「殉死にまさる大忠節とは」の一項で「お家に伝わる怨霊の手口」へと続くものである。
《以前には世間において殉死ということが数多く行われていたが、寛文年間に全国にわたって、これを禁制とする旨がおおせ出されて、それ以来、追い腹ということは世間から姿を消したのである。
現在においても諸家の多くの武士たちの中には、主君の深いご温情をいただきながら、それをお返しすることができないので、せめて殉死のお約束をしたいものと考えている人もあるであろうが、公儀のお達しが出されたからには、そのような行動をとれば、亡くなられた主君に傷をつけ、お跡継ぎのご子息も公儀より不届きと思われる結果となって、かえって非常な不忠となるのでそれもできない。それだからといって、畳の上の奉公で人並みのことをするばかりで一生を終わるだけでは残念至極というので、「よし、なにごとにせよ同僚たちの手にあまるようなご奉公はないものであろうか。身命なげうって、ぜひ一度は人並み外れた奉公をせずにはおくまい」と堅く心に決意しているという人もいるに違いない。このような決意を固めて奉公するならば、それは殉死に比べて百倍もすぐれた忠節であり、主君のおんためになるばかりでなく、家中の大小の奉公人にとっても頼もしく、忠、義、勇の三つの徳を兼ね備えた、末世の武士の手本というべき存在となるのである。》
武士道の仕来りが変わった。《寛文年間に全国にわたって、これを禁制とする旨がおおせ出されて、それ以来、追い腹ということは世間から姿を消したのである。》
殉死によって忠を現わしたいと願っても公儀から禁制とする旨が出されては、《公儀より不届きと思われる結果》が御子息に及び、反って不忠になる。
武士道の仕来りに従うことができない。こうした場合、どうすればよいのか。友山は次のように
《「よし、なにごとにせよ同僚たちの手にあまるようなご奉公はないものであろうか。身命なげうって、ぜひ一度は人並み外れた奉公をせずにはおくまい」と堅く心に決意しているという人もいるに違いない。このような決意を固めて奉公するならば、それは殉死に比べて百倍もすぐれた忠節であり、主君のおんためになるばかりでなく、家中の大小の奉公人にとっても頼もしく、忠、義、勇の三つの徳を兼ね備えた、末世の武士の手本というべき存在となるのである。》
殉死という行為に代えて、《堅く心に決意》して内面化することを勧める。それが《忠、義、勇の三つの徳を兼ね備えた、末世の武士の手本》として現れるというのである。
少し苦しい言い訳に聞こえる。
2015年8月18日火曜日
2015年8月17日月曜日
心得 第百九 「敗戦の際は討死でつぐないを」
「戦略進言の責任は重大」の一項で「勝敗の責任を一身に負う」から続くものである。
《もしも、そのような不首尾となって味方先陣の第一陣、二陣も崩れ、指揮に当たっていた武将も何人かは討死して、敵は勝ちに乗じて大将の本陣目がけて押し寄せたか、ご本陣の前の旗、指物なども揺れ動き今は大将のご安否も分らぬといった事態に立ち至った時には、もはや合戦の指揮は断念し、兜の緒を堅く締めて二度と脱がぬ決意を示し、馬からも再び降りぬ態度を見せて、たとえ味方が退却することがあっても、敵にうしろは見せぬとの覚悟を決めて出撃し、敵の鎗玉にあげられて最期を遂げるのである。これこそが、日頃、そのお家の軍師として口をきき、特にその日は戦況の判断役を仰せつかって大将に申しあげ、合戦のご相談の中心を勤めながらことを仕損じた武士の討死の姿として、古来から定められたものなのである。
かつて、信州川中島の合戦において、山本勘助入道鬼斎がこの方式を守って討死を遂げたことは、お家の軍師を勤めようとする武士にとって、末世末代までのよい手本である。古人の言葉にも、「人のために軍を謀りて破るる時は死す」といわれているとのことである。
ところが、そのような決意とてもなく、普段は、そのお家随一の軍法者などといわれて大きな口をきき、非常の際となれば、大将のお前で戦略決定に当たってはほかに人もおらぬように自分一人で喋り捲り、いざ一戦となればなおさらのこと、人の意見を聞こうともせず、自分勝手な独断で戦略の道理から外れたことばかりを大将におすすめして、誤った指揮をさせてしまい、負けるはずのない戦いを総崩れにしてしまって、大身小身の味方の武士が数多く討死を遂げる中にも、なお自分だけは死に損なってうろたえまわり、顔をふきふき大将のお側にやってきて、「十分に考えた末のことでありましたが、すっかり見通しがはずれ、このような次第となって非情な失態、まことに困却しております」などと、言い訳をしているようでは、そのお家の軍師といわれる身として、武士の一分が立つものとは思えない。》
《もしも、そのような不首尾となって味方先陣の第一陣、二陣も崩れ、指揮に当たっていた武将も何人かは討死して、敵は勝ちに乗じて大将の本陣目がけて押し寄せたか、ご本陣の前の旗、指物なども揺れ動き今は大将のご安否も分らぬといった事態に立ち至った時には、もはや合戦の指揮は断念し、兜の緒を堅く締めて二度と脱がぬ決意を示し、馬からも再び降りぬ態度を見せて、たとえ味方が退却することがあっても、敵にうしろは見せぬとの覚悟を決めて出撃し、敵の鎗玉にあげられて最期を遂げるのである。これこそが、日頃、そのお家の軍師として口をきき、特にその日は戦況の判断役を仰せつかって大将に申しあげ、合戦のご相談の中心を勤めながらことを仕損じた武士の討死の姿として、古来から定められたものなのである。
かつて、信州川中島の合戦において、山本勘助入道鬼斎がこの方式を守って討死を遂げたことは、お家の軍師を勤めようとする武士にとって、末世末代までのよい手本である。古人の言葉にも、「人のために軍を謀りて破るる時は死す」といわれているとのことである。
ところが、そのような決意とてもなく、普段は、そのお家随一の軍法者などといわれて大きな口をきき、非常の際となれば、大将のお前で戦略決定に当たってはほかに人もおらぬように自分一人で喋り捲り、いざ一戦となればなおさらのこと、人の意見を聞こうともせず、自分勝手な独断で戦略の道理から外れたことばかりを大将におすすめして、誤った指揮をさせてしまい、負けるはずのない戦いを総崩れにしてしまって、大身小身の味方の武士が数多く討死を遂げる中にも、なお自分だけは死に損なってうろたえまわり、顔をふきふき大将のお側にやってきて、「十分に考えた末のことでありましたが、すっかり見通しがはずれ、このような次第となって非情な失態、まことに困却しております」などと、言い訳をしているようでは、そのお家の軍師といわれる身として、武士の一分が立つものとは思えない。》
前項の問いに対する答えがある。それは《敵の鎗玉にあげられて最期を遂げる》のである。
それが《仕損じた武士の討死の姿として、古来から定められたもの》なのである。そのよい手本を山本勘助入道鬼斎が示したといい、《「人のために軍を謀りて破るる時は死す」》と古人の言葉を挙げる。
「想定外」等との言訳は、論外で、《武士の一分が立つものとは思えない》とある。
それが《仕損じた武士の討死の姿として、古来から定められたもの》なのである。そのよい手本を山本勘助入道鬼斎が示したといい、《「人のために軍を謀りて破るる時は死す」》と古人の言葉を挙げる。
「想定外」等との言訳は、論外で、《武士の一分が立つものとは思えない》とある。
2015年8月16日日曜日
心得 第百八 「勝敗の責任を一身に負う」
「戦略進言の責任は重大」の一項で「敗戦の際は討死でつぐないを」へと続くものである。
《武芸の道の修行に熱心な武士が兵法を学んで、軍法、戦法の奥義までも学びつくし、主君、大将のおほめに預り、お取り立てを頂いて、そのお家の軍師となって日頃からそのような口をきいているうちに、いざ不慮の変事ということとなり出陣となった時、家老、年寄、そのほか多くの人々もいる中から、兵法については最も熟達しているとの評判によって、大将より今回の戦の作戦一切をその方に任せるとの仰せをいただくようなことがあれば、その光栄、武士の本望、これにまさるものはないであろう。
しかしながら、これがどれほど重大で、大切なお役かということも、またこの上ないものなのである。それは、小さくは味方の人々の生死を左右し、大きくはお国の存亡にもかかわることだからである。
そこで、自分が考え付いた戦略を大将に申しあげ、その配備によって一戦に及んだ結果、味方の勝利となったならば、その名誉は自分一人の上に輝くのであるから、比べもののない大手柄ということができる。しかし、もしも敵に我が方の戦略を悟られて先手を打たれ、味方の備えが裏目に出たような場合には、どれほどの大敗となるかもしれない。それであるから軍師とはきわめて重大なお役であるというのである。》
「勝敗の責任を一身に負う」軍師の役割について説く。
