奈良本辰也著『武士道の系譜』

おわりに―作家三島由紀夫の死

(前略)
昨年の十一月二十五日に作家の三島由紀夫が割腹自殺をした。内村鑑三が明治三十年代の社会や政府に対して持っていた不信の念が、そのまま三島の不信に重なるとは言えない。しかし、三島も政府や社会の偽善に対して著しい不信を抱いていたことは確かである。彼は、そこで本当の生き方を求めようとした。この時、彼の心中を占めたのが武士道というものであった。そして作家的な直観とでもいうべきであろうか、陽明学についても傾倒していったようである。
確かに、武士道の花は「葉隠」であると思う。しかし儒教化した武士道が、その本来の姿を求めるとしたならば陽明学以外にはなかったろう。そこで多しを仲裁や吉田松陰の生き方が問題になってきたのだ。三島は、武士道に傾倒することにおいて、自分自身を極限の状況にまで追い込んでいったのだ。この際、武士道というものが必ずしも死を絶対化しているものでないということは、既に述べたと通りある。吉田松陰も、野村和作に宛てた手紙の中で「此の道至大、餓死、諌死、逸史、縊死、誅死皆妙、しりぞきて一生をぬすむ亦妙。(嘉永六年四月)と書いている。死もそれを意義あらしめようとすれば大変に困難であるが、生きて生を意義あらしめることは、もっと困難だということが分かったというのだ。
三島由紀夫が、そのことを知らないはずはない。彼は、私の解説と訳のついた『葉隠』(「日本の名著」)に推薦の文章を書いたが、その中で「私にとっては、生きるということは『葉隠』をお手本にすることであった。ところが『葉隠』は、戦争中、死ぬことを教える本だと思われていた。しかし「一冊の本が多くの青年を死の道へ導いたなどと考えるのはセンチメンタルな妄想であり・・・」と記している。死を見つめて、常に日常を美しく生きるということ、それが『葉隠』の神髄であったことが解らないほどの三島ではない。しかも彼は死んだ。おそらく、彼はその武士道の精神が、極限において演ずる美の演出を念頭においていたのであろう。確かに、武士道には、そうした美の演出があることは、これまでに見てきた通りである。私も、多くの人々と同じように、彼の割腹をその美学の結論と見たい。それ以上の議論をここで展開する気がしないのだ。
この文章は、第一講から第十五講まで、あたかも彼の死に身を託しながら書いていったような体裁となってしまった。だが、実際を言うとそうではないのだ、第一講から第十講までは、私がNHK放送のために用意した草稿なのである。ニ十分番組で十回という依頼を受けたのは七月の初めであり、それが放送されたのは八月の半ば過ぎてからであった。ニ十分番組十回といえば、これをしゃべりっぱなしにするのはもったいないと考え、めったに草稿をつくらない私が、敢えて草稿を残したのが最初の十項となったものだ。そしてその後三島の死を聞き、更に後の五講をつづったのだ。 私は、私の語ったっ最初の十講のなかに、偶然にも三島の死を見ていたような気がする。全く意識しない偶然だった。今、これを書き終えたところで不思議な感慨にひたっている。

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