総説
長く生き続けた武士道の規範
数年前、大道寺友山の『武道初心集』を初めて読んだ時、私はなぜか、以前にも同じものを見ているような気がしてならなかった。だが、どう考えてみても、それまでにこの書物を読んでいたという記憶は出てこない。そのことは、暫くの間、私の心に引っかかっていた。
そして、ある時、はっと気がついたのである。『武道初心集』の文章を、以前に読んだことがあるような気がしたのは、あの『軍人勅諭』の記憶のせいだったのだ。
明治十五年(一八八二)年一月四日に公布された『軍人勅諭」は、前文と、忠節、礼儀、武勇、真義、質素の五箇条の教訓からなっているが、これが誠によく似ているのである。例えば信義」の項で、軍人として信義を重んじることは勿論だが、軽率な安請け合いは厳につつしめというくだりがある。
「・・・されば、信義を尽くさんと思はば、始めより其の事の成し得べきかを得べからざるかを審らかに思考すべし、朧げなる事を仮初に諾いてよしなき関係を結び後に至りて信義を立てんとすれば身体進退窮まりて身の置き所に苦しむことあり、悔ゆるとも其詮なし云々」
之と、『武道初心集』第三七項、
「――爰を以ってわけもなきたのもしだてを無用とは申にて候。古き武士の義は、人に物をたのまれ候へば、是はなる筋、ならぬ筋とある義を勘弁仕りて是は成るまじきと存ずる事をば最初より請負申さず、なるべき筋の義と存ずるごとくの一義も其の仕様仕方の筋道を思案致して後、其の義を慥たしかに請負たのまれ申に付」、安請け合いによる失敗はせずに済むのだ、という教訓とを比べてみよう。
説かれている内容はもとより、発想から文脈に至るまで、驚くほど共通のものを感じるではないか。私の錯覚も、そう見当違いではなかったようだ。このことに思いあたったとき、私にはかつての学生時代、軍事教練の時間にとつとつと勅諭の講釈をしていた老配属将校の風貌までが、とっさに思い出されたものである。
この『勅諭』は、明治初年の文人政治家・西周の起草、福地源一郎(桜痴)、元田永孚、井上毅、山県有朋らの協力によって作られと越えて生き残り、対に十数年前の敗戦まで、日本人の精神軽視に大きな影響を及ぼしていたということになる。とされていた『武道初心集』が当然、重要な地位を占めていたものと想像される。
若し、そうだとすれば、遠く江戸前聞いとかれた教えが、明治の大変革を越えて生き残り、つい二十数年前の敗戦まで、日本人の精神的に大きな影響を及ぼしていたということになる。
大道寺友山という人
大道寺友山(一六三九~一七三〇=寛永十六年~享保十五年)が、本名が重祐、通称孫九郎といった。友山とは晩年の号である。大道寺家はもともと京都伏見にあったが、家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開く前年に当たる慶長七年、友山の祖父・直繁、父・繁久が家康の命によって、その六男、松平忠輝に仕えることとなった。
やがて、忠輝は越後高田藩六十一万石に封じられ、直繁、繁久もこれに従って越後に入る。慶長十五年(一六一〇)のことであった。だが、大道寺家はまことについていなかった。高田藩主となった松平忠輝は、その後父家康との折り合いが悪く、わずか六年後の大坂夏の陣において出陣が遅れたことを理由に、家は断絶、本人は追放という処分を受けてしまったのである。
大道寺家は、わざわざ浪人となるために、雪深い越後高田まで出かけて行ったようなものである。その後の一家が、どのような暮らしをしていたか明らかではないが、もとより恵まれたものではなかったろう。友山が誕生したのは、忠輝失脚の二十三年後、大道寺家は依然として浪人暮らしの中であった。
やがて、青年となった友山は、志を立てて江戸に出、小幡景憲、北条氏長、山鹿素行といった一流の軍学者たちの門に入った。
友山の出府の年は明らかでなく、墓碑名には、ただ「長ずるに及び」とあるが、友山が二十五歳となった寛文三年(一六六三)には、甲州流軍学の流祖である小幡官兵衛景憲が九十二歳の長寿を終わっているから、友山が景憲の門下に入っていたとの記録を信ずれば、その出府は恐らく二十歳前後の時であろう。
江戸時代の初期は、軍学(当時は普通兵学、ないし兵法といった)の空前の勃興期であった。長い戦乱の余燼はまだくすぶっており、幕藩体制の基礎はようやく固まりかけたところである。この中で、まだ記憶に新しい動乱の時代の教訓を体系化し、理論化して、新しい時代へと引き継ぐことは、支配階級にとってどうしても必要なことであった。
