2014年6月30日月曜日

死の覚悟

「死の覚悟」を制度的に迫られているのが今の日本人である。「楢山節考」を想うを前に述べた。

「日本人と死の覚悟」「続・日本人年の覚悟」というブログを見つけた。
「同類が・・・」と考え、他人の「死の覚悟」評なるものを参照しながら、考えて見た。

日本人と死の覚悟

  • 総務省によると、昨年10月1日時点で、65歳以上の高齢者の人口は初めて3000万人を超え、総人口に占める割合(高齢化率)は24.1%と過去最高を更新した。1990年に12.1%だった高齢化率は12年間で倍になり、全都道府県で65歳以上の人口が14歳以下を上回っている。
  • 「今の日本人には『老・病・死』を自分で引き受ける覚悟がない」
  • 老いが受容できなければ、死が受容できるはずがない
  • 現代の価値基準は「健康」「若さ」「生産性」にあり
  • 生産に参加するから尊いのではなく、どのような状態でも、生きているということには使命があり、存在意義がある
  • 日本医師会はTPP[3](環太平洋連携協定)参加によって国民皆保険は崩壊すると訴える。
  • 病院に行って病名を付けてもらうと、そのうちなんとかなると考え、「お年寄りは医者の飯(メシ)のタネ」になっている。
  • 本人自身が治せないものは医療も治せない
  • 戦前の「鴻毛より軽い命」が戦後の「地球より重い命」へとコペルニクス的転回を経て、日本人は日常生活の場面から死を消し去った。
  • 「死の外注」が進み、死が日常の場面から追いやられた。
  • 「死が非日常化されたため、本来自然であるはずの現象が、今や不安や恐怖の対象になってしまっている」
  • 医療現場でも実際に「自然死」を見たことがない医者が増えている。
  • 医療への過剰期待も加わって、老も病も、場合によっては死もコントロールできるという幻想につながる。
  • ドゥフカ=思い通りにならないこと」を表す。
  • 「死を視野に置いて今を生きることの重要性」
  • 最期に目をつぶる瞬間、後悔することが減るだろう。
《老いが受容できなければ、死が受容できるはずがない》とは、まったく、その通り。「喜怒哀楽」の個別感情を味わうことが必要だ。〈濃く〉がどうとか判ったようなことをいうが、苦み、渋み、辛みなどの深さは年齢とともに、また弱さときに頓に感得できるものである。このチャンスを逃してはならない。
《死の外注》という現代を象徴するキーワードは、《仕合わせの外注》でもあり、外発的な死の受容は、一生に一度の苦しみを回避することである。それは最大の不仕合せだ。
最後に、《後悔することが減る》とあるが、「前向きであれば、後悔できない」と考えている

続・日本人と死の覚悟

  • 医療や介護に対する国民の意識が変わらない限り、根本的な改革はできないと、
  • 家庭の介護機能の低下とともに「生」のみが謳歌(おうか)されるようになった。
  • 医療(医療者、薬、技術)に対しては「信仰」にも似た過度な期待を持つようになった
  • 病気やケガを治す主役は、患者自身の「自然治癒力」であって、医師の腕や薬の力ではないと語る。自然治癒力は、年齢と共に衰える。
  • 諦めるのに時間とお金がかかることになる。
  • 本来は治すための医療を徹底するほど、死から穏やかさを奪い、死にゆく人に無用な苦痛を与え、悲惨な結果を招来することになる」と中村氏。
  • 「簡単に医療を受けられなかった以前のほうが、よほど安らかに死ねたのではないか」と同氏は問う。   
豊かさは、「意気地を無くす」ということだ。
自然に還る時には、借金は清算しなければならない。生きた分だけ借金は多くなっているのである。
年齢に応じでその都度支払うべき借金(例えば、病気にかかり、免疫抗体をつくる苦労)があったにもかかわらず、それを薬で誤魔化していた。そのつけがたまっているのである。人生の最期でこの借金を払うのは同党の覚悟が必要になるのである。

幸せは仕合わせとも表記する。
〈仕合う〉ことであり、それは年齢に応じ、与えられた生を、生きることが〈仕合わせ〉である。
「医療の充実」が「医療への過度の期待」を生み、「生の投資(医療費)」により、〈主体的な生〉ではなく、〈従属的な生〉により、仕合わせを実現しようとしているようだ。
《生老病死》を、医療は患者の主体的・主観的なものから、医療関係者の従属的・客観的なものに置き換えている。同時に〈仕合わせ〉を本人の内発的なものから、関係者の外発的なものに置き換えている。

