもまた知らずに済ましているわけにはいかぬものである。この軍法、戦法の二つにより、変法には二段ありというわけである。
右に述べた常法、変法の四段の修行を完成した武士を最高の侍というのである。常法の二段だけが身についていれば、自分ひとりだけでの勤めならば、間に合うものであるが、士大将、物頭、奉行といった重い職分につくには、変法の二段についての心得が不十分であっては、お役に立つことができない。
ここのところをよくよく考えて、どうせ武士の身分にあるからには、士法、兵法についてはいうまでもなく、軍法、戦法の奥義にいたるまでも修行につとめ、なんとしても最高の侍と呼ばれるまでになりたいものと、及ばぬまでも努力する心がけが大切なのである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。》

本来、武士とは"変"のときのための職分である》ということである。〈変〉の時に備え、用心することによって武士の本分は全うされる。〈変〉に対する備えは、〈変〉における陣の配置、兵の動かし方にあるという。つまり〈変〉の時とは、異〈常〉の時であり、〈常〉の時には現れない、人の本性が現れる時である。そのことを踏まえて陣を敷き、戦法を組み立てるという。戦法は先人の教え秘伝の中にあり、歴史に学ぶことを重視する。〈変〉の時の備えができて初めて上品の武士と言えるのだという。

2014年4月12日土曜日

心得 第十三 「まず平素の修養につとめよ」

《武士道における学問とは、内面的にはその心を道によって正しくし、外面的にはその行動を道に基づいたものとするということにつきる。
心を道によって正すとは武士道の正しいあり方に従って物事を判断し、道を踏み外す方向には毛頭も傾かぬように心がけるとの意味である。そのためには、聖人君子の書き残された書物にくわしい人について、正しい道についての詳細を学ぶことが望ましい。
また、行動を道に基づいたものとするということについては、二法、四段の内容がある。
その二法とは常法と変法であり、常法のうちには士法と兵法が、変法の内には軍法と戦法とがあって、計四段となるわけである。
まず士法とは、朝夕手足を荒い、入浴をもして身体を清潔に保ち、毎日早朝に髪を結い、時々月代をも剃り、季節に応じた礼服を身につけ刀、脇差しに心を配ることは勿論、寒中であっても腰に扇子を絶やさない。また客に応対する時は、相手の身分にふさわしい礼儀を尽くし、無用の言葉を慎み、一椀の飯、一服の茶をいただくにも、その様子が無様とならぬように心がける。奉公人の身分であれば、非番、休息の際にも無駄に過ごさず、書物を読み、手習いに励む。そのほか、武士としての故実慣例にまで心を配り、日常の立ち居振る舞いまでも、さすがは武士といわれるほどの態度をとる。これが士法ということである。

次に兵法というのは、右の士法の面においてはどれほど申し分ないとはいっても、武士であるからには、武器の取り扱いができなくては無意味である。そこで腰の刀を抜いての勝負に習熟することからはじまって、槍術、乗馬、弓、鉄砲、そのほか何によらず武芸という武芸に興味を持って鍛錬に励み、これに熟達して自信をつけること、これが兵法の修行なのである。》

『大学』に、《天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。(天命之を性と謂う、性に率(したが)う之を道と謂う、道を修る之を教と謂う)》とある。
武士道は天命である性に従って道を修めることであり、それは先人・君子の教えを学ぶことなのである。
修業には、常法と変法の二法があり、常法には士法と兵法があり、変法には軍法と戦法があるという。

2014年4月11日金曜日

心得 第十二 「廉恥心について」

本著の訳者 吉田豊氏は「日本人の廉恥心」について、次のように言う。

《本書の題名が「初心集」なのだから、当然といえば当然だが、著者・友山は、読者として想定する武士たちを決してそう立派な存在とは考えていなかったようである。

生まれつきの義人とか勇士などというのは、そもそも例外的な存在であって、大部分の武士は、常に堕落の可能性を持っているというのが彼の認識である。そして、その堕落を防ぐ最大の歯止めは”人々の下げ墨”を恥じる心であり、この廉恥心を失いさえしなければ、次第によい習慣をつけて一歩一歩、修養を積むことができると考えているのである。

