「年功序列に甘えるな」の一項で、「階級制厳しい出家と侍」に続くものである。
《但し、修業のあり方という点から見れば、修業中の武士のありさまは、同じく修業中の仏門の人々から見て、はるかに劣っているように思われる。なぜならば、仏門においては、まだ並みの僧の身分にあるうちに師のもとを離れ、さまざまな寺を巡り歩いて多くの学僧名僧の教えを受け、座禅の修行を積んで、将来、単寮、西堂、または長老、和尚の身分になって本山の住職を勤めるようになっても、少しも恥ずかしいことがないほどに教えを極めつくして、のちの出世を待つのである。これは修業のあり方としては、まことに最上のものといえよう。武家においても、このようにありたいものではあるが、修業中の武士というものは、まだ役もつかず、末端の部署にある身分ではあっても、親の跡目、あるいは隠居後の家督を譲り受けて、それ相応の禄もあるため、衣食住の三つについて、何の不自由もない。このためまだ年若いうちから妻子を養い、朝寝、昼寝を日課とし、武士の日常の勤めである武芸の修行をさえ怠るほどであるから、まして日頃関係の薄い合戦の作法などにほとんと興味もなく、その日暮に年月を送るうちに、そろそろ白毛や髭も生え、額も禿げあがってきて、何となくもっともらしい年格好となってくる。すると、役の欠員を埋めるための人選に入るのだが、例えば使い番などという軽い役であっても、早速行き詰って、同僚の助けを受けながら、何とか勤めているという状態、そこへ、たまたまむずかしそうな遠国への使いなどの御用があったりすれば、たちまち困り果てて、旅の支度を口実に、先輩、同僚の所を訪ねては、役の心得を聞き出し、あるいは古い文書などを借り受けて、ようようその役を勤めるというしだいである。これも、幸いにうまくいったからよかったといえるものの、とうてい本来の姿とはいえない。》
ここでは、仏門の修行が武門の修行にまさっているという。
なぜなら、仏門においては並みの内から世間的な保護を離れ学問に身を置いているが、武門においては日常の生活を維持したまま修業を行う事になる。従って、日々の生活に追われ、修業がおろそかになるという。役目を通じて形は真似ることは出来るが、心が備わらないのである。
役割と立場の問題である。今日、混同されていることの一つである。
立場を確立していない者を役割につけると役割に見合う働きができないのである。
役割が人をつくるのではなく、立場が人をつくるのである。
立場を確立していない者を役割につけると役割に見合う働きができないのである。
役割が人をつくるのではなく、立場が人をつくるのである。
成果主義の弊害はこの役割と立場の混同にある。主客転倒の始まりである。
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