軍師は、不慮の変事の際に、戦略を上申し、その配備により、闘いに及ぶ、勝敗を左右する戦略・配備がことを決することになり、国の存亡・味方の人々の生死を左右する重要な役目である。
勝利によって名誉は軍師の上に輝くことになる。
では、大敗した場合には軍師の上に下される処遇は何であろうか。
図式化し対比すれば数のようになる。
《武芸の道の修行に熱心な武士が兵法を学んで、軍法、戦法の奥義までも学びつくし、主君、大将のおほめに預り、お取り立てを頂いて、そのお家の軍師となって日頃からそのような口をきいているうちに、いざ不慮の変事ということとなり出陣となった時、家老、年寄、そのほか多くの人々もいる中から、兵法については最も熟達しているとの評判によって、大将より今回の戦の作戦一切をその方に任せるとの仰せをいただくようなことがあれば、その光栄、武士の本望、これにまさるものはないであろう。
しかしながら、これがどれほど重大で、大切なお役かということも、またこの上ないものなのである。それは、小さくは味方の人々の生死を左右し、大きくはお国の存亡にもかかわることだからである。
そこで、自分が考え付いた戦略を大将に申しあげ、その配備によって一戦に及んだ結果、味方の勝利となったならば、その名誉は自分一人の上に輝くのであるから、比べもののない大手柄ということができる。しかし、もしも敵に我が方の戦略を悟られて先手を打たれ、味方の備えが裏目に出たような場合には、どれほどの大敗となるかもしれない。それであるから軍師とはきわめて重大なお役であるというのである。》
「勝敗の責任を一身に負う」軍師の役割について説く。
軍師は、不慮の変事の際に、戦略を上申し、その配備により、闘いに及ぶ、勝敗を左右する戦略・配備がことを決することになり、国の存亡・味方の人々の生死を左右する重要な役目である。
勝利によって名誉は軍師の上に輝くことになる。
では、大敗した場合には軍師の上に下される処遇は何であろうか。
図式化し対比すれば数のようになる。
2015年8月15日土曜日
心得 第百七 「戦国のころのご奉公とは」
「骨折り損を嘆くは不忠」の一項で「功績を評価されぬ不満」から続くものである。
《天下戦国の時代の武士は、主君のお供をして戦場におもむけば、平地の一戦にのぞんでは一番鎗を合わせ、敵城を責める時には一番乗り、もしも味方が退却するとあればしんがりをつとめるなど、とにもかくにも同輩たちには真似のできぬ働きをと心掛けて働く。もしも運がつきて敵に打たれてもやむを得ない、それが武士の役目であると覚悟を決めて、たび重なる武勇の手柄を立て、数々の感状、証文をもいただいて、その家中は言うまでもなく他家にまでもあっぱれの者として名を知られるほどになりながら、なおそれに満足せず、どうせ、いつまでもこのように生きていられる身ではなし、何とかして主君のお役にたって討死を遂げたいものと、心の底から願うというのが、武士本来の姿である。
これに対して、泰平の世に生まれた武士は、たとえ戦場で主君に忠節を尽くしたいと深く願っていようとも、そのような機会は与えられないから、いつも何もせずに日を送り、自分も同僚たちも畳の上の奉公ばかりをしているうちに無駄に年をとって、主君のご厚恩をいただいたばかりで死んでいくよりほかはないのである。そこで、同じ畳の上の奉公とは言いながらも、主君のおんため、お家のおんためになるようにと、ひときわ目立った立派なご奉公をと思い立ち、それを成し遂げることができたならば、泰平の世の武士として見れば、なるほどお手柄を立てたように思われる。
しかしながら、右に述べたような戦国の武士で、一生の間に何度となく戦場に立って、主君、大将のおんために身命をなげうち、度々の手柄、功名を極めたという者の前に出ては、とうてい口をきくこともできぬ程度のことではないだろうか。
なぜなら、何といっても太平の世の奉公というものは、畳の上をはい回って、手の甲をさすりながら舌先三寸で勝負を争うのが上手かどうかという程の事で、身命をかけての働きなどということはあり得ないのである。それを、どれほど見事な奉公をしたからといって、それを自分でたいしたことのように思い込み、主君のおほめが厚いの薄いのといったっことを気にかけて、愚痴や不満を抱くなどとは、もってのほかといわねばならない。
なぜかといえば、およそ戦場に出て主君のおんために忠義を尽くそうと駆け巡る武士の心には、後々の恩賞の計算などは毛頭もしてはいられないのが当然だからである。
このように考えるならば、主君にご奉公をして生きていく武士は、主君のお為にさえなれば・・・と、ただ一筋に思い込んで、ひたすら勤めるのがその役目なのである。
それを、感心なことよとお褒めなさるのも、なさらないのも、すべては主君のお気持ち次第と覚悟して、ただ自分の任務を尽くしさえすればそれでよく、不満とか愚痴とかいったことは一切出てこないのが道理である。
それなのに、自分の努力の成果を自慢して主君のご恩をむさぼり願うというのは、はなはだ卑劣な心掛けであって、忠臣の道からはずれたものといわねばならない。》
戦国の武士は、《平地の一戦にのぞんでは一番鎗を合わせ、敵城を責める時には一番乗り、もしも味方が退却するとあればしんがりをつとめるなど、とにもかくにも同輩たちには真似のできぬ働きをと心掛けて働く。》とあるように、抜きんでることを第一とし、《主君のお役にたって討死を遂げたいものと》死を賭して奉公したのである。一意専心、余念なしなのである。
それに比べ、泰平の武士の働きは、畳の上のもので《身命をかけての働きなどということはあり得ない》、だから、余念が起きるのである。
《天下戦国の時代の武士は、主君のお供をして戦場におもむけば、平地の一戦にのぞんでは一番鎗を合わせ、敵城を責める時には一番乗り、もしも味方が退却するとあればしんがりをつとめるなど、とにもかくにも同輩たちには真似のできぬ働きをと心掛けて働く。もしも運がつきて敵に打たれてもやむを得ない、それが武士の役目であると覚悟を決めて、たび重なる武勇の手柄を立て、数々の感状、証文をもいただいて、その家中は言うまでもなく他家にまでもあっぱれの者として名を知られるほどになりながら、なおそれに満足せず、どうせ、いつまでもこのように生きていられる身ではなし、何とかして主君のお役にたって討死を遂げたいものと、心の底から願うというのが、武士本来の姿である。
これに対して、泰平の世に生まれた武士は、たとえ戦場で主君に忠節を尽くしたいと深く願っていようとも、そのような機会は与えられないから、いつも何もせずに日を送り、自分も同僚たちも畳の上の奉公ばかりをしているうちに無駄に年をとって、主君のご厚恩をいただいたばかりで死んでいくよりほかはないのである。そこで、同じ畳の上の奉公とは言いながらも、主君のおんため、お家のおんためになるようにと、ひときわ目立った立派なご奉公をと思い立ち、それを成し遂げることができたならば、泰平の世の武士として見れば、なるほどお手柄を立てたように思われる。
しかしながら、右に述べたような戦国の武士で、一生の間に何度となく戦場に立って、主君、大将のおんために身命をなげうち、度々の手柄、功名を極めたという者の前に出ては、とうてい口をきくこともできぬ程度のことではないだろうか。
なぜなら、何といっても太平の世の奉公というものは、畳の上をはい回って、手の甲をさすりながら舌先三寸で勝負を争うのが上手かどうかという程の事で、身命をかけての働きなどということはあり得ないのである。それを、どれほど見事な奉公をしたからといって、それを自分でたいしたことのように思い込み、主君のおほめが厚いの薄いのといったっことを気にかけて、愚痴や不満を抱くなどとは、もってのほかといわねばならない。
なぜかといえば、およそ戦場に出て主君のおんために忠義を尽くそうと駆け巡る武士の心には、後々の恩賞の計算などは毛頭もしてはいられないのが当然だからである。
このように考えるならば、主君にご奉公をして生きていく武士は、主君のお為にさえなれば・・・と、ただ一筋に思い込んで、ひたすら勤めるのがその役目なのである。
それを、感心なことよとお褒めなさるのも、なさらないのも、すべては主君のお気持ち次第と覚悟して、ただ自分の任務を尽くしさえすればそれでよく、不満とか愚痴とかいったことは一切出てこないのが道理である。
それなのに、自分の努力の成果を自慢して主君のご恩をむさぼり願うというのは、はなはだ卑劣な心掛けであって、忠臣の道からはずれたものといわねばならない。》
戦国の武士は、《平地の一戦にのぞんでは一番鎗を合わせ、敵城を責める時には一番乗り、もしも味方が退却するとあればしんがりをつとめるなど、とにもかくにも同輩たちには真似のできぬ働きをと心掛けて働く。》とあるように、抜きんでることを第一とし、《主君のお役にたって討死を遂げたいものと》死を賭して奉公したのである。一意専心、余念なしなのである。
