2014年10月3日金曜日

心得 第六十三 「家臣を養う主君の本心は?」

武士ほど高くつくものはないの一項で、「恩に感じ、命を捧げることを期待」へと続くものである。

《大身の武士は言うまでもないが、たとえ小身者の身であっても主君からそれ相応の俸禄を頂き、一人前の武士としてご奉公するほどの者であれば、わが身もわが命も、かりそめにも自分のものと考えてはならないのである。それはどういうわけか。
武家の奉公人の中には、大きく分けて二つの種類がある。
足軽以下、小者、中間といった身分の者たちは、小額の俸禄を頂いて、昼となく夜となく手足を働かす御奉公をしているが、その代わりに大切な一命を主君のために捧げねばならぬというきまりはない。従って、武士としての最高の働き場である戦場において、逃げ去ったとか、臆病な振る舞いがあったとか言っても、別段、不届きと呼ばれて追及されるおそれもない。いわば労力だけを売って暮らす奉公人ということができよう。
これにひきかえ、武士というものは、二つとない大切な命を捨てて主君につくすことを第一の約束として奉公する身分にほかならない。
従って、下々の分の者のように、日頃手足を働かせてご奉公することはないが、いざ対象のご用というときには、一歩も退かずにあっぱれの討死を遂げ、あるいは敵の放つ矢の前に立ちふさがって、主君、大将の身代わりを勤めるのが役である。したがって、主君もこれを大切に思し召され、日頃から多大の俸禄を下さり、目をかけておられるのであって、乱世においてはそれも当然のことだったと言えよう。しかし、泰平の世となって今日では、そのような必要もなくなっており、およそ武士ほど費用がかかり、高くつくものはなくなっているのである。
なぜならば、大身の武士は言うまでもないが、たとえわずか百石の縁であっても、十年の間には一千石の石高となる。これほどのものを親、祖父の代から何十年にわたって拝領しているのであり、それだけの米を金額に引き当てて考えれば、どれほどの金銀に当たるであろうか。
この様に思うならば、主君の御恩がいかに深いものであるかがわかるが、同時にそのようにしてご家来を養っておられる主君のご本心はどのようなものであるか、そのことをも考えることが大切である。》

武士は、恩と奉公という、主従関係の中で生きる存在であるということであった。その武士の本分は変の時の働きにある。従って、泰平の世において、足軽身分以下の人たちのように売れる労力を持たない武士を養うことは非常に高くつくものである。それだから、たとえわずかでも俸禄を頂く武士は主君の恩がいかに深く、その苦労がどれほどのものであるか慮ることが大切だという。
我々は、主従関係を下から批判する傾向をもっている。しかし、主君も武士であった。
主従一体となって守ったものは単に家だけであったのか。
わが身の保身だけでは三百年の太平を生き抜くことはできなかったはずである。
高くつく武士であっても養い育て、守ろうとしたものそれは何であったろうか。

2014年10月1日水曜日

心得 第六十二 「奉公は任務に忠実なのが第一」

口ごたえも迎合もともに不忠の一項である。

《主君のお側近くにご奉公していると、自分の役目について、あるいはその他のことについて、主君から直々に「こうしたことを、どう考えるか」などとお尋ねを受けることがあるだろう。
こうした場合には、まず自分の考えを一通り申し上げるのだが、これに対して主君が「いや、それはよろしくない。このようにすべきではないか」などと言われ、その御意見が道理に外れていると思った時には、これを謹んで承ったうえで、「それでは、私にも思い違いがあったかと存じます」と申し上げ、後は御機嫌のよい折を見て、またお話するようにすべきである。
そのようにすれば、そのうちにまたお考えが変わり、誤った御判断に陥らずに済むもので、結局は主君の御為にもなるのである。
これに反して、幾度も主君のおことばを返して、「いえ、決してそうではございません」などと遠慮もなく申し上げることは、その家来の立場にもよるが、よほど注意せねばならない。一般にお家の譜代でもない奉公人の場合には、こうした態度は非常に無礼とされているから、いかに主君の御為を思ってのことであろうと、許されぬことである。
そうかといって、主君大言葉が道理に外れていることを承知していながら、その場その場で御機嫌がよければよろしいと思い直して、「さきほど申し上げましたのは私の考え違いでございました。ただいま、よく考えてみましたところ、なるほど殿さまのお考えのとおりで結構と存じ上げます」などと申し上げるなどは、実にこの上ない大不忠、不届きの沙汰である。
およそ奉公を勤める武士としては、主君のお気に入り対などという気持ちを毛頭も持たないのが、第一に大切な心がけなのである。自分に与えられた任務を怠ることなく勤めていればよろしいので、もし、それでもお気に召さぬとあれば、わが身の不運とあきらめるのが奉公を勤める武士の本道というものである。》


主君が自ら気づくように、機が熟すのを待つのが奉公人の本分である。
分を弁え、迎合を避け、その場の雰囲気に左右されることなく、義を貫くことである。
機が熟さず、気に入られなければ不運とあきらめる。そのような自覚を持つことが武士の本道であるという。
侍はそのような自覚を持ち行動する人のことである。
時代が違うとはいえ、忙しく、状況適応を優先し、顧客に迎合している我々には耳の痛い話である。
〈待つこと〉〈自覚する〉ことが今求められているように思う。
〈寺〉という字を持つ、《侍、待、持》には共通するものはなにか?
吉田氏は【解説】で、《目上の人との応答は難しい。ともすれば迎合に走りがちだし、そうなるまいと意識しすぎると、不自然に我を張って悪印象を与え、裏目に出ることが多いものである。封建の身分制の下では、余計その危険が大きかったに違いない。》といっている。
〈義〉というものは、〈あきらめる・すてる〉ことによって、貫くことができる。
キリスト教でも「人その友のために命を捨てる、これより大いなる愛はなし」という。