2014年4月9日水曜日

心得 第十 「義を守る心に三つの姿」

《また同じく義を行うといっても、それには三つの段階がある。 たとえば、知り合いの人と同行して、どこかへ行くとする。その連れの人が百両の金を所持して懐中に入れているのだが、持ち歩くのは大変だから、戻ってくるまでの間、あなたにお預けしておきたいというので受取人には、内緒にして金を預かり、出かけて行った先で、その預けた人が食中毒なり卒中なりの急病にかかり、そのまま亡くなってしまったとする。この場合、金を預けた、預かったということは、他には誰一人知らぬ道理である。》

《こうした時、さて気の毒なことになったと痛ましく思う心のほかには毛頭も邪念を起こすことなく、預かっていた金は、その人の親類縁者などによくわけを話して、すぐに返してやるようであれば、それこそ真に義を行う人ということができよう。 》

《次に、その金の持ち主といっても、一応の知り合いというだけで、大して親密な間柄でもなく、金を預かったことを他に知るものもいないのだから、こちらから問いただすこともない。ちょうど自分も不自由している折でもあり、これは好都合なこととなった、放っておいても差し支えあるまい・・・・などと邪念が起きかかるのだが、なんと醜い心が出てきたものよと、自分で自分に愛想を尽かし、きっぱりと心を入れ替えて、その金を返すようであれば、それは良心に恥じて義を行う人ということができよう。》

《第三には、損金を預かっているということを、妻子なり家来のうちに一人でも知っているものがあるために、その者の思惑に気兼ねし、後にうわさになることを恐れて、その金を返すというのは、人に恥じて義を行う人ということができよう。こうした場合には、もし誰一人知る人がいないときにはどうなるであろうと多少心細くもあるが、それでも一応は義を知り、これを行う人といえないわけではない。》

義を行う人に、三段階あるという。
《全然邪念がない》人、《邪念を自分で恥じる》人、《邪念を他人に恥じる》人である。
つまり、第一は、素直で、義そのもので、無私の人、第二は、自分でその邪念を質すことのできる人、第三は、邪念を他人の力を利用し、質すことのできる人ということである。
私たちはどれであるだろう。何処に、自分を置いて行動しているであろうか。
状況の変化に応じで、経験に応じて成長し、考え方も成熟する。しかし、善悪の基本、信実はその状況によって変わるものではないのである。〈正しい〉とは、「一に止まると書く」のである。

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