それに比べ、泰平の武士の働きは、畳の上のもので《身命をかけての働きなどということはあり得ない》、だから、余念が起きるのである。
《戦場に出て主君のおんために忠義を尽くそうと駆け巡る武士の心には、後々の恩賞の計算などは毛頭もしてはいられない。》する隙がないのである。
奉公は死を賭して行う一方的なもので、報われることは眼中にない。それが武士本来の姿である。
だから、《自分の努力の成果を自慢して主君のご恩をむさぼり願うというのは、はなはだ卑劣な心掛けであって、忠臣の道からはずれたものといわねばならない。》ということになる。
ここで考えたいのが、今日の行き過ぎた成果主義である。
「短期に、どれだけ多くの利益を生み出すことができるか」が問われ、その為に短期成功報酬型の評価制度が導入され、煽動する。会社は従業員を、市場は企業を、社会は生活者を短期成功報酬型に教育しているのではないだろうか。
これが社会を進化させる原動力となっているとしたら、これでいいのかと思う。
何故なら、褒美(報酬、報奨)以上の働きは期待できないという事である。
社会が評価できるレベル、常識を超えたレベルの働きが時代の進化を支えてきたのである。
しかし、自然が教える成果主義は後世へ何を引き継ぐかを問うているのではないだろうか。
視点を替え、視界を拡げ、自分(限界)を知ることを我々に迫っているように思える。
奉公は死を賭して行う一方的なもので、報われることは眼中にない。それが武士本来の姿である。
だから、《自分の努力の成果を自慢して主君のご恩をむさぼり願うというのは、はなはだ卑劣な心掛けであって、忠臣の道からはずれたものといわねばならない。》ということになる。
ここで考えたいのが、今日の行き過ぎた成果主義である。
「短期に、どれだけ多くの利益を生み出すことができるか」が問われ、その為に短期成功報酬型の評価制度が導入され、煽動する。会社は従業員を、市場は企業を、社会は生活者を短期成功報酬型に教育しているのではないだろうか。
これが社会を進化させる原動力となっているとしたら、これでいいのかと思う。
何故なら、褒美(報酬、報奨)以上の働きは期待できないという事である。
社会が評価できるレベル、常識を超えたレベルの働きが時代の進化を支えてきたのである。
しかし、自然が教える成果主義は後世へ何を引き継ぐかを問うているのではないだろうか。
視点を替え、視界を拡げ、自分(限界)を知ることを我々に迫っているように思える。
心得 第百六 「功績を評価されぬ不満」
「骨折り損を嘆くは不忠」の一項で「戦国のころのご奉公とは」へと続くものである。
《主君にお仕えしている武士が、どのような事柄にせよ、主君の御為にひときわ目立ったご奉公をし遂げて、自分の心にも、見事ひと奉公を勤めたものと考え、家中や他家の人々も、その事情を知る者は、なかなかできないことをよくも成し遂げたものだ、と感心してほめているにもかかわらず、ご主人のお気持ちとしては、さほどのことともお考えにならないのか、またはお心の中では感心して居られても、何かのお差支えがあってのことか、格別のご恩賞ということもなく、労して功なしといった結果に終わることがある。
そうした場合、さてもお情けのないなされ方よなどといって、主君をお恨みし、心の奥に不満を抱いて、口たらたらに毎日を過ごし、心のこもらぬ勤務ぶりを続けるなどという者は、もってのほかの了簡違いというものである。その理由を述べよう。》
《主君にお仕えしている武士が、どのような事柄にせよ、主君の御為にひときわ目立ったご奉公をし遂げて、自分の心にも、見事ひと奉公を勤めたものと考え、家中や他家の人々も、その事情を知る者は、なかなかできないことをよくも成し遂げたものだ、と感心してほめているにもかかわらず、ご主人のお気持ちとしては、さほどのことともお考えにならないのか、またはお心の中では感心して居られても、何かのお差支えがあってのことか、格別のご恩賞ということもなく、労して功なしといった結果に終わることがある。
そうした場合、さてもお情けのないなされ方よなどといって、主君をお恨みし、心の奥に不満を抱いて、口たらたらに毎日を過ごし、心のこもらぬ勤務ぶりを続けるなどという者は、もってのほかの了簡違いというものである。その理由を述べよう。》
自己評価と他者(上司)評価との違いがあることと、その場合の対応について述べている。
これは今日でも、よく職場で見られる風景である。
当然の働きに対する、当然の評価基準の問題である。
当然の持つ意味が、TPOによって異なるのである。
働きの場と、評価の場では、物事を見る視点、視野、視界が異なる。
当然、評価する目も異なってくる。
一般に、働きの場では、短期・限定的になるが、評価の場では、長期・非限定的になる。
しかし、それによって、武士の本分が変わるわけではない。
そのそも、自己評価に自信があれば、他者評価によって、気分を惑わされる必要はないのである。
気分を損なうという事は、自分の信念を疑うという事、自信がないという事なのだ。
「四知〈天知る、地知る、我知る、人知る〉」の故事がある。
事は善悪に関わらず、顕れるものなのである。
一意専心、正々堂々、我が道をゆく。
これは今日でも、よく職場で見られる風景である。
当然の働きに対する、当然の評価基準の問題である。
当然の持つ意味が、TPOによって異なるのである。
働きの場と、評価の場では、物事を見る視点、視野、視界が異なる。
当然、評価する目も異なってくる。
一般に、働きの場では、短期・限定的になるが、評価の場では、長期・非限定的になる。
しかし、それによって、武士の本分が変わるわけではない。
そのそも、自己評価に自信があれば、他者評価によって、気分を惑わされる必要はないのである。
気分を損なうという事は、自分の信念を疑うという事、自信がないという事なのだ。
「四知〈天知る、地知る、我知る、人知る〉」の故事がある。
事は善悪に関わらず、顕れるものなのである。
一意専心、正々堂々、我が道をゆく。
2015年8月14日金曜日
心得 第百五 「二度とお手をかけさせぬが作法」
「お手討に立ち会う心得」の一項である。
《主君のお側近く奉公する武士は、もし同僚の中で、主君に対し奉り非常な無礼を働いてご機嫌を損じ、万一お手討になるような者が出た場合には、ただちに取り押さえて、「もはや息絶えております。とどめは私に仰せ付けられますよう」と申し上げ、そのまま刺し殺すのである。もし、その者が傷を負って次の間へと行こうとするならば、直ちに組み倒して表の方へは行かせぬようにする。そこへご主人が来られて、「その者を放せ、斬る」と仰せある時は、「大切な罪人を放すわけには参りませぬ。私もろともお斬り下さい」と申し上げ、それでもなお放せと言われたならば、「最初の御太刀ひどく弱り、既に相果てております。とどめは私に仰せ付けられますように」と申し上げて、直ちに刺し殺し、二度とご主人のお手にかけるものではないということが、古来から言い伝えられている。しかしながら、一国一郡の大名ともなられる重いご身分の方が、お手討などということを軽々しくなさることは、千万にひとつもありえないことであるから、このようなことは後学のためになるとも思えない。ただし、武士道や歌道の修行においては、乞食袋のように何事をも身につけておくべきだというから、初心の武士の心得として申したまでである。》
《一国一郡の大名ともなられる重いご身分の方が、お手討などということを軽々しくなさることは、千万にひとつもありえない》としながらも、《武士道や歌道の修行においては、乞食袋のように何事をも身につけておくべきだ》としてお手討ちの場合の対処の仕方を説いている。
《主君のお側近く奉公する武士は、もし同僚の中で、主君に対し奉り非常な無礼を働いてご機嫌を損じ、万一お手討になるような者が出た場合には、ただちに取り押さえて、「もはや息絶えております。とどめは私に仰せ付けられますよう」と申し上げ、そのまま刺し殺すのである。もし、その者が傷を負って次の間へと行こうとするならば、直ちに組み倒して表の方へは行かせぬようにする。そこへご主人が来られて、「その者を放せ、斬る」と仰せある時は、「大切な罪人を放すわけには参りませぬ。私もろともお斬り下さい」と申し上げ、それでもなお放せと言われたならば、「最初の御太刀ひどく弱り、既に相果てております。とどめは私に仰せ付けられますように」と申し上げて、直ちに刺し殺し、二度とご主人のお手にかけるものではないということが、古来から言い伝えられている。しかしながら、一国一郡の大名ともなられる重いご身分の方が、お手討などということを軽々しくなさることは、千万にひとつもありえないことであるから、このようなことは後学のためになるとも思えない。ただし、武士道や歌道の修行においては、乞食袋のように何事をも身につけておくべきだというから、初心の武士の心得として申したまでである。》