その中でも、とりわけ隆盛を極めたのが、景憲を始祖とする甲州琉(武田流)軍学の一派である。周知のように、武田信玄は、僻遠の地である甲州一国から身を起こして威を四隣にふるい、ついには上洛を志して西上の途中、病に倒れたのであるが、この信玄こそは、東海関東の覇権を握るまでの家康にとて、最大の強敵であった。有名な三方ヶ原の合戦で、家康は信玄軍の猛攻に追いまくられ、討死寸前の苦境にまで陥ったという経験をも持っている
天下を手にした家康は、このかつての強敵の事蹟から、可能な限りの教訓を引き出して、自らの財産としようと努めた。
武田の遺臣を丁重に遇して、徳川譜代の家臣たちに従わせたのもこの為であり、井伊直政の配下に入った一隊は、赤一色の装備で赤備えと呼ばれ、その勇猛を謳われている。
武田の旧臣、小幡又兵衛昌盛の三男・官兵衛景憲は、このような家康の攻略に見事取り入り、後世にまで大きな影響を及ぼした。景憲は、武田家に伝わる膨大な諸資料を駆使し、自らも筆を執って、大著『甲陽軍鑑』をはじめ、『甲陽軍鑑末書』『信玄全集』『武具要説』『兵法秘伝書』など、数多くの兵学書を編纂した。北条琉北条氏長(一六〇九~一六七〇)、山鹿流の山鹿素行(一六二二~一六八五)は、いずれもその門下から出ている。
シュエを滅ぼされた一介の素浪人であった景憲が、学問の力によって天下にその名をとどろかせていたことは、似かよった境遇のもとにあった青年友山の夢を大きくふくらませたに違いないそして、研鑚の功を積んだ友山は、やがて、「重祐、少より老におよび兵法を以て世に鳴り普く諸侯に游説して能く故事を談じ又、岩淵夜話、落穂集を著はし、又、大将伝、五臣論を述ぶ。遺稿亦た多し・・・」(墓碑銘より)といった社会的地位を得るにいたる。
友山が寄寓した諸侯とは、安芸の浅野家、会津の松平家、越前の松平家など、いずれも鏘々たる名家ばかりである。その青雲の志は、ほぼ遂げられたといってもよいであろう。
奇しくも師、小幡景憲と同じく九十二歳の天寿を全うして江戸に死す。葉隠』の口述者佐賀の山本常智が『葉隠』の完成を見た三年後、六十一歳で没したのは、友山の死より十一年前の享保四年であった。
「武道初心集」の成立と普及
友山が『武道初心集』を著した年代は明らかでゃないが、その晩年の作であることは間違いないとされている。
その内容から見て、諸国を遍歴し、その内情をつぶさに見聞した友山が、太平の世に馴れて自覚が薄れていくばかりの下級武士の再教育を目指して筆を執ったものと思われる。さらに勝手な想像が許されるならば、友山が寄寓先の藩侯(おそらくは越前松平公)の求めに応じて書き下ろしたものかもしれない。
友山がこの書の読者として想定しているのは、太平の世(文中では治世とか静譃の世などと呼ばれる)における初心の武士、つまり現代に当てはめて言えば、平のホワイトカラーに当たる人々である。したがって、その内容な、戦乱の時代における武将の心得を中心に説かれている『甲陽軍鑑』や戦場での下級兵卒の心得を説いた『雑兵物語』とは大いに異なっている。内容的に見て最も共通するところが多いのは、更に有名な『葉隠』(山本常朝述、田代陣基編)であろう。
ただし、『葉隠』は全体で千三百四十三項にも及ぶ膨大な語録で、教訓、伝承、記録、故実などが雑然と入り混じっており、これを通読することは容易ではない。しかも、かなり極端な内容や表現も含まれていて、佐賀藩中でも必ずしも公には推奨されなかった程で、まして全国的に読まれる機会はきわめて少なかった。明治以後、『葉隠』の言説の一面が、忠君愛国思想と結び付けられ、もてはやされるようになってから、この書(ただし、殆どは都合の善い箇所だけのダイジェスト)が普及したに過ぎない。これに対して『武道初心集』のほうは、さほど大部の書物でもなく、また、その説くところも、諸藩を遊歴した教養人である著者にふさわしく、先ずは穏健中正(必ずしもそうとばかりは言えない面もあるのだが、それについては後で述べる)であったから、諸藩に於いても藩士の教育テキストとして広く愛用されたのである。
