2014年4月22日火曜日

心得 第二十三 「気楽な稼業にも文句たらたらとは」

「戦場を思えば骨惜しみはできぬ」の一項で、第二十二講「日ごろの勤めはお役のうちにもはいらぬ」に続くものである。
《又、兵仗の警備、お供、お使いといったお役についても本来、自分の責任となっている勤めを果たすことさえ、えらい苦労のように考えて、大した病気でもないのに、欠勤を願い出て同僚の助けを受け、人に苦労をかけて何とも思わぬ者がある。又遠路にかけての使いと言えば、途中の旅費の出費や、道中の苦労を嫌って仮病を使い、出費や苦労に人をおしつけ、その場を逃れておいて、やがて出勤しては同僚たちに軽蔑されても平気でいる者もいる。又近い場所へのお供、お使いであっても、一日のうちに二度にわたったり、風雨のはげしい折などには、同僚たちの聞いているところで役にも立たぬ愚痴を遠慮もなく言い立て、どうせ骨を折る事なのに根性の腐った仕事ぶりを見せたりする。
これらは、すべて、侍の皮をかぶっていても、小者、中間と変わりない態度である。
どんなに激しい勤めとはいっても、畳の上でお勤務や、近所へのお供に出るくらいは、まったく気楽な役目に過ぎないのである。そのわけを述べよう。
戦闘の時代に生まれた武士は、幾度となく戦場に赴いて、夏の炎天には甲冑の上から照りつけられ、冬の完封には甲冑の下の素肌を吹き通されて、まことにつらい思いをしたが、その暑さ寒さから逃れる術とてもなく、雨に打たれ、雪をかぶり、山中や道の上で鎧の袖を敷いて寝たものである。しかも飲食するものといっては、玄米飯と塩汁のほかにはない有様、また対陣、城攻め、籠城などの苦労は、難儀とも苦労とも、実にひととおりの事ではなかったのである。


このように考えてみると、太平の世の警備、お供、お使いといった役目は、何とも気楽なものである。それなのに、この気楽な勤めさえも勤めきれぬような気持ちでは、戦場の労苦を果たして耐え忍ぶことができるであろうか。心ある武士から軽蔑されはしないかと、恥ずかしく思わなぬものであろうか。》

現代的解釈をすれば、次のようになる。一語一語の解釈に深浅はあるが・・・・。
《人は経験に学ぶことによって成長する》のである。《艱難汝を玉にす》、戦場での経験によって今日がある。武士の分限分際》を忘れてはならない。《質実剛健勤倹尚武》が武士の本分である。《経験しないことは学べない》のであるから、《誠実》であれ!!《恥を知る》武士となれ!!という。

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