《一国一郡の大名ともなられる重いご身分の方が、お手討などということを軽々しくなさることは、千万にひとつもありえない》としながらも、《武士道や歌道の修行においては、乞食袋のように何事をも身につけておくべきだ》としてお手討ちの場合の対処の仕方を説いている。
「お手討」自体、生ずることが、家の名折れである。家督、家徳が問題になる。
有る間敷き「お手討」によって、主の身が穢れることを防ぐのが臣下の務めである。
成敗と決断されたことを主に替り貫徹する。それが武士の務めという事である。
有る間敷き「お手討」によって、主の身が穢れることを防ぐのが臣下の務めである。
成敗と決断されたことを主に替り貫徹する。それが武士の務めという事である。
2015年8月13日木曜日
心得 第百四 「大名同士の喧嘩口論」
「主君のお供で騒動に遭ったとき」の一項である。
《昔から今に至るまで、大名方が出合わされた場所で喧嘩口論が起こったという例はあまりないのであるが、将来とても決してあり得ないということではない。不安に思うところである。
たとえば、道中の川越え、舟渡し等の場所で大名と大名とが出合われたとき、双方の家来同士が口論を起こして言いつのり、お互いの味方が増えてきて喧嘩が始まってしまえば、その時の事情によっては、主人と主人同士の争いとなってしまうこともある。もし、双方の主人と主人との争いとなれば、必ずや大きな事件となるであろう。なぜならば、道中において大名と大名との争いとあっては、これを仲裁することのできる者はおらず、決着のつく見通しはないからである。
それであるから、災難は下から起こるということをよく心得、主君のお供をしての道中においては、とりわけ万事に慎重を期し、自分はもとより同僚たちにも注意して、下々の者が理不尽な振る舞いをすることがないよう、よくよく申しつけることが大切である。
また、江戸表において武家屋敷町や町中を主君のお供をしている際、他の大名とすれ違った時に、双方の供の小者たちが口論を起こし、喧嘩となった場合には、ただちにその様子を見て取り、道具もちの手元から主君のお槍を受け取ってお側近くに控え、ことの成り行きを見守る。いよいよ騒ぎが鎮まらず、お供の武士たちも残らず抜刀する状況に至ったならば、お駕籠の側へ御馬を引き寄せてただちにお乗せし、お鎗の鞘を外して主君にお渡しして自分も抜刀して戦うというのが正しい態度である。
次にまた、主君がどこかへご招待を受けてお越しになるというので、お供として従って行った時、お座敷の中で何か不測の事態が起こって騒がしい様子と見えた時には、刀を手に持って玄関に上がり、取次の者に向かって、「自分は誰某の家来、なに某と申す者ですが、何かお座敷の様子が騒がしいようでありますので、主人のことを心もとなく存じ参りました」というのである。これに対し、取次の者は「いや、そのようなことではありませんが、ご心配は御尤もと存じます。そちらのご主人様につきましては、何事もございませんので、一切、ご心配なさることはない旨、ご同僚の方々へもそのようにお伝え下さい」などというであろう。
そのときには、「それは喜ばしい事でございます。それでは主人をお呼び出し頂き、拙者にもお会わせ下さいますように」と要請して、主君にお目に掛かったうえで退出することが望ましいのである。》
騒動が起きた時は、最終的には闘いによって決着すると覚悟することが必要であるという。
《災難は下から起こるということをよく心得、主君のお供をしての道中においては、とりわけ万事に慎重を期し、自分はもとより同僚たちにも注意して、下々の者が理不尽な振る舞いをすることがないよう、よくよく申しつけることが大切である。》というが、家風の事なる大名同士の騒動では、他家の振る舞いが理不尽に映ることは大いにあり得る。だから騒動が始まると《大名と大名との争いとあっては、これを仲裁することのできる者はおらず、決着のつく見通しはないからである。》と闘いは必至である。
《昔から今に至るまで、大名方が出合わされた場所で喧嘩口論が起こったという例はあまりないのであるが、将来とても決してあり得ないということではない。不安に思うところである。
たとえば、道中の川越え、舟渡し等の場所で大名と大名とが出合われたとき、双方の家来同士が口論を起こして言いつのり、お互いの味方が増えてきて喧嘩が始まってしまえば、その時の事情によっては、主人と主人同士の争いとなってしまうこともある。もし、双方の主人と主人との争いとなれば、必ずや大きな事件となるであろう。なぜならば、道中において大名と大名との争いとあっては、これを仲裁することのできる者はおらず、決着のつく見通しはないからである。
それであるから、災難は下から起こるということをよく心得、主君のお供をしての道中においては、とりわけ万事に慎重を期し、自分はもとより同僚たちにも注意して、下々の者が理不尽な振る舞いをすることがないよう、よくよく申しつけることが大切である。
また、江戸表において武家屋敷町や町中を主君のお供をしている際、他の大名とすれ違った時に、双方の供の小者たちが口論を起こし、喧嘩となった場合には、ただちにその様子を見て取り、道具もちの手元から主君のお槍を受け取ってお側近くに控え、ことの成り行きを見守る。いよいよ騒ぎが鎮まらず、お供の武士たちも残らず抜刀する状況に至ったならば、お駕籠の側へ御馬を引き寄せてただちにお乗せし、お鎗の鞘を外して主君にお渡しして自分も抜刀して戦うというのが正しい態度である。
次にまた、主君がどこかへご招待を受けてお越しになるというので、お供として従って行った時、お座敷の中で何か不測の事態が起こって騒がしい様子と見えた時には、刀を手に持って玄関に上がり、取次の者に向かって、「自分は誰某の家来、なに某と申す者ですが、何かお座敷の様子が騒がしいようでありますので、主人のことを心もとなく存じ参りました」というのである。これに対し、取次の者は「いや、そのようなことではありませんが、ご心配は御尤もと存じます。そちらのご主人様につきましては、何事もございませんので、一切、ご心配なさることはない旨、ご同僚の方々へもそのようにお伝え下さい」などというであろう。
そのときには、「それは喜ばしい事でございます。それでは主人をお呼び出し頂き、拙者にもお会わせ下さいますように」と要請して、主君にお目に掛かったうえで退出することが望ましいのである。》
騒動が起きた時は、最終的には闘いによって決着すると覚悟することが必要であるという。
《災難は下から起こるということをよく心得、主君のお供をしての道中においては、とりわけ万事に慎重を期し、自分はもとより同僚たちにも注意して、下々の者が理不尽な振る舞いをすることがないよう、よくよく申しつけることが大切である。》というが、家風の事なる大名同士の騒動では、他家の振る舞いが理不尽に映ることは大いにあり得る。だから騒動が始まると《大名と大名との争いとあっては、これを仲裁することのできる者はおらず、決着のつく見通しはないからである。》と闘いは必至である。
騒動が起きた時には、主の采配に従うのが基本であり、指示・命令を視認し、確認し、行動することが求められたのである。
危機管理の問題である。危機(変の時)には、家風や武士の節操が露わになる。
常に、死と隣り合わせの覚悟をすることで、武士は節操を正したといえる。
今日、我々は、いざとなったら戦う覚悟を持っているだろうか。
面倒に巻き込まれることを避けるために、保険をかけ、代替サービスを利用し、自ら事に当たることを避ける、当事者意識は重く、煩わしいと避ける傾向はないだろうか。
対人関係において相互理解、相互信頼を育むことが重要であるが、特に信頼なる者は、相手の覚悟を見極めることにあり、そこに素敵を感じればこそ、信頼が生まれるのである。
敵に相対して障害を克服した時、信頼が生まれる。信頼は、迎合によって生まれるものではない。
危機管理の問題である。危機(変の時)には、家風や武士の節操が露わになる。
常に、死と隣り合わせの覚悟をすることで、武士は節操を正したといえる。
今日、我々は、いざとなったら戦う覚悟を持っているだろうか。
面倒に巻き込まれることを避けるために、保険をかけ、代替サービスを利用し、自ら事に当たることを避ける、当事者意識は重く、煩わしいと避ける傾向はないだろうか。
対人関係において相互理解、相互信頼を育むことが重要であるが、特に信頼なる者は、相手の覚悟を見極めることにあり、そこに素敵を感じればこそ、信頼が生まれるのである。
敵に相対して障害を克服した時、信頼が生まれる。信頼は、迎合によって生まれるものではない。
2015年8月12日水曜日
心得 第百三 「生兵法は大害をもたらす」