人間の醜さ、弱さについてのリアルな認識と、それを克服するための筋道を明らかにしたこの考え方は、武士道における”恥”の思想の原型と言えよう。こうした思考は、日本人の精神の根底に、いまだに、大きな影響を及ぼしているが、一人一人の内面的な主体性を養うことより、専ら他人の見る目、いわゆる世間体を気にするひ弱な精神を生む一因ともなっている。》

いわゆる、日本の『恥の文化』が根付いた端緒がここにある。これはルースベネディクトがその著『菊と刀』において、指摘したことである。
吉田氏のいう「世間態を気にするひ弱な精神を生む一因」となったが、またそれが『惻隠の情』を生む一因でもあると考える。
《強きをくじき、弱きを助け》「ひ弱な精神」を受け入れた「世間」は、〈コミュニティ〉の原型である。
そこには「弱さの強さ」をコミュニティの豊かさ、或いは力と考える「コミュニティ・ソリューション」の基本的な考えが生きて居たように思える。

2014年4月10日木曜日

心得 第十一 「恥を知る心が前進の原動力」

《一般に、義を行う修行の心得といえば、わが妻子、召使をはじめ、身近な人たちから、軽蔑されることをまず恥じて身を慎み、さらには広く世の人々から軽蔑を受けぬようにと考えて不義をせず、義を行うよう習慣付けていけば、それが自然と習慣となって、後には義を好み、必ずや不義を嫌う心がけができてくるものなのである。

また武勇の道においても、生まれつきの勇士というものは、戦場に臨んでは、矢や鉄砲がどれほど激しかろうとも、ものともせず、忠と義の心になりきったわが身を的として、突き進んでいく。その勇ましい心は、おのずと形にあらわれ、その振る舞いの見事さはなんともいえぬものである。

しかしまた、人によっては、さても危ないことだ、これはどうしたらよかろうなどと、胸もとどろき、膝もいくらかは震える有様とは言いながら、皆が行くのに自分ひとりが行かぬとあっては、味方の人々の見る目もあり、後日、口も聞かれぬ始末になろうというので、やむなく決意をして、右の勇士とともに進むというような人もいるものである。これは、右に上げた生まれつきの勇士に比べては、はるかに劣っているように思えるけれども、このような人であっても、こうした場面に幾度となく出合い、場数を踏んでそれに慣れていくならば、やがては度胸も据わり生まれつきの勇士と比べても、さして劣ることのない武勇の誉れ高い天晴れの武士に、必ずやなれるのものなのである。

したがって、義を行うにも、勇を励むにも、まず恥を知るという以外に道はないのである。人に不義といわれようともいっこうに気にすることなくそれを重ね、腰抜けと笑われても、笑わば笑え、かまわないなどと臆病なまねを続けるようなものに対しては、なんとも教えるすべがない。

以上、初心の武士の心得のために申すものである。》


いわゆる節義・節操を重んじたのである。節義節操に悖ることを恥じたのである。《節義・節操・悖る》などの、は現在では死語となった。確認しておこう。
節義とは、《節操道義。人としての正しい道を踏み行うこと。》
節操とは、《節義を堅く守って変えないこと。自分の信じる主義主張などを守りとおすこと。
要するに、《節義・節操とは、自分の信じる、人としての正しい道を踏み行うこと》である。
武士道は、「人としての正しい道」があると信じ、それを実践することである。その道から外れることを悖るという。
〉とは、道理にそむく。反する。》とあるが、大字典によれば、《まどわす》という意味があるという。他人を惑わす、迷惑をかけることを謹んだことが伺える。自立を重んじたと考えられる。

2014年4月9日水曜日

心得 第十 「義を守る心に三つの姿」

《また同じく義を行うといっても、それには三つの段階がある。 たとえば、知り合いの人と同行して、どこかへ行くとする。その連れの人が百両の金を所持して懐中に入れているのだが、持ち歩くのは大変だから、戻ってくるまでの間、あなたにお預けしておきたいというので受取人には、内緒にして金を預かり、出かけて行った先で、その預けた人が食中毒なり卒中なりの急病にかかり、そのまま亡くなってしまったとする。この場合、金を預けた、預かったということは、他には誰一人知らぬ道理である。》