さて、この『武道初心集』の普及に大いに貢献をしたのが、信州松平藩家老・恩田公準(『日暮硯』の著者として知られる恩田木工民親の曾孫)と同藩儒官・小林畏堂らによって編纂されて、天保五年(一八三四)江戸芝神明前の書肆・和泉屋吉兵衛によって刊行された「松代版」と呼ばれる木版本である。
松代版は明治以降にもしばしば復刻され、『武士道叢書』『武士道全書』等に収められた『武道初心集』も、すべてこれによるものであった。その巻末に付された「跋」によれば、恩田公準は、かねてから『武道初心集』を所蔵しており、これを藩中の子弟に与えたいと考えていたが、「その辞の俚俗に近きを以って人の侮慢し易きを恐」れ、小林畏堂に字句の若干の訂正を依頼し、公刊のはこびとなったとされている。
松代版『武道初心集』は、上中下の三巻に分かれ、次のような構成となっている。
上巻・・・総論、教育、孝行、士法、不忘勝負、出家士、義不義、勇者、礼敬、馬術、軍法戦法
中巻・・・治家、親族、倹嗇、家作、武備、従僕着具、武士、廉恥、択友、交誼、絶交、名誉、大口悪口、旅行、戒背語、陳代、臨終
下巻・・・奉公、臣職、武役、謹慎、言辞、譜牒、陪従、有司、仮威竊威、聚歛、頭支配、、懈惰、処変、述懐、忠死、文雅
以上四十四ヶ条
ところが、後年に至って、友山の元著により近いと思われる写本(以下、一応、原本と呼ぶ)が発見され、古川哲史氏の手によって一九四三(昭和十八)年、岩波文庫から出版されたことにおり、原本と松代版との差は、単に字句に訂正を施した程度のものではなかったことが明らかとなったのである。
原本は上中下三巻に分かれておらず、表題なしの五十六項目がずらりと並んだ構成となっている(この点、松代版の跋が、武道初心集三巻を校訂して松代版を作ったと述べていることと矛盾する。原本と松代版との間に、三巻に分けられた”第二の原本”が存在したのかもしれぬ)
五十六項目が四十四項目となったのは、十項目が抹消され、数項目が合併されたためである。さらに生かされている項目についても、内容の一部削除や書き替えが行われている。
では、削除ないし書き換えられたのはどういう部分か。
一言で言えば、修身教科書としては教育的に疑問や差しさわりがあると考えられたか所としか思えない。
例えば、原本の第五十三条は、主君のお手打ちに立ち合う際の心得であるが、原本の中でも「重き御身にて軽々敷き手打ちななさるごとくの儀は千万に一つも之無き道理なれば・・・」と書かれているぐらいで、殿様としてほめたことではないから省略されたのであろう。また、第四十条は、小身のうちは妻子を持つべきでないという、ひどく厳しい内容であるために、武士の反発を懸念したものか、やはり抹消されている。
さらに著しい例としては、第四十一条の汚職役人を非難する項目は、その冒頭に、”盗人にも三分の理”といった戦国の論理の名残が見受けられたためか、または汚職の手口をリアルに描きすぎたためか、全文を抹消されてしまった。
一部削除の例としては、松代版で「聚歛」として生かされている第三十六条で、お勝手むき(経理、財務)の役は、上と下の板挟みになって苦労するうえ、欲望に負けて身を亡ぼす恐れが大きいから、いか様に致してなり共相逃れ候様にとの心得尤もなり」――つまり、なんとしてでも逃げてしまえと説いているのに対し、松代藩版では、「御勝手向きに懸りたる諸役の儀はいかにも難儀なるものに候」と、曖昧にごまかしている。君命が下されたにもかかわらず、「何としても逃げてしまえ」とそそのかすなどは、なるほど封建道徳の倫理からすれば、大いにさしさわりのあるところであろう。だが、友山がこのように説いたからには、この教訓にはそれなりの根拠があったものと思われる。この一見乱暴な助言のかげには、封建支配の矛盾の深淵がのぞいていはしないだろうか。
このように、おそらくは小林畏堂等によって行われた皇帝は、単なる字句修正の範囲を這うr化に越えて、『武道初心集』が本来持っていた乱世の思想の名残を取り除き、無難な教科書をつくるためものだったといっても過言ではあるまい。
その意味で、友山の真意が、より生な姿で示されている原本が、古川氏によって広く紹介されたことの意義は、すこぶる大きいものがあると言えよう。
友山の死生観と現代