「兵法の修行は徹底的に」の一項で「他日を期して戦略戦術を学べ」から続くものである。
《また、兵法の学問を好んで学びさえすれば、知識と才能の二つが育っていくから、もともと賢い者はますます賢くなり、多少鈍い方の生まれつきの者も兵法を長年学んでいけば、その効果が出てきて、それほど間の抜けたことはいわぬ程度にはなれるのである。そこで、武士の学問としては、兵法以上のものはないと思われるのである。
しかしながら、兵法の修行をし損なって、悪い方に道を外してしまうと、上達すればするほど、自分の知恵を誇って周囲の人を見下し、役にも立たぬ高尚ぶった理屈ばかりをいって、修行未熟な若者に誤った知識や心がけを植え付ける。口には正しい道理のような身分不相応な言葉をはくが、心の中は至って貪欲で、どんなときにも自分の損得を計算するのが第一であるから、その人格も次第に悪くなっていき、しまいには、武士としての意気合いさえも失うようになってしまうものである。これはすべて、兵法の修行が中途半端であったことからくる失敗である。
どうせ兵法を学ぼうというのであれば、こうした中途に足を止めるのではなくて、なんとしても、その奥義を究めて、次に再び最初の「愚」に立ち返る、その境地に安住するような修行をすることが大切である。
ところが、お互い様に、兵法の中途に日を過ごし、奥義を学び損ねてはまごつき、自分ばかりでなく他人までをも指導し損なっているというのは、まことに残念なことだが、やむをえぬことではある。
ここでいう「愚に返る」というのは、まだ兵法を学んだことのない当時の心に返るという意味である。およそ、味噌の味噌くさいのと兵法者の兵法くさいのとは、鼻もちならぬものだと古来からいわれているところである。》
「生兵法は怪我の元」の諺と重なる内容である。
《兵法の学問を好んで学びさえすれば、知識と才能の二つが育っていく》、そうすれば誰でも《
間の抜けたことはいわぬ程度にはなれる》という。
しかし、その学びが《中途半端であった》場合、古来、《味噌の味噌くさいのと兵法者の兵法くさいのとは、鼻もちならぬもの》と云うように、他人に迷惑をかけ、本人も《意気合いさえも失うように》なるという。
だから《その奥義を究めて、次に再び最初の「愚」に立ち返る、その境地に安住するような修行をすることが大切である。》と説く。
今日、上述の「鼻もちならぬもの」がはびこっているように思える。それは愚に立ち返る事を忘れ、「功業」に勤しむ故ではないか。
司馬遼太郎『明治という国家』は「功業」と「大事」について、次のように謂っている。
※「意気合い」とは、意気を合わせるしぐさです。
《また、兵法の学問を好んで学びさえすれば、知識と才能の二つが育っていくから、もともと賢い者はますます賢くなり、多少鈍い方の生まれつきの者も兵法を長年学んでいけば、その効果が出てきて、それほど間の抜けたことはいわぬ程度にはなれるのである。そこで、武士の学問としては、兵法以上のものはないと思われるのである。
しかしながら、兵法の修行をし損なって、悪い方に道を外してしまうと、上達すればするほど、自分の知恵を誇って周囲の人を見下し、役にも立たぬ高尚ぶった理屈ばかりをいって、修行未熟な若者に誤った知識や心がけを植え付ける。口には正しい道理のような身分不相応な言葉をはくが、心の中は至って貪欲で、どんなときにも自分の損得を計算するのが第一であるから、その人格も次第に悪くなっていき、しまいには、武士としての意気合いさえも失うようになってしまうものである。これはすべて、兵法の修行が中途半端であったことからくる失敗である。
どうせ兵法を学ぼうというのであれば、こうした中途に足を止めるのではなくて、なんとしても、その奥義を究めて、次に再び最初の「愚」に立ち返る、その境地に安住するような修行をすることが大切である。
ところが、お互い様に、兵法の中途に日を過ごし、奥義を学び損ねてはまごつき、自分ばかりでなく他人までをも指導し損なっているというのは、まことに残念なことだが、やむをえぬことではある。
ここでいう「愚に返る」というのは、まだ兵法を学んだことのない当時の心に返るという意味である。およそ、味噌の味噌くさいのと兵法者の兵法くさいのとは、鼻もちならぬものだと古来からいわれているところである。》
「生兵法は怪我の元」の諺と重なる内容である。
《兵法の学問を好んで学びさえすれば、知識と才能の二つが育っていく》、そうすれば誰でも《
間の抜けたことはいわぬ程度にはなれる》という。
しかし、その学びが《中途半端であった》場合、古来、《味噌の味噌くさいのと兵法者の兵法くさいのとは、鼻もちならぬもの》と云うように、他人に迷惑をかけ、本人も《意気合いさえも失うように》なるという。
だから《その奥義を究めて、次に再び最初の「愚」に立ち返る、その境地に安住するような修行をすることが大切である。》と説く。
今日、上述の「鼻もちならぬもの」がはびこっているように思える。それは愚に立ち返る事を忘れ、「功業」に勤しむ故ではないか。
司馬遼太郎『明治という国家』は「功業」と「大事」について、次のように謂っている。
大事ということと功業――手柄を立て後世に名を残したり、現世で栄達したりすること――とは全く別物です。大事と功業は、幕末の沸騰期には、奔走する人々によく使われていた言葉です。長州の思想家吉田松陰も――この人は幕末の動乱の初期に刑死するのですが――このことばをつかいました。小利口で打算的命を惜しもうとする弟子たちを皮肉って、"諸君は功業をなしたまえ、僕は大事をなすのだ"というわけで、西郷というのは、"大事"を担いで、空というもので歩いている古今類を見ない一大専門家でした。「功業」と「大事」の違いを理解することが肝要であろう。
※「意気合い」とは、意気を合わせるしぐさです。
2015年8月11日火曜日
心得 第百二 「他日を期して戦略戦術を学べ」
「兵法の修行は徹底的に」の一項で「生兵法は大害をもたらす」へと続くものである。
《武士の心がけとして、たとえ小身の者であろうとも、しかるべき軍学の師を選んで兵法の教授を受け、軍法戦法の奥義に至るまでを詳しく心得ておくことが大切である。人によっては、小身の武士が軍学を学ぶなど不相応なことなどというかもしれないが、それこそ非常な心得違い、考え違いというものである。なぜならば、古来から一国、一群の大名と仰がれ、名将と呼ばれた人たちの中には、いやしく貧しい境涯から身を起こして、大業を遂げられた方がいくらもおられるのである。してみれば、今後といえども、小身の武士の中から立身して、一方の将となるほどに出世する者がないとはいえない。それであるから、現在は小身であっても、大身にふさわしい智と徳とを身につけておきたいものだというのである。》
名誉ある働きをすることと、立身出世することは表裏一体である。
今は小身の武士であってもやがて大身となって応分の働きが求められるようになる。
だから《小身の者であろうとも、しかるべき軍学の師を選んで兵法の教授を受け、軍法戦法の奥義に至るまでを詳しく心得ておくことが大切である。人によっては、小身の武士が軍学を学ぶなど不相応なことなどというかもしれないが、それこそ非常な心得違い、考え違いというものである。》という。
要するに、智と徳は分を越え、求めらるものということである。
智徳を積むと功徳が顕れると考えた。
《武士の心がけとして、たとえ小身の者であろうとも、しかるべき軍学の師を選んで兵法の教授を受け、軍法戦法の奥義に至るまでを詳しく心得ておくことが大切である。人によっては、小身の武士が軍学を学ぶなど不相応なことなどというかもしれないが、それこそ非常な心得違い、考え違いというものである。なぜならば、古来から一国、一群の大名と仰がれ、名将と呼ばれた人たちの中には、いやしく貧しい境涯から身を起こして、大業を遂げられた方がいくらもおられるのである。してみれば、今後といえども、小身の武士の中から立身して、一方の将となるほどに出世する者がないとはいえない。それであるから、現在は小身であっても、大身にふさわしい智と徳とを身につけておきたいものだというのである。》
名誉ある働きをすることと、立身出世することは表裏一体である。
今は小身の武士であってもやがて大身となって応分の働きが求められるようになる。
だから《小身の者であろうとも、しかるべき軍学の師を選んで兵法の教授を受け、軍法戦法の奥義に至るまでを詳しく心得ておくことが大切である。人によっては、小身の武士が軍学を学ぶなど不相応なことなどというかもしれないが、それこそ非常な心得違い、考え違いというものである。》という。
要するに、智と徳は分を越え、求めらるものということである。
智徳を積むと功徳が顕れると考えた。
2015年8月10日月曜日
心得 第百一 「武士にもまさる下人あり」
「従卒の装備に心づかいを」の一項である。