《こうした時、さて気の毒なことになったと痛ましく思う心のほかには毛頭も邪念を起こすことなく、預かっていた金は、その人の親類縁者などによくわけを話して、すぐに返してやるようであれば、それこそ真に義を行う人ということができよう。 》

《次に、その金の持ち主といっても、一応の知り合いというだけで、大して親密な間柄でもなく、金を預かったことを他に知るものもいないのだから、こちらから問いただすこともない。ちょうど自分も不自由している折でもあり、これは好都合なこととなった、放っておいても差し支えあるまい・・・・などと邪念が起きかかるのだが、なんと醜い心が出てきたものよと、自分で自分に愛想を尽かし、きっぱりと心を入れ替えて、その金を返すようであれば、それは良心に恥じて義を行う人ということができよう。》

《第三には、損金を預かっているということを、妻子なり家来のうちに一人でも知っているものがあるために、その者の思惑に気兼ねし、後にうわさになることを恐れて、その金を返すというのは、人に恥じて義を行う人ということができよう。こうした場合には、もし誰一人知る人がいないときにはどうなるであろうと多少心細くもあるが、それでも一応は義を知り、これを行う人といえないわけではない。》

義を行う人に、三段階あるという。
《全然邪念がない》人、《邪念を自分で恥じる》人、《邪念を他人に恥じる》人である。
つまり、第一は、素直で、義そのもので、無私の人、第二は、自分でその邪念を質すことのできる人、第三は、邪念を他人の力を利用し、質すことのできる人ということである。
私たちはどれであるだろう。何処に、自分を置いて行動しているであろうか。
状況の変化に応じで、経験に応じて成長し、考え方も成熟する。しかし、善悪の基本、信実はその状況によって変わるものではないのである。〈正しい〉とは、「一に止まると書く」のである。

心得 第九 「不義に流れやすいのが人の心」

《武士というものは、義と不義の二つの区別をしっかりとその心にとどめ、ひたすら義を行うようにつとめ、不義の行為を慎むよう決意しさえすれば、武士道を全うすることはできるのである。》

《義、不義とは善と悪とであり、義はすなわち善、不義はすなわち悪である。 およそ人として、善悪、義不義の区別が判らないなどということはないのであるが、誰しも義を行い、善に励むというのは窮屈で苦労なことと感じ、不義を行い悪事をすることはおもしろく気やすいものであるから、ひたすら不義、悪事のほうへばかり走って、義と善につとめるのはいやになってしまうものなのである。》

《もし、当人がまったくのばか者であって、善悪も義不義もすべて区別がつかぬというのであれば論外であるが、自分の心では、これは不義の悪事であると承知しておりながら、義理を踏み外して不義を行うなどというのは、武士の心構えとも思えず、まことに残念というほかはない。》

《そのようになる根本はといえば、物事に耐える精神が弱いためであるといえよう。耐える精神が弱いといえば、少しは格好よく聞こえるが、さらにその根底は、臆病な心から不義が生まれるのだと理解してよいであろう。》

《それであるから、武士は、常に不義を慎み、義の道を進むことが大切だというのである。》



〈義〉という字は、字源によれば《「己之威儀也従我羊」 我が威儀を正しく立派にする意なり。故に羊(善美の意)と我を合す。仁が他人との関係を示すのに対し、義は性善の発露、すなわち豁然の気と一致する》という。つまり、〈義〉とは「我を羊の如くにする」ことである。
武士道は性善説なのであり、武士は義に生まれついている、だから、義を理解できないはずはないという。
武士の本分は「義を貫く」ことにあると言われるが、〈貫〉には《代々血すじがつらぬいている意》があり、本来、武士は、上述のように義に生まれついているのだから、本分を尽くせば、自ずと義が貫かれて行くのである。だから、それは難しいことではないというのである