『武道初心集』と、ほぼ同時代に書かれた『葉隠』とは、その思想において多くの共通点をそなえている。しかしまた、少し立ち入って検討すると、それぞれの著者の姿勢には、かなり大きな隔たりがあることも否定できない。『葉隠』の口述者である山本常朝は、藩主鍋島光茂の死によって出家隠遁した身であり、この書物も公刊を目的として作られたものではなかった。それどころか、その冒頭には、「この始終十一巻、追って火中すべし」とまで記されている。つまり『葉隠』は、常朝が自分自身の心に語りかけた独白の書だったのである。それだけに、内容、表現、ともに誰に遠慮するところもなく、結果としてかなり激越、奔放の趣が濃い。
これに対して『武道初心集」のほうは、藩を游歴する兵学者である友山が、ベテランのコンサルタント、ないし社員教育の講師といった立場から書いた書物だけに、『葉隠』と比べて、はるかに角がとれている感じである。しかし、さすがは戦国の遺風がまだ消え失せていない時代に育った友山だけあって、とりわけ原本の中には、剛直な筋金が、ビシッと一本通っているところを読み取っていただきたい。
『武道初心集』の眼目は、なんといっても、「いかに死ぬか、いかに生きるか」という課題との取り組みであろう。
これについての友山の所説は、本書第一条に尽くされている。それは、”常に死と対決する心構えを忘れることなく、その生を全うし、日々全力を尽くして主君に仕えよ”という教えである。
友山が巻中いたるところで痛憤しているように、当時すでに、一般の武士の弛緩は相当なものであったらしい。
戦乱の巷で光明を遂げ、立身出世するという機会は、もはや得られそうにない。では藩の経営に参画して、平和な時代にふさわしい貢献を行うことができるかというと、厳重な身分制度にさえぎられて、一般緒下級武士が神酒tできる余地はほとんどない。与えられる任務といえば、「番役、苦役、使い役」といった”只居り役”か、「畳の上をはいまわり互いに手の甲をさすり舌先三寸の勝負をあらそふのみ」(第五十四条)の部署にしか過ぎない。これでは、たるむなといっても無理というものである。
では、このような環境の下にある軽輩の武士たちの指揮を高め、忠誠心を高めるにはどうしたらよいか。
友山はこの難題を、「常に死を心にあてよ」という方向で解決しようとした。これは、『葉隠』に説かれ散る「その時が只今、只今がその時」という教訓や、茶道における「一期一会」の心得と共通する日本特有の自己管理の生き方である。
常に死を思うことによって、限りある人生の尊さをかみしめて、一日一日を精いっぱいに生きていこうとする姿勢がそこから生まれる。
しかし、このような考え方は、一歩誤ると、厭世的な無常感、ニヒリズムに傾斜する危険を常にはらんでいる。これを防ぐためには、明確な人生の目標が必要である。ここから、当世流行の“生きがい”の問題が出てくる。
友山は、太平の世の武士たちに”明日にも戦乱が起こった時、これに対処できるよう、物心両面のそなえを怠るな”と説いて、これを武士の生きがいとしようとした。
それはそれで、必要なことであったに違いない。だが、友山は、戦時における奉公の厳しさを力説するあまり、平時の方向の意義、その中で果たすべき武士の役割についてほとんどふれずにお終わってしまった。
相手が”初心の武士”だからといってしまえばそれまでだが、内政の充実による富国強兵をあれほど重視した武田流軍学の流れを組んでいる友山が、行政担当者としての武士の職分についてはほとんど触れることはなく、ただ、平時の奉公などは奉公のうちにも入らぬ」と繰り返しているのには奇異の念を禁じ得ない。”いかに生きるか”の追及を、とことんまで行うことなしには、結局のところ、”いかに死ぬか”という課題の答えも出てこないはずである。このへんに『武道初心集』の純粋さと同時に狭さが端的に現れているのではないだろうか。
「惣じて人間の命をば夕べの露あしたの霜になぞらへ随分はかなきものに致し置候」
そうであればあるほど、まず悔いのない生き方をこそ考えたいものである。
一 常に死を思い生をまっとうする