〈死の覚悟〉にしてもそれが内発的なものか、外発的なものかでその意味は大きく変わる。
年とって、外発的〈死の覚悟〉をしなければならないのは最大の不幸である。
諦めるのに時間とお金がかかる》のだ、死ぬまで、間に合うかどうか常に不安に苛まれることになる。

2014年6月28日土曜日

心得 第五十八 「意志薄弱は憶病の証拠」

勇者、不勇者の鑑別法の一項で、「畳の上での勇気とは」から続くものである。
《これに対して不勇者はどうか。彼らは主君や親を敬うといっても表面だけのことで、本当に大切に思うまごころは持っていない。それだから、主君のお家の禁制や親たちの嫌がることはしまいという自制がなく、行くべきでない場所をうろつき、するべきでない行為にふける。万事に我儘が先に立ち、朝寝昼寝を好み、学問などは大嫌い、武士の天職である武芸を習うといっても、なにか一つを突き詰めて身に着けようとする気がなく、あの芸、この術といい加減にならって、実際の腕は立たないのに口先ばかりの芸自慢をしゃべりまくる。わずかばかりの知行をいただけば、それを前後の考えもなしに使いまくって、役にも立たぬ馬鹿騒ぎや食道楽には惜しげもなく金をかけるかと思えば、非諜なことには費用を惜しみ、親譲りの古い鎧のおどし毛は切れ、塗の剥げたのを修理しようともしない有様であるから、何よりの大切な武具や馬具が不足していてもそれを点検し新調することなど思いもよらない、もし病気にかかったときには主君への奉公もできず、親たちに心配、苦労を掛けることになるとの考えもないため、大食、大酒を過ごし、色の道にふけって、自分の寿命にやすりをかけるような真似をしている・・・。
これらはすべて、物事を耐え忍ぶということのできぬ柔弱未練の心から起こることであり、不勇者、臆病武士の証拠であると判断して、まず間違いはない道理である。
こうしたわけで、勇者と不勇者との区別は、泰平の世の畳の上においても、まぎれもなく見分けられるというのである。》

真心があれば物事に耐え、従弱未練を断ち切り、我儘に振る舞うことはなくなる。
そうであれば天職である武芸を怠ることはなくはずである。
要するに、勇者不勇者は初めから〈在る〉ものではなく、〈成る〉ものなのだ。
因果関係で物事を捉え、その因を心の置き方にあると考えた。
《平生往生》なのであり、《一事が万事》である。
従って、現在の姿の中に、将来を読み取ったのである。

心得 第五十七 「畳の上での勇気とは」

勇者、不勇者の鑑別法の一項で、「意志薄弱は憶病の証拠」へと続くものである。
《武士道を論ずるとき、最も重んじられているのが、忠、義、勇の三つの美徳である。この三つを一人で完全に兼ね備えている武士を、最高の侍というのである。
忠義勇の三字を続けて口で言うだけならば何の苦労もないが、この三つを心に刻み付け、身をもって実践し通すというのは極めて大変なことである。
従って、古来から百人、千人の武士の中にあっても、最高の侍というものはまれであるといわれているのである。
さて、忠節をつくす侍、義理を重んじる侍というものは、日ごろの行動を通じて判断がつくので、比較的、知られやすいということがいえる。それにひきかえ、勇気ある侍というのは、現代のような泰平安楽な時代には、ちょっと判別する機会がないのではあるまいかとの疑問もあるようだ。
しかしながら、そういうことはいっこうにない、よくわかるものである。
それというのは、武士の勇気というものは、甲冑を身に付け、鑓や長刀を手にして戦場に臨み、勝敗を争うときになって、はじめて発揮されるというものでは決してないからである。日頃の畳の上での勤めの中で、これは勇者、これは不勇者という見分けが、鏡に映すようにはっきりとできるものなのだ。