《小身の武士としては、不慮の変事が起こった時にも、多くの家来を召し連れて出陣することはできず、鎗一筋だけを持ていかねばならない。そこで、もしその鎗が折れてしまえば、自分の持つ鎗にことかく次第となってしまう。それであるから、日頃からそこを考えて、袋穂の鎗の身を用意して、陣中にはこれを持って行き、もしもの時には柄には竹をすげてでも、さしあたりの間に合うようにしておくことが望ましい。
次に、非常の場所に召し連れていく下人のためには、多少のきずはあっても、頑丈なつくりで寸法の大きめの刀を脇差にして準備しておいて、各人にこれを差させ、腹には胸がけ、頭には鉢金、鎖笠、鎖鉢巻などをつけさせて連れて行くようにするものである。その理由を述べよう。
およそ一人前の武士であれば、長年の主君の恩を感じ、武士の本分を守り、いかに危険なところであろうと避けることなく、進みがたい所にも進み、持ちこたえにくい所にも踏みとどまって戦うものである。
それにひきかえ、下々の者たちは、日頃の恩といっても大したこともなく、それに感じるというほどのことはない。また義理ということも心得ていない。それが下々というものなのである。そして、身には季節の衣類をつけ、銹び腐った脇差一本を持たされただけで、歴々の武士が甲冑を身に付け、長鎗をふるって勝負を争う場所にのぞむのであるから、持ちこたえることができないのも当然である。しかし、そこをよく踏みとどまって、たとえ十人の中の一人でも、主人の側を離れぬ者がいたとすれば、その根性は下々の者のようとはいえず、武士にもまさった立派なものである。
それであるから、若党には胴丸の鎧、鉢金の兜、小者、中間には胸かけ、鉢巻、鉄笠といった軽い防具をつけさせ、敵の骨を斬れるほどの脇差を一振りずつは差させて召しつれるというのが、小身の武士の正しい道、あるべき態度というものである。
次に、小身の武士の出陣に際しては、予備の太刀を持参したり、差し替えの刀をもった従者を連れて行くわけにもいかない。だが、戦場での太刀の打ち合いとなれば、刀が甲冑に当たるのを避けるどころではないから、刀の刃を打ち折って、その替りに事を欠く場合も生ずる。そこで、自分の差替え用の刀を若党に差させ、若党の刀を草履取り、馬の口取り、中間などに差させて召し連れて行くようにするとよい。非常の場合には、普段とは違って、小者や中間までもが大小の刀を差していようとも、誰も見咎めることもないからである。》
ここで述べられていることは、主従は「一心同体」であり、働きは皆で成就するものであるという事である。
そのために、非常時に備え、応分の配慮を隅々まで至らせることを説いている。
吉田氏も【解説】において、《ろくな装備も与えられずに戦場へ駆り出される従者たちの立場を考え、せめては、ふさわしい支度をしてやるのが主人のつとめと説いている。》と云う。
ここで思い当たるのは次の詞である。
「塔組みは木組み、木組みは木の性組み、木の性組みは人組み、人組みは人の心組み、人の心組みは棟梁の工人への思いやり、工人の非を責めず己の不徳を思え」 ――西岡常一『現場の匠 宮大工三代』――
棟梁の「思い遣り」、「配慮」が肝心なのである。
《小身の武士としては、不慮の変事が起こった時にも、多くの家来を召し連れて出陣することはできず、鎗一筋だけを持ていかねばならない。そこで、もしその鎗が折れてしまえば、自分の持つ鎗にことかく次第となってしまう。それであるから、日頃からそこを考えて、袋穂の鎗の身を用意して、陣中にはこれを持って行き、もしもの時には柄には竹をすげてでも、さしあたりの間に合うようにしておくことが望ましい。
次に、非常の場所に召し連れていく下人のためには、多少のきずはあっても、頑丈なつくりで寸法の大きめの刀を脇差にして準備しておいて、各人にこれを差させ、腹には胸がけ、頭には鉢金、鎖笠、鎖鉢巻などをつけさせて連れて行くようにするものである。その理由を述べよう。
およそ一人前の武士であれば、長年の主君の恩を感じ、武士の本分を守り、いかに危険なところであろうと避けることなく、進みがたい所にも進み、持ちこたえにくい所にも踏みとどまって戦うものである。
それにひきかえ、下々の者たちは、日頃の恩といっても大したこともなく、それに感じるというほどのことはない。また義理ということも心得ていない。それが下々というものなのである。そして、身には季節の衣類をつけ、銹び腐った脇差一本を持たされただけで、歴々の武士が甲冑を身に付け、長鎗をふるって勝負を争う場所にのぞむのであるから、持ちこたえることができないのも当然である。しかし、そこをよく踏みとどまって、たとえ十人の中の一人でも、主人の側を離れぬ者がいたとすれば、その根性は下々の者のようとはいえず、武士にもまさった立派なものである。
それであるから、若党には胴丸の鎧、鉢金の兜、小者、中間には胸かけ、鉢巻、鉄笠といった軽い防具をつけさせ、敵の骨を斬れるほどの脇差を一振りずつは差させて召しつれるというのが、小身の武士の正しい道、あるべき態度というものである。
次に、小身の武士の出陣に際しては、予備の太刀を持参したり、差し替えの刀をもった従者を連れて行くわけにもいかない。だが、戦場での太刀の打ち合いとなれば、刀が甲冑に当たるのを避けるどころではないから、刀の刃を打ち折って、その替りに事を欠く場合も生ずる。そこで、自分の差替え用の刀を若党に差させ、若党の刀を草履取り、馬の口取り、中間などに差させて召し連れて行くようにするとよい。非常の場合には、普段とは違って、小者や中間までもが大小の刀を差していようとも、誰も見咎めることもないからである。》
ここで述べられていることは、主従は「一心同体」であり、働きは皆で成就するものであるという事である。
そのために、非常時に備え、応分の配慮を隅々まで至らせることを説いている。
吉田氏も【解説】において、《ろくな装備も与えられずに戦場へ駆り出される従者たちの立場を考え、せめては、ふさわしい支度をしてやるのが主人のつとめと説いている。》と云う。
ここで思い当たるのは次の詞である。
「塔組みは木組み、木組みは木の性組み、木の性組みは人組み、人組みは人の心組み、人の心組みは棟梁の工人への思いやり、工人の非を責めず己の不徳を思え」 ――西岡常一『現場の匠 宮大工三代』――
棟梁の「思い遣り」、「配慮」が肝心なのである。
2015年8月9日日曜日
心得 第百 「甲冑新調の際は小道具一式をも」
「武具の用意は日ごろから」の一項で「いつ何時の点検にもあわてぬよう」から続くものである。
《ところで、小身の武士が新しく鎧、兜を用意するという場合、それについての心得というものがある。
たとえば、黄金三枚の代金で具足一領の支度をする計画であるとすれば、そのうちの三分の二を甲冑の代金にあて、残った金子によって肌着、股引、下着、下袴、上帯、下帯、上着、鞭、軍扇といった軍装一式、それから腰桶、腰苞、面桶、打ちがえ袋、水筒、水呑といった食料飲料用具などのこまごまとした小道具類に至るまで、一人前の武士の装備として何一つ不足するものがないように、品の善し悪しにかかわらず甲冑と同時にひととおり用意してしまうことが大切である。
そのわけはといえば、一般に甲冑については、だれしも持たねばならぬものと承知しているために、身分以上の出費をしても仕立てさせて所持するものだが、そのほかの小道具類については、いつでも用意できるものと思って油断しているために、いつまでも放っておいて、いざというときになくてはならぬ小道具類を、同時に支度しておく心掛けが大切だというのである。
次に、もしも年若く、力量にすぐれた武士であっても、厚い金物を用いた重い甲冑や、大きな指物、立物、といった装備をすべきではない、なぜならば、小身の武士においては、甲冑を度々作り替えるなどということはできないから、若い盛りの力量に合わせて用意した甲冑では、年をとってからの役には立たなくなるからである。また、いかに若いときとはいっても、陣中で病気に掛かったり、負傷したりすれば、たとえ薄い金物の甲冑であろうとも肩に食い込み、苦労をするものである。こういうわけで、重い甲冑は好ましくないというのだ。
また、大きな指物や立物についても、若い時分から出陣のたびにこれを使用して、世間の人たちから知られてしまえば、年をとって重く、苦労になってきたからといって使うのをやめるというわけにはいかないから、見合わせよというのである。最後に、甲冑を作らせるについて、一つの心得がある。それは甲冑というものは、籠手と兜さえ念入りに作っておけば、それ以外は普通の仕立てであっても、一段と見ばえのよいものである。とりわけ兜については、鉢もおどし毛も、立派なものを用いるようにしたい。なぜならば、戦場では勝負は時の運であり、討死を遂げる場合もあり、そうなれば兜も自分の首と一緒に敵の手にわたることとなる。そして敵方では、子孫に至るまでもこれを持ち伝え、語り草とするものであるから、わが武勇の誉れを末永く世間の目に見せ、口にのぼせる器として、兜はただ一つのものとなるからなのである。》
