2014年4月29日火曜日

心得 第二十八 「年功だけでは使いものにならぬ」

年功序列に甘えるなの一項で、「自己啓発は若いときから」に続くものである。

《これを禅僧などでいえば、役に付かぬ僧のうちに朝寝昼寝を勤めにして、教義の学問を怠って居たまま、出世の年功になってきて、頭が禿げたのを武器にして長老、和尚に成り上がり、身には彩色の法衣をまとい、手には払子などを握って、多くの弟子に説法をしているようなものである。但し、こうしたインチキ坊主の場合には、大事な法会の席などで、なにかの失敗でもあれば人々の物笑いにされて、わが身ひとりが赤恥を書いて引っこめばそれでことがすみ、一般の人々に難儀がかかるというわけではない。
それにひきかえて武家においては、士大将、物頭、物奉行などという、仏門で言えば和尚役を勤める武士が、もし采配を振りそこない、軍勢の動かし方が悪かったときには、合戦の勝利を失い、味方の士卒の生命を危うくするのであるから、その被害は極めて大きい。ここのところを十分に考え、どうせ武家としての修業をするからには、無益の平の侍として暇が或時から、武芸の収斂はもちろんのこと、軍陣の敷き方や戦い方などについてもよく心掛けて奥義を極め、またほかの役目についても同様、たとえ采配を持つ役柄を仰せつかっても、勤まらぬなどということのないように修業を積んでおくことが大切なのである。》


ここで説くことは重要である。
修業の方法としては禅家の方に軍配を上げながら、修業の成否が実際の命のやりとりを左右する武家における修業は誤魔化しが効かないのである。
今日の社会で偽装が蔓延るのはこの虚実の間を解しないことにある。
真剣になる》という言葉を体解することが武士道である。
訳者の吉田氏はこの章を共に厳しい階級制度のもとにある武士と僧侶とを引き比べて、修業の心得を説いているが、ここでは、年功や家柄によりかかりがちな武士よりも、実力一本の僧侶の方が、はるかに真剣な修業をしているとして、武家のあり方に反省を促している点が注目される。》解説する。
俗に絡まれては、聖のみに生きる僧侶に劣るのは当然である。しかし、それでは俗において聖を実現する武士の修行としては不十分である。なぜなら、聖に生きるだけの僧侶以上の修業がなければ、俗を超えて生を実現できないからである。年功序列は俗の制度である。この俗の制度を聖に保つのが武士の役目であり、武士道に求められるものである。
帰一」という言葉がある。《別々の事柄が、同一のものに帰着すること。》である。〈きいつ〉は「器一」を書くこともできる。
「器一」ということを考えてみた。「器度と器量が一致すること」とすれば、「帰一」と似た意味になる。《心身一如》を説く武士道は「器一」を目指している。
名器は形だけではないのである。《玉磨かざれば器を成さず》なのである。

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