なぜならば、生まれつきの勇者とは、すべての善を積極的に行い、様々な悪をきっぱりと拒絶する者だからである。従って、主君や親に仕えても、人には真似のできぬような忠義、孝行をつくし、少しでも暇ができれば学問を学び、武芸を鍛錬し、贅沢を慎んで一銭の出費をも節約する。それでは吝嗇できたない根性かと思えばそうではなく、これは出さねばならぬものというときには、他人は出せそうにないほどの金銀を惜しげもなく出してしまう。主君から禁じられたことや親たちの嫌うことについては、どんなに行きたいところへも行かず、したいこともしないで、夫君や親の意向を大切にする。自分の健康をいつまでも保って、一度は大きな手柄を立て、お役にたちたいという執念を持っているから、摂生に心掛け、食べたいもの、飲みたいものもおさえ、人間として最大の迷いとされている色の道をも慎む。そのほか、すべてのことがらについて、困難や誘惑に負けぬ根性があるというのが、勇者である証拠である。》

武士に求められた忠、義、勇の三つの美徳を戦場ではなく、日常の生活の中で見分けることが出来るかということである。

2014年6月24日火曜日

心得 第五十六 「雨さえ漏らねば結構」

玄関は立派に、居間は粗末にの一項である。

《奉公を勤める武士が、主君からか家屋敷を頂戴し、普請などを行う際には、外側の長屋門、玄関の様子、座敷の有様などについては、身分相応に、いくらか立派にしておくことが、望まし。というのは、どこの城下においても、白の一番外側の一画にある武家屋敷のところあたりまでは、他国の人々も入り込み、眺めていくものであるから、そこにある武士たちの家々が立派であれば、なるほど城下も賑わい、家中も安定していると思うであろう。これは主君のお為にもなることである。
しかし、それ以外の奥座敷や妻子などの住む場所は、雨さえ漏らなければどんなに見苦しくとも我慢して、家の普請などにはできるだけ費用をかけないようにする心構えが必要である。何故なら、乱世の大名たちは城を構えるにあたって、常に籠城の覚悟をしていたから、城内二の丸、三の丸に奥屋敷であっても軒は低く、梁の間は狭くして、万事手軽なつくりとするよう定められていた。まして城下の外曲輪に住む武士たちの屋敷については、もしもの時には、すべて自ら火をかけて取り払うたてまえであったから、後々まで残すような普請などすることがなかったのである。
そこから、いたって手軽な工事のことを「根小屋〈城のまわりの家〉普請のようだ」などというのである。
こうして考えると、たとえ今のような太平の世であっても、立派な武士となることを志すものならば、家屋敷のつくりにいろいろと凝って、多額の費用をかけ、いつまでもそこに住もうなどと考えるのはあまり感心できない。また、思わぬ火事にでも会えば、焼け跡をそのままにしておくわけにはいかず、さっそく相当の小さな家でも建てねばならない。ところが、そうした考えもなしに、財力以上の家を立てて金を使い果たし、こんなに借金をしてしまったなどと喜んでいるなどは武士として誠に不心得至極のつまらぬ道楽というよりほかはない。》


家は仮の住処と考えていたかのようである。マイホーム主義の否定である。
吉田氏は【解説】で次のようにいう。
《文字通りのマイホーム主義への批判である。生活の近代化、合理化を唱える識者が、「日本人のすまいは玄関や座敷ばかりに金をかけて、主婦の居間や台所が一番冷遇されている」と説くようになってから久しい。その効果は大いにあがって、今や主婦にとって、まことに居心地の良い家が続々と建てられていることは歓迎してよいのだろう。だが、評論家書士が口を極めて避難した、外回りばかりに金をかける考え方が、かつては「主君の御為にも少しは罷り成る」、つまり忠義の心のあらわれであったとは、知る人は少ない。》

個人主義が標榜され、「公共の福祉」に反しない限り、「幸福の追求」が保障されている現代ではマイホーム主義も当然の成り行きであろう。しかし、問題は、「それで幸せになったか」ということである。

2014年6月23日月曜日

漱石はお坊ちゃんに語った!!