武士たらんものは正月元日の朝雑煮の餅を祝ふうとて箸を取初るより其年の大晦日の夕べに至る迄、日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候。死をさへ常に心にあて候へば忠孝二つの道にも相叶ひ万の悪事災難をもの遁れ其身無病息災にして、寿命超久に剰へ其人がら迄も宜く罷成其徳多き事に候。其仔細を申すに惣じて、人間の命をば夕べの露あしたの霜になぞらへ随分はかなき物に致し置候。中にも殊更危きは武士の身命にて候を人々己が心すましにいつ迄も長生を仕る了簡なるに依て主君へも末長き御奉公親々への孝養も末長き義也と存ずるから事起こりて主君へも不奉公を仕り親々への孝行も粗略には罷成にて候。今日ありて明日を知ぬ身命とさへ覚悟仕り候においては主君へもけふを奉公の致しおさめ親へ仕ふるも今日を限りと思ふが故主君の御前へ、罷り出でて御用を承るも親々の顔を見上げるも之を限りと罷成事もやと存ずるごとくの心あひになるを以って主親へも真実の思ひいれと罷成ずしては叶はず候。さるに依て忠孝のふたつの道にも相叶うとは申すにて候。扨又死を忘れて油断致す心より物につつしみなく人の気にさはる事をも云いて口論に及び聞すてに仕りて事済む義をも聞きとがめて物いひに仕なし或いは無益なる遊山見物の場所人こみの中とある遠慮もなくありき回りえしれぬ馬鹿者などにも出会い不慮の喧嘩に及び身命を果たして主君の御名を出し親兄弟に難儀を掛る事皆常に死を心にあてぬ油断より起こる災也。死を常に心にあつる時は人に物をいふ人の物云に返答を致すも武士の身にては一言の甲乙を大事と心得るを以て、訳もなき口論などを仕らず勿論むさと致したる場所へは人が誘ひても行ざる故不慮の首尾に出合うべき様も之無く爰を以て万の悪事災難をも遁るるとは申也。高きも賤きも人は死を忘るる故に常に過食大酒淫乱等の不養生を致し、脾腎の煩などを仕出し思ひの外なる若死をも致したとへ存命にても何の用に立たざるごとくの病者とは成果る也。死を常に心にあつる時は其身の年も若く無病息災也といへども兼て補養の心得を致し飲食を節に仕り色の道をも遠ざくるごとく嗜みつつしむ故に其身も壮健也。扨こそ無病息災にて寿命迄も長久なりとは申にて候。其上死を遠く見る時は此の世の逗留を永く存る心に付色々の望も出来欲心深成て人の物といへば、ほしがり我物をはをしみ悉皆町人百姓の意地あひのごとくには罷成にて候。死を常に心にあつる時は此世の中をあぢきなく存ずるに付貪欲の心をおのずから薄くなりほしきをしきとあるむさき意地あひもさのみさし出ざる道理にて候。去るに依て其人がら迄も宜く成とは申しにて候。但し死をいかに心にあつればとて吉田の兼好がつれづれ草に書置きたる心戒と申比丘がごとく二六時中死期を待心にていつもただうづくまりてのみ罷在るごとくなるは出家沙門の心に死をあつる修業にはいかんも候へ武者修行の本意には相叶ひ申ず候。左様に死をあて候ては主君親へ忠孝の道もすたり武士の家業も欠果申義なれば大によろしからず候。昼夜を限らず公私の諸用を仕回りしばらくも身の暇ある心静かなる時は死の一字を思ひ出し懈怠なく心にあてよと申事にて候。楠正成が子息正行に申教し言葉にも常に死をならへと之有る由承り伝る所也。初心の武士心得の為件の如し。
一日一日を今日が限りと心得よ
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武士というものは、正月元日の朝に雑煮の餅を祝おうと箸をとったときから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜のように死ということをこころに覚悟するのを第一に心がけとするものである。常に死を覚悟しておりさえすれば、忠孝二つの道をもはずさず、さまざまな危険や災難にもあわず、健康のうちに長く寿命を保ち、さらには人格までも立派になるなど、多くの利益があるものである。
そのわけはといえば、そもそも人間の命というものは夕べの露、明日の霜にたとえられ、まことにはかないものとされている。とりわけ危ないものは武士の命であるのに、人々はいつまでも長生きができるかのように勝手に思い込んで、主君への奉公も、両親への孝行も末永くできるもののように考えるところから、主君への奉公を怠り、両親への孝行もいい加減なものになってしまうのである。
わが身命は、今日はあっても明日はないものとの覚悟さえあるならば、主君に対しても今日が奉公の仕納め、親に仕えるのも今日が限りと思うようになり、主君の御前で御用を承るにも、両親の顔を拝見するにも、これが最後となるかも知れぬとの気持ちにならずにはいられまい。それであるから、死を覚悟することが、忠孝の道に一致するというのである。

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