2014年4月8日火曜日

心得 第八 「孝子は逆境の主君をも捨てぬ」

《このような根性のある武士であるならば、主君に奉公する身となっても、忠義の道をもよくわきまえるものである。其の主君の威勢のさかんなときはいうまでもないが、たとえ主君のお身の上に思わぬ事態が起こり、非常な苦境に立たれたようなときにも、かえってますます真の忠節を尽くし、味方百騎が十騎となり、十騎が一騎となってまでも、主君のお側を離れることなく、幾度となく敵の矢面に立ちふさがって主君をお守りするといった忠義の武勇を勤めるに違いない。》

《それというのも、親と主、孝と忠と、その名が変わっているだけで、そのもととなる心の誠はただひとつなのだから、したがって、古人の詞にも“忠臣は孝子の門に求めよ”といわれているという。》

《たとえ親に対しては不幸ではあっても、主君への忠義はまた別のことであるなどということは、決してあり得ない道理である。自分の身の根本であるところの親に対してさえ孝行を尽くすことができぬほどにいたらない心で、自然のつながりでない主君の恩を身に感じて忠義を尽くすことができるわけはないではないか。家において親に不幸な子は、世間に出て主君に仕えるようになっても、絶えず主君の威勢を気にして、もしも落ち目になったとみれば、さっさと戦場を捨て、あるいは敵方に内通、降参などの不忠を働くというのが古今を通じての例である。誠に恥ずかしく、戒むべきことではないか。》

貞観政要』に《大事は皆小事より起こる》といっています。枝葉末節にまで心配りをし、行動を整えるということですね。利巧に働くことを戒めています。利を求めるのではなく、義を貫くことが武士道の本分です。
『大学』で、《古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致む。知を致むるは物に格るにあり。物格りて后知至まる。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身修まる。身修まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。》と言って居ます。個人と国家のつながりをこのように捉えていました。
武士道は、いわゆる〈システム思考〉を実践することであり、その基底はここに窺えます。

2014年4月7日月曜日

心得 第七 「申し分のない親には、つくしてあたりまえ」

《親に孝行を尽くすといっても、それには二通りの姿がある。
第一には、親の気持ちが素直であって、心からその子を愛し、教育にも熱心で、その上人並み以上にすぐれた知行に添えて、武具、馬具、家財までも不足なく取りそれろえ、よい嫁までも迎えて、なに不自由なく家督を譲り渡してから隠居して引き籠った親などに対しては、その子が、通り一遍の孝行をしたぐらいでは、別に感心することもなく、ほめることとてもない。》

《これに対して、親の気持ちが素直ではなく、しかも、もうろくしてひがみっぽくなり、くだらぬ理屈ばかり言って、息子には何一つ譲ってやったわけでもないのに、生活に苦しむ息子に養われているのだから満足すればよいものを、その分別もなく、朝夕の飲み物、食物、衣類などについても、いろいろのねだり事ばかりいい、さらには他家の人に行き合えば、”倅が不幸者なので、この年になって思わぬ苦労、お察しのつかぬほどの目にあっております”などと言いふらして、わが子が面目を失うことも少しも構わない・・・。このような心得違いの親に対しても、親として尊敬し、取りにくい機嫌もとり、ただただ親が老衰したことを悲しんで、毛頭も粗末にせず、孝行の誠をつくすような者こそ、真の孝子ということができるのである。》

親子関係は、時代と共に変わる。今、封建時代の親子関係をそのまま求めることはできない。
上述のように大きく二通りの親子関係が考えられるが、親らしいことも不十分に、愚痴や不満を他人にこぼし、子供の面目を台無しにする親に対しても「孝」を尽くすのが「孝子」であるという。
少子高齢社会にあって、「自立」、「独立」、あるいは「親離れ」、「子離れ」が求められ、親子関係も相応に相応に変化している。
しかし、「孝」ということについては変わるものであろうか。十分に尽くしているであろうか。
今日、「老害」という言葉は、「孝」という「年長者」に対する〈はたらき〉を離れ、「孝」をないがしろにして居る表徴ではないか。
世の中が豊かになったお陰で、自我欲求をふくらませ、他所の家庭と比較し、「親が至らない」と不平をもっていないだろうか。そうして「これだけで十分だと割り切ってしまう」子供が多くなれば、どうであろう。