最後は金目」発言 石原環境相、きょう福島で謝罪 - 毎日新聞
漱石は、学習院で講演し、坊ちゃん嬢ちゃんに金力について語っている。
《金力についても同じことであります。私の考によると、責任を解しない金力化は、世の中にあってならないものなのです。そのわけを一口にお話しするとこうなります。金銭というものは至極重宝なもので、何へでも自由自在に融通が利く。例えば今私がここで、相場をして十万円儲けたとすると、その十万円で家屋を建てることもできるし、書籍を買うこともできるし、また花柳社界を賑わすこともできるし、つまりどんな形にでも変わっていくことができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれを振りまいて、人間の徳義心を買い占める、即ちその人の魂を堕落させる道具とするのです。》
金力によって、人は徳義心を失うという現実はあるのです。
そして、また『現代日本の開化』において、
《日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らない中こそ研究もしてみたいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の方が幸福であるという気にもなります。》
といっているのです。

経済力優先で、世の中すべて金次第という風潮の中で、〈フクシマ〉の災禍を現実として受け止め、何とか自分を誤魔化して「金の問題じゃないよね」と言い聞かせ、立ち上がろうとしていた。
そこに、「やっぱり金でしょう」といわれたら、これまでの辛労、煩悶を札束で簡単に吹き飛ばされたようで、「そんなもんじゃない!!」という意地が湧いてくるのは当然ですね。
この事が示すものは、世の中は「金目」ではないものを求めているということですね。
「勘定」という言葉を改めるチャンスですね。
《後悔先に立たず》ですが、自省が求められているのは、我々全ての日本人ですね。

2014年6月14日土曜日

法の前に道理あり

エジプト:セクハラに罰則…女性は疑問視「道徳観が…」
道徳は、素養の問題であり、三つ子の魂が密接に関係すると思われる。
付け焼刃な制度改革よりも、性根を叩きなおすこと、性根は歴史的な産物であるから、歴史を紐解き、現代生活を見直すことがどうしても必要になる。しかし、性根を叩きなおすことは人間性を作り直すことに近いものになる。それを良しとするか、節操なく現状のままに、自然にことが成就するのを待つか、待つとしても何を待つのか、具体的なイメージがないのではないか。それこそが問題である。
古い道徳観では現代的な生活(多様性を生かす)を制御できないことは、理解できても、それに代わるものは何か、が判別できないのである。それでは前にも、後ろにも行けない。

さて、これはエジプトの事であったが、この事例は我々にも当てはまらないであろうか?

2014年6月12日木曜日

心得 第五十五 「頼りになる友を探せ」

遊び友達は無用の一項である。
奉公を勤める武士というものは、多くの同僚の中から、勇気にすぐれ、義理を重んじ、思慮深く才能あり、言うべきことははっきりと述べるような武士を選んで、日頃から親密となり、公私ともに深い交わりを結んでおくことが大切である。
そのような武士というものは、家中の多くの同僚の中にもそうたくさんはいないものであるが、たとえ一人、二人であっても、その他の友人を何人も数多く持つのに匹敵し、なにかというときには非常に頼りになるものである。一般に、武士が友人を持つのに人をえらぶことをせず、誰とも彼とも親しくしては飲食の交際ばかりを頻繁にしているのはよろしくない。なぜなら、武士が親しい人間関係をむすぶためには、長い間に亙ってお互いの精神を見と
どけ合うことが必要なのである。それを、ちょっと付き合ってみて、あれは面白いぞ、話が合うぞといったことから、武士らしくもなくだらしのない交際をして、たがいにもたれあって小唄や浄瑠璃をうたっては夜を明かし、おれ、おまえといい合うほど仲良くなったかと思えば、つまらぬことからいい合いになって絶交し、誰も仲裁しない状態となる。そしてまた、いつの間にか仲直りをするなど、どこをとっても武士らしい一本筋の通ったところのない友達づきあいをしているものがある。こういう連中は、姿や形は武士であっても、その心は人夫、人足と変わるところがなく恥ずかしいしだいである。よくよくつつしむように。》
「朱に交われば紅くなる」のが、自然の道理である。自然に振る舞うことを理想としたが、義理を体解することを第一とした。義理を弁えない交際を恥じたのである。

2014年6月9日月曜日

心得 第五十四 「あれも知らぬ、それも許せぬ・・・では」

お家の歴史を知らぬは恥の一項である。
《奉公を勤める武士として、古参の者は勿論のこと、たとえ奉公して日の浅い新参であっても、主君のお家の起こり、代々のご先祖のこと、ご親類方の続柄、さらには家中の人々のうちでも、世間に名を知られているものの噂などについては、古老の人に問いただして、詳しく承知しておくことが必要である。なぜなら、他家の人々と同席して話し合った時、自分が奉公しているお家について尋ねられ、それも知りません。そのことも聞いておりませんなどといっていては、うわべは立派に見えていた者までも、なにか頼りなく思われてしまうものだからである。》

