《こうした時、さて気の毒なことになったと痛ましく思う心のほかには毛頭も邪念を起こすことなく、預かっていた金は、その人の親類縁者などによくわけを話して、すぐに返してやるようであれば、それこそ真に義を行う人ということができよう。 》
《次に、その金の持ち主といっても、一応の知り合いというだけで、大して親密な間柄でもなく、金を預かったことを他に知るものもいないのだから、こちらから問いただすこともない。ちょうど自分も不自由している折でもあり、これは好都合なこととなった、放っておいても差し支えあるまい・・・・などと邪念が起きかかるのだが、なんと醜い心が出てきたものよと、自分で自分に愛想を尽かし、きっぱりと心を入れ替えて、その金を返すようであれば、それは良心に恥じて義を行う人ということができよう。》
《第三には、損金を預かっているということを、妻子なり家来のうちに一人でも知っているものがあるために、その者の思惑に気兼ねし、後にうわさになることを恐れて、その金を返すというのは、人に恥じて義を行う人ということができよう。こうした場合には、もし誰一人知る人がいないときにはどうなるであろうと多少心細くもあるが、それでも一応は義を知り、これを行う人といえないわけではない。》
義を行う人に、三段階あるという。
《全然邪念がない》人、《邪念を自分で恥じる》人、《邪念を他人に恥じる》人である。
つまり、第一は、素直で、義そのもので、無私の人、第二は、自分でその邪念を質すことのできる人、第三は、邪念を他人の力を利用し、質すことのできる人ということである。
私たちはどれであるだろう。何処に、自分を置いて行動しているであろうか。
状況の変化に応じで、経験に応じて成長し、考え方も成熟する。しかし、善悪の基本、信実はその状況によって変わるものではないのである。〈正しい〉とは、「一に止まると書く」のである。
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