特に、認知症等高齢者問題が浮上しているとき、親子関係の改善が社会的負担を軽くすることになる。

その為にも、「親らしい親」であると認識しているか、また認識されているか、自省してみよう。

2014年4月5日土曜日

心得 第六 「不幸者は不義理者、武士の資格なし」

《武士という者は、親に対する孝行をどれほど尽くすかによって、その値打ちが決まるものである。たとえ、その知恵、才能が人に勝れ、弁舌さわやかで容貌がよくあろうとも親に対して不孝なものは、なんの用にも立ちはしないのである。

そのわけはといえば、武士道においては、本と末ということを知って、それに正しく対処することを大切に考えるからである。本末についての理解が浅くては、義理を知ることはできず、義理を知らぬものは武士とは言えない

さて、本末を知るということだが、親とは我が身の本であって、わが身は親の肉体の末である。ところが末であるところのわが身を第一に考える心があると、それが原因となって、親を粗末にあつかうようになるのである。これが本末を知らぬということなのだ。》


所謂、本末転倒していては正しく対処することは出来ないのである。親の教えを枝葉末節にまでまずは行き渡らせることが孝のはじめである。〈正〉という字は「一に止まる」と書く。本来あるべき姿、形を体現することに、武士の本分である〈孝〉ははじまる。

心得 第五 「乱世のころとは時代が違う」

《武士というものは、農、工、商の上に立て、物事を行う身分の者であるから、学問をも修め、広く物事の道理を心得ておらねばならぬ次第である。

しかしながら、乱世の頃の武士は、十五、六歳ともなれば、必ず初陣に立って、一人前の働きをしたものであるから、十二、三歳ともなれば、乗馬、槍、弓、手法、そのほか一切の武芸を見につけねばならなかった。

したがって、見台に向かって書物を開き、机によって筆をとるなどという暇などはほとんどなく、自然と無学文盲となって、一文字ひとつ書けぬような武士が戦国の頃にはいくらでもいたものである。

だが、これは本人の心がけや親の教育が悪かったというわけのものではなく、当時は武芸第一に励むことが必要であったから、このようになったのである。

現在、平穏な時代に生まれ合わせた武士にしても、武芸の心得がいいかげんだってよいというわけではないが、乱世の武士のように、十五、六歳になれば必ず初陣に立たねばならぬという世の中ではないのであるから、十歳を過ぎた頃からは、史書、五経、七書等の書物を読ませ、手習いもさせて、ものを書けるように注意深く教え、さて十五、六歳ともなって、次第に体力もつき、元気になってくるにつれて、弓矢、馬術、そのほか一切の武芸を身につけさせるようにするのが、治世の武士が子供を育てる正しい道といえよう。

右に述べたような乱世の武士が文盲だということには、一応の理由もあるが、治世の武士が無筆文盲であってはそのいいわけはできない

もっとも、子供については幼少のことであるから、それを責めるわけにもいかない。すべては親の油断、不始末というよりほかはない。それも結局、本当の子供への愛情ということを知らぬためといえよう。》


身分、職分、気分を与えられて自分になる》と言われたように〈分を弁えることが封建時代の自覚であった。時代が変わり、武士が四民の最上位に立つことになると、武士には文武両道が求められ、相応の自覚が求められたのである。平和になると〈武〉というものがおろそかになるが、武芸を身に着けさせるのが子供を育てる正しい道だというのである。
要するに、「知行一致」である。文に偏り、頭でっかちになるのではなく、素養を鍛え、「体得・体現」することを求めたのである。

2014年4月4日金曜日

心得 第四 「腰の大小は死を覚悟するしるし」

《武士という者は、いても立っても、四六時中の間、勝負の心構えを忘れることなく暮らすことが、何よりも大切とされている。

わが国においては、外国と違って、どれほど身分の低い町人、百姓、商人風情のものであっても、それ相応に錆びた脇差の一本ずつも所持するが、これは武の国、日本独特の風俗であって、永遠に変わることのない神聖な伝統である。