具足一揃いを支度するに計画を具体的に教えている。
その場合、三分の二を甲冑の代金にあて、残りを軍装一式、食料飲料用具等、いざというときになくてはならぬ小道具類を品の善し悪しにかかわらず甲冑と同時にひととおり用意するよう説く。
その際、年若く、《力量にすぐれた武士であっても、厚い金物を用いた重い甲冑や、大きな指物、立物、といった装備をすべきではない》という。年をとってからの役には立たなくなり、病気に掛かったり、負傷したりすれば、苦労をすることになるからだという。
《甲冑というものは、籠手と兜さえ念入りに作っておけば、・・・》《兜については、鉢もおどし毛も、立派なものを用いるようにしたい。》という。何故なら《兜も自分の首と一緒に敵の手にわたること》があり、《わが武勇の誉れを末永く世間の目に見せ、口にのぼせる器として、兜はただ一つのものとなる》という。
《ところで、小身の武士が新しく鎧、兜を用意するという場合、それについての心得というものがある。
たとえば、黄金三枚の代金で具足一領の支度をする計画であるとすれば、そのうちの三分の二を甲冑の代金にあて、残った金子によって肌着、股引、下着、下袴、上帯、下帯、上着、鞭、軍扇といった軍装一式、それから腰桶、腰苞、面桶、打ちがえ袋、水筒、水呑といった食料飲料用具などのこまごまとした小道具類に至るまで、一人前の武士の装備として何一つ不足するものがないように、品の善し悪しにかかわらず甲冑と同時にひととおり用意してしまうことが大切である。
そのわけはといえば、一般に甲冑については、だれしも持たねばならぬものと承知しているために、身分以上の出費をしても仕立てさせて所持するものだが、そのほかの小道具類については、いつでも用意できるものと思って油断しているために、いつまでも放っておいて、いざというときになくてはならぬ小道具類を、同時に支度しておく心掛けが大切だというのである。
次に、もしも年若く、力量にすぐれた武士であっても、厚い金物を用いた重い甲冑や、大きな指物、立物、といった装備をすべきではない、なぜならば、小身の武士においては、甲冑を度々作り替えるなどということはできないから、若い盛りの力量に合わせて用意した甲冑では、年をとってからの役には立たなくなるからである。また、いかに若いときとはいっても、陣中で病気に掛かったり、負傷したりすれば、たとえ薄い金物の甲冑であろうとも肩に食い込み、苦労をするものである。こういうわけで、重い甲冑は好ましくないというのだ。
また、大きな指物や立物についても、若い時分から出陣のたびにこれを使用して、世間の人たちから知られてしまえば、年をとって重く、苦労になってきたからといって使うのをやめるというわけにはいかないから、見合わせよというのである。最後に、甲冑を作らせるについて、一つの心得がある。それは甲冑というものは、籠手と兜さえ念入りに作っておけば、それ以外は普通の仕立てであっても、一段と見ばえのよいものである。とりわけ兜については、鉢もおどし毛も、立派なものを用いるようにしたい。なぜならば、戦場では勝負は時の運であり、討死を遂げる場合もあり、そうなれば兜も自分の首と一緒に敵の手にわたることとなる。そして敵方では、子孫に至るまでもこれを持ち伝え、語り草とするものであるから、わが武勇の誉れを末永く世間の目に見せ、口にのぼせる器として、兜はただ一つのものとなるからなのである。》
具足一揃いを支度するに計画を具体的に教えている。
その場合、三分の二を甲冑の代金にあて、残りを軍装一式、食料飲料用具等、いざというときになくてはならぬ小道具類を品の善し悪しにかかわらず甲冑と同時にひととおり用意するよう説く。
その際、年若く、《力量にすぐれた武士であっても、厚い金物を用いた重い甲冑や、大きな指物、立物、といった装備をすべきではない》という。年をとってからの役には立たなくなり、病気に掛かったり、負傷したりすれば、苦労をすることになるからだという。
《甲冑というものは、籠手と兜さえ念入りに作っておけば、・・・》《兜については、鉢もおどし毛も、立派なものを用いるようにしたい。》という。何故なら《兜も自分の首と一緒に敵の手にわたること》があり、《わが武勇の誉れを末永く世間の目に見せ、口にのぼせる器として、兜はただ一つのものとなる》という。
働きに必要で、分に応じた装備を調えることが求められた。分に過ぎた華美重装備は負担になるから慎むという事だ。常に、死後何を残すかを考え、将来に配慮し行動していたという事である。
果敢ない人生ではなく、武士として果敢に生き抜いた証を残すことを名誉としたということである。
果敢ない人生ではなく、武士として果敢に生き抜いた証を残すことを名誉としたということである。
2015年8月8日土曜日
心得 第九十九 「いつ何時の点検にもあわてぬよう」
「武具の用意は日ごろから」の一項で「甲冑新調の際は小道具一式をも」へと続くものである。
《奉公を勤める武士としては、大身、小身を問わず、その身分、財力に相応しい武器、装備を所持しておくという心掛けがなくてはならない。とりわけ、そのお家、お家によって戦時における仕来りというものがあり、家中の武士たちの用いる部隊標識用の指物、一人一人の装備、兜の前立て、鎗や鎧の袖につける標識、荷物につける標識といったたぐいのものが、日頃から主君より定められているが、こうしたものは、つねに油断なく用意しておかねばならない。危急の変事というものは、たとえば明日起こるかもしれぬものである。その時に当たって、こうした用意というのは、にわかにできるものではないし、たとえできたとしても、日頃の油断振りが露顕して、人々の軽蔑を受けるに違いあるまい。御家中で定められている標識をいい加減にしていたために、同士討ちにされても、それは討たれた者の討たれ損となることは、武家の古い掟にも記されているほどで、標識とはきわめて大切なものなのである。
また、主君が家中の軍備についての御関心が深ければ、いつ何時、家中の武士たちの武具を点検させたり、あるいはご自身でご覧になりたいと言われることがあるかもしれない。そうした場合、同格の同僚たちが、自身の装備はいうまでもなく、召使の道具類や、その他軍陣に使用する各種の物品に至るまで、何一品として不足するということもなく飾り立ててお目にかけ、主君をはじめ奉り、家老、年寄の人々からも褒めそやされる者もあるであろう。その中にあって、あれも不足、これも不足といった有様では、ほかの場合の失敗とはわけが違って、武士道の根本にかかわる問題であり、武士としての立場を失うような失態である。これでは主君に置かれても、その場ではお見逃しになり、お叱りを受けることはないにしても、お心の中では、さてさて呆れた禄盗人よと、いつまでも愛想をつかされることは疑いない。
武士というものは、たとえ主君からのお改めということがない場合にも、自分の財力相応の武具、装備の用意を怠るようなことがあってはならない。もしも自分の召使いの中に、自分は人を斬ることはないからといって、刀や脇差の中身を竹や木で済ましていたり、尻を端折ることがないからといって、褌を締めずにいたりする心掛け悪い者がいた場合、それを知っていながら、そのままにしておくことはできないであろう。もっとも、そうしたことは、いたって身分の軽い若党とか中間風情のことであるから、それほど重い罪とも言えまい。それに反して、一人前の武士としての身分につき、それにふさわしい禄を頂戴して居りながら、いざ戦陣の際にこれでよいであろうかという思慮を日頃からしておくこともなく、いかに太平の時代とはいえ、武士として持っておかねばならぬ武器、装備の用意もできていないという始末では、若党、中間が刀、脇差に木や竹を用いたり、褌を締めずにいたりするのと比べても、百倍も劣った心がけの悪さと言わねばならない。もしこれが主君のお耳に入った時、どのようにお思いになるか、どれほどのお蔑みを受けるかということをよく考えて、日頃から油断なく武具の用意を心掛けておかねばならない。》
分相応に、常に用心し、危急の時に備えよという。
財力に相応しい武器、装備を所持しておくという心掛けがなくてはならない。
そのように油断なく用意していなければ、危急の変事に対処できないことになる。
標識の仕来りを間違うと同士討ちを招くことさえある。
武士道の仕来りを疎かにすると、結局、他に後れを取ることになる。
それは、武士道の根本にかかわる問題であり、武士としての立場を失うような失態である。
武士の本分に悖ることは、その俸禄に値しない禄盗人と呼ばれて当然である。