武士の本分は『忠孝仁義』にあり、それは、的確な判断によって達成される。判断の基準は仕来りにある。奉公する家の仕来りを知らないでは的確な判断は行えない。間違いは、一種の隙である。隙を見せることを恥じとしたのである。

2014年6月7日土曜日

心得 第五十三 「倹約とケチの相違」

「倹約もご奉公のため」の一項で、「小心者の浪費は身の破滅」から続くものである。

《そこで、小身の武士としては、平常からそのようなことを考えて、収入にふさわしい暮らしをし、少しでも不必要なことには金を使わぬよう心がけて、これはどうしても必要ということだけに金を使うようにするべきである。これが倹約の道というものだ。
ただし、倹約ということについては、一つの注意がある。それというのは、大身、小身ともに、倹約倹約といって出費を切り詰め、暮らしを質素にして節約に努めているうちに、まもなく家計が持ち直し、やがては手にしたことのない金銀がたまってくる。そうなると、ひたすら金が貯まることを喜び、減ることを惜しむ一方の卑しい根性となって、しまいには、出すべき出費もいやがり、出し惜しむような義理知らずとなってしまう。
このような者は、ただ金銀をため込むことばかりを考えているのであって、倹約ではなく吝嗇というものである。百姓町人ならばともかくとして、武士の吝嗇とあっては「三宝の捨て者(仏から見放された役立たず)」といって、最も嫌われるものなのだ。
なぜならば、人間として千金にも代えられぬ尊いものは我が命であるが、義理のためにはそれさえ捨てるのが武士である。それを、たかが金銀を、義理よりも大切にして使うのを惜しむようなきたない根性の持ち主がどうしててかけがえのない一命を惜しげもなく捨てることができるであろうか。
倹約の道を行うに当たって心得がいるといったのはこのところである。》

《質実剛健勤倹尚武》が武士の品格であった。倹約は武士の本分を尽くすために必要とされた。倹約が高じて、吝嗇に陥り、その覚悟を失うことのないように誡めているのである。
今日的に考えれば、「安全第一、リスク回避は重要である。しかし、リスクテイクしなければれて飛躍するチャンスは失われる」という誡めである。

心得 第五十二 「小心者の浪費は身の破滅」

「倹約もご奉公のため」の一項で、「倹約とケチの相違」へと続くものである。

《主人を持ち、奉公する武士というものは、大身小身の別なく、常に倹約を心がけ、家計を破綻させぬよう十分に考えることが大切である。もっとも、多くの俸禄をいただく武士の場合には、たとえつまらぬことに金銀を費やして一度は家計に穴を開けても、直ちに反省して、ここを切り詰め、あそこを削りというように万事節約につとめるならば、やがて家計を持ち直すことができる。これは暮らしに余裕があるからできることなのである。
ところが小身の武士が大身のまねをして無用なことに金をかけ、家計に穴を開けてしまった場合には、暮らしにゆとりがないために次から次へ赤字が尾を引いて、どれほど節約しても間に合わず、しまいには後にも先にも行けぬような破綻を招くことは目に見えている
しかし、家計が成り立っているかどうかは私事であり、奉公人として勤めているからには同僚との釣り合いということもあり、どうしてもやむを得ない出費があるものである。そうした場合には、仕方なしにさまざまな算段をこらし、いうべきでないことを口にしするべきでない真似もして、人々から不義理なやつだ、恥知らずだと呼ばれる結果となるのも、結局は、家計をうまく治められなかったための失敗から起こったことである。》

家計のようは倹約・節約にある。精錬潔白、正々堂々を旨とする武士は智謀・策略をめぐらすことを卑怯とする傾きがあった。常法の時には「家を斉える」が重要であり、武士がその節操を分け前るには節約、倹約が必要とされた。そこでも分に応じ、余裕を考えることを説いている。
【閑話休題】
勘定を合わせることが重要になる。現代では、勘定は「金銭的な帳尻合わせ」的な意味にだけ用いられるようになったが、語源は「いろいろ考えあわせたあげくの結論」を意味するものであり、「勘」の字が当てられた。当然感情も含まれたうえでの結論であり、「勘定=感情」で、結論されることもあった。
「家計と生活」を倹約・節約で感情を勘定に包み込んで、破綻を無くした。