しかしながら、農工商に身分の者にあっては、武道をその天職としているわけではない。これに対して、武家にあっては、たとえもっとも身分の低い小者、中間、人足のたぐいにいたるまでも、常に脇差を身から離してはならないのがおきてである。

ましてや侍以上の身分の者は、どんなときにも腰から刃物をはずしてはならぬとされている。それであるから、心がけのよい武士は、入浴の場所にまでも、刃をなくした刀や、あるいは木刀などを用意しておくというが、これも勝負を忘れぬ心構えによるものである。

このように、自宅の中においてさえ、この心がけが必要なのであるから、まして、よそへ出かけて行く際には、往復の途上、又行った先に於いても、狂人、酒乱の者、またはどのような馬鹿者に出合って、不慮の事態となるかわからないということを覚悟せねばならないのである。古人のことばにも、「門を出るより敵を見るがごとく・・・」などといわれている。

武士の身として、腰に刀剣を帯びるからには、いかなるときにも勝負の心構えを忘れてよいというものではない。勝負の心構えを忘れなければ、自然と死を覚悟する心境にも通じることができる。

腰に刀剣を帯びていながら、勝負の心構えが常にできていないような侍は、武士の皮をかぶってはいても、町人、百姓と少しも変わらぬものといえよう。》


武士は常に佩剣した。これは武徳の国の神聖な伝統・風俗なのです。心に刃をあて、〈勝負の心構え〉を忘れませんでした。《好事魔多し》といわれるように、不慮の事態に合うこともある。そのような事態にも打ち勝つ(克服できる)力を旨としたのです。
《武徳の国》として語り継がれてきたのも本来〈優しく、弱い〉私たちを〈勇ましく、強く〉し、正しく働かせる為に生まれた知恵だと考えてはどうでしょう。

2014年4月3日木曜日

心得 第三 「欲望をおさえ、末永きご奉公を」

《身分の高い低いにかかわらず、人々の覚悟ができていないために、過食、大酒、淫乱等によって健康を損ね、内蔵の病気を起こしたりして、思わぬ若死にをし、たとえ生きてはいても、なんの用にも立たぬ病人となったりするのである。常に死を覚悟していさえすれば、まだ歳若く、健康ではあっても、普段から衛生に気をつけ、飲食をすごさず、色の道をも慎むように心がけるから、その身も健康となって、病気一つせずに長寿を保つことができるのである。

また死を遠い先にことと思えば、この世にいつまでもいられるものと考えるところからいろいろな欲望が起こり、人のものを欲しがり、わが物を惜しみ、まるきり百姓町人のような根性に成り果てるものである。常に死の覚悟を定めて置くならば、この世ははかないものと達観できるから、物事をむさぼる気持ちも自然と薄くなり、ほしい、惜しいといった汚い根性も、それほど出てこないものである。死を覚悟することによって人格までも向上するというのはこれをいうのである。

もっとも、死を覚悟するとはいっても、吉田兼好が徒然草に書いている心戒という僧のように、ただ一日中、自分の死を待ちかねて、ちぢこまっているようでは出家仏弟子の身で修行をするものの心がけとしてはともかく、武士の修行のあり方としてはふさわしいものではない。死というものをそのように考えていたのでは、主君や親に忠孝をつくすこともできず、武士としての職分も果たせないから、まことに困ったものである。

公私共に昼夜となく責任を果たして、いくらかからだに暇ができて心静かな時には、忘れず死の覚悟を新たにせよということなのである。楠正成が子息の正行に諭した言葉にも、「常に死をならえ」といったと聞いている。》


「死を覚悟することによって、物事を貪る気持ちがなくなり、汚い根性も出ず、人格が向上する」といっています。つまり、生に執着し、物欲を満たす道は、人格形成の道とは異なるものです。
〈生への執着〉が社会を発展させ、社会を成熟させた。少子高齢化はその帰結です。
モチベーションマネジメント、〈慎み〉が忘れられました。