《奉公を勤める武士としては、大身、小身を問わず、その身分、財力に相応しい武器、装備を所持しておくという心掛けがなくてはならない。とりわけ、そのお家、お家によって戦時における仕来りというものがあり、家中の武士たちの用いる部隊標識用の指物、一人一人の装備、兜の前立て、鎗や鎧の袖につける標識、荷物につける標識といったたぐいのものが、日頃から主君より定められているが、こうしたものは、つねに油断なく用意しておかねばならない。危急の変事というものは、たとえば明日起こるかもしれぬものである。その時に当たって、こうした用意というのは、にわかにできるものではないし、たとえできたとしても、日頃の油断振りが露顕して、人々の軽蔑を受けるに違いあるまい。御家中で定められている標識をいい加減にしていたために、同士討ちにされても、それは討たれた者の討たれ損となることは、武家の古い掟にも記されているほどで、標識とはきわめて大切なものなのである。
また、主君が家中の軍備についての御関心が深ければ、いつ何時、家中の武士たちの武具を点検させたり、あるいはご自身でご覧になりたいと言われることがあるかもしれない。そうした場合、同格の同僚たちが、自身の装備はいうまでもなく、召使の道具類や、その他軍陣に使用する各種の物品に至るまで、何一品として不足するということもなく飾り立ててお目にかけ、主君をはじめ奉り、家老、年寄の人々からも褒めそやされる者もあるであろう。その中にあって、あれも不足、これも不足といった有様では、ほかの場合の失敗とはわけが違って、武士道の根本にかかわる問題であり、武士としての立場を失うような失態である。これでは主君に置かれても、その場ではお見逃しになり、お叱りを受けることはないにしても、お心の中では、さてさて呆れた禄盗人よと、いつまでも愛想をつかされることは疑いない。
武士というものは、たとえ主君からのお改めということがない場合にも、自分の財力相応の武具、装備の用意を怠るようなことがあってはならない。もしも自分の召使いの中に、自分は人を斬ることはないからといって、刀や脇差の中身を竹や木で済ましていたり、尻を端折ることがないからといって、褌を締めずにいたりする心掛け悪い者がいた場合、それを知っていながら、そのままにしておくことはできないであろう。もっとも、そうしたことは、いたって身分の軽い若党とか中間風情のことであるから、それほど重い罪とも言えまい。それに反して、一人前の武士としての身分につき、それにふさわしい禄を頂戴して居りながら、いざ戦陣の際にこれでよいであろうかという思慮を日頃からしておくこともなく、いかに太平の時代とはいえ、武士として持っておかねばならぬ武器、装備の用意もできていないという始末では、若党、中間が刀、脇差に木や竹を用いたり、褌を締めずにいたりするのと比べても、百倍も劣った心がけの悪さと言わねばならない。もしこれが主君のお耳に入った時、どのようにお思いになるか、どれほどのお蔑みを受けるかということをよく考えて、日頃から油断なく武具の用意を心掛けておかねばならない。》
分相応に、常に用心し、危急の時に備えよという。
財力に相応しい武器、装備を所持しておくという心掛けがなくてはならない。
そのように油断なく用意していなければ、危急の変事に対処できないことになる。
標識の仕来りを間違うと同士討ちを招くことさえある。
武士道の仕来りを疎かにすると、結局、他に後れを取ることになる。
それは、武士道の根本にかかわる問題であり、武士としての立場を失うような失態である。
武士の本分に悖ることは、その俸禄に値しない禄盗人と呼ばれて当然である。
2015年8月7日金曜日
心得 第九十八 「先ず避難の場所を確かめよ」
「お供の心得」の一項である。
《奉公を勤める武士が、主君のご旅行のお供をして、その日の宿泊地へ到着した時には、主君のご宿舎のどちらの方向には、どのような広い場所があり、そこへ行く道筋はどうか・・・といったことについて、日が暮れる前に確認しておき、よく心に止めておくことが大切である。なぜならば、夜中、急の出火などがあって風向きが悪く、ご宿舎が危ないというので、主君がその場を立ち退かれるような場合、先に立ってご案内するための用意である。
また、日が暮れてから、土地の人に尋ねて近所に見える山や林、神社仏閣などを目印にして東西の方向を知り、覚えておくというのも、これまた夜中に何かのことが起こり、主君のお尋ねがあった時には、早速申し上げられるようにとの心掛けである。
また、徒歩で主君のお供をする時には、上り坂の時は先を行き、下り坂の時は後から行くものだが、こうしたことは小さいながらも奉公する武士の心がけの一つである。右のような諸点をヒントとして、いろいろと思案、工夫を重ね、どうせご奉公をするからには、何か一つでも主君に対し奉ってお役にたてることがなかろうかと、朝に晩に心掛けて努力を重ねるのが武士本来の心構えである。》
近世武家社会では、生活は自然に密着したものであった。自然に依存し、天変地異に左右された。陰陽五行説などに見えるように物事の吉凶は、方位・方角と関連付けられていた。
したがって、旅行の御供をする時には、宿舎の配置、方角を確認するなど用心し、火急の事態に備え、用意を怠らない様に心がけることである。そうした心掛けの努力を重ねることで心構えができるという。
ここで考えてみたいことは次のことである。
《徒歩で主君のお供をする時には、上り坂の時は先を行き、下り坂の時は後から行くものだが、こうしたことは小さいながらも奉公する武士の心がけの一つである。右のような諸点をヒントとして、いろいろと思案、工夫を重ね・・・》とある。
どうして「上り坂の時は先を行き、下り坂の時は後から行く」ことが定式となったのか。その理由は何であろうか?
上方からの襲来者・落下物を身を挺して防ぐためであろうか?
《奉公を勤める武士が、主君のご旅行のお供をして、その日の宿泊地へ到着した時には、主君のご宿舎のどちらの方向には、どのような広い場所があり、そこへ行く道筋はどうか・・・といったことについて、日が暮れる前に確認しておき、よく心に止めておくことが大切である。なぜならば、夜中、急の出火などがあって風向きが悪く、ご宿舎が危ないというので、主君がその場を立ち退かれるような場合、先に立ってご案内するための用意である。
また、日が暮れてから、土地の人に尋ねて近所に見える山や林、神社仏閣などを目印にして東西の方向を知り、覚えておくというのも、これまた夜中に何かのことが起こり、主君のお尋ねがあった時には、早速申し上げられるようにとの心掛けである。
また、徒歩で主君のお供をする時には、上り坂の時は先を行き、下り坂の時は後から行くものだが、こうしたことは小さいながらも奉公する武士の心がけの一つである。右のような諸点をヒントとして、いろいろと思案、工夫を重ね、どうせご奉公をするからには、何か一つでも主君に対し奉ってお役にたてることがなかろうかと、朝に晩に心掛けて努力を重ねるのが武士本来の心構えである。》
近世武家社会では、生活は自然に密着したものであった。自然に依存し、天変地異に左右された。陰陽五行説などに見えるように物事の吉凶は、方位・方角と関連付けられていた。
したがって、旅行の御供をする時には、宿舎の配置、方角を確認するなど用心し、火急の事態に備え、用意を怠らない様に心がけることである。そうした心掛けの努力を重ねることで心構えができるという。
ここで考えてみたいことは次のことである。
《徒歩で主君のお供をする時には、上り坂の時は先を行き、下り坂の時は後から行くものだが、こうしたことは小さいながらも奉公する武士の心がけの一つである。右のような諸点をヒントとして、いろいろと思案、工夫を重ね・・・》とある。
どうして「上り坂の時は先を行き、下り坂の時は後から行く」ことが定式となったのか。その理由は何であろうか?
上方からの襲来者・落下物を身を挺して防ぐためであろうか?
2015年8月6日木曜日
心得 第九十七 「定石を踏めば非難を受けぬ」
「公用の旅は安全第一」の一項である。
《主君をもった武士が、主君のご用のお使いを命じられて、たとえば江戸から上方へで出むく道中をするときは、大井川はいうまでもないが、その他の川についても、少しでも水勢が増しているときには、その場所の川越人足を雇って河を越すべきである。わずかな費用を惜しみ、あるいは川越上手を自慢にして自力で川を越そうとして、川の中で馬を倒す、荷物を濡らす、または従者に怪我をさせるなどというのは、非常なる失態である。
また、旅行の経路についても、距離が近いからといって(桑名―熱田の便船ではなしに)、四日市から船に乗ったり、または粟津からの便船で琵琶湖を横断したりすることは、とんでもない無分別である。なぜならば、世間一般において乗るものとされている桑名からの便船に乗っていれば、もしも風波のために日程が遅れたとしても、その言い訳が成り立つものである。それに反して、余