2014年4月2日水曜日

心得 第二 「軽率が災厄を招く」

《また、死の覚悟を忘れて油断するところから、慎重さを欠き、人の感情を害するようなことを言って口論となり、聞き捨てにしてもよいようなことまで聞きとがめて議論をし、または意味もない遊山見物や人ごみの中を歩き回っては、得体の知れぬばか者にぶっつかって思わぬけんかを起こし、命を失って主君のお名前を汚したり、親兄弟に迷惑をかけたりするのも、すべて死を常に心に覚悟することを忘れたところから起こる災難である。

つねに死ということを心に決めているならば、一言一言を大切に考える武士としての心がけによって、人にものを言い、または人の言葉に返事をするようになるから、意味もない口論をしたり、人が誘っても下らぬところへ出かけたりすることもせず、思わぬ危険に出会うこととてもない。さまざまな災難から逃れられるとは、このことをいうのである。》


「死の覚悟を忘れて油断するところから・・・」という、今日最も疎遠なものそれが〈死の覚悟〉ではないでしょうか。「延命、長寿」=〈仕合わせ〉だけで、〈生きがい〉〈志〉は生まれるのでしょうか。

2014年4月1日火曜日

「養生」ということ

近代化は自由意志による「営為」を重んじた。それは意図的に「創る」ことである。
自然の開拓は創意工夫によって進んだ。〈時間〉を創り出し、歴史を辿り、歴史からパターンを引出し、時間の単位を短くすることで、〈育つ〉〈養う〉ことを〈創る〉ことに換え、進歩を創り出した。

そして今、知育、徳育、体育が叫ばれ、人格をも創り出そうとしている。
格子を作り、「型」にはめようというわけである。人格の大量生産である。
帰結は、STAP細胞問題に現れた、常識の欠如である。
「大丈夫」?

「素養」がないのである。それは欠陥品ではないか。品格が貧格になったか!!
不味い!!!
「創生」ではなく、「育生」「養生」が求められるのではないかと思う。
『養生』というものは
「空手や武道を稽古し、小さいころ井ノ口の先生(大本教)や叔父(大本教の信者)に教えられたりしたが、生きる発想の原点は『西式健康法』だったと思う」とは私の兄の言である。
私も同様である。未だに〈木枕〉を愛用している。
西式健康法は叔父の中野好雄が我々一家に勧めていたものである。
  
  1)人は直立歩行する
  2)人は衣服をまとう
  3)人は家に住む
  4)人は火食する
  5)人は文化生活を行う
  6)人は社会生活を行う
  7)人は生存競争をする
  以上の7つの人間と動物の違いが人体に及ぼす害を緩和するように考案された運動や食事療法を行う。


改めて、〈養生〉という事を考えてみる。
そこで『養生訓』(参照元:http://home.att.ne.jp/theta/mo/you/zenbun.html)
我々の健康感がどう育てられたかを考えてみる。

心得 第一 「一日一日を今日が限りと心得よ」

《武士というものは、正月元日の朝に雑煮の餅を祝おうと箸をとったときから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜のように死ということをこころに覚悟するのを第一に心がけとするものである。常に死を覚悟しておりさえすれば、忠孝二つの道をもはずさず、さまざまな危険や災難にもあわず、健康のうちに長く寿命を保ち、さらには人格までも立派になるなど、多くの利益があるものである。
そのわけはといえば、そもそも人間の命というものは夕べの露、明日の霜にたとえられ、まことにはかないものとされている。とりわけ危ないものは武士の命であるのに、人々はいつまでも長生きができるかのように勝手に思い込んで、主君への奉公も、両親への孝行も末永くできるもののように考えるところから、主君への奉公を怠り、両親への孝行もいい加減なものになってしまうのである。
わが身命は、今日はあっても明日はないものとの覚悟さえあるならば、主君に対しても今日が奉公の仕納め、親に仕えるのも今日が限りと思うようになり、主君の御前で御用を承るにも、両親の顔を拝見するにも、これが最後となるかも知れぬとの気持ちにならずにはいられまい。それであるから、死を覚悟することが、忠孝の道に一致するというのである。》

聖書にも「明日を思い煩う勿れ」という言葉があります。
「一日の苦労は一日にて足れり。」ですね。
今という時間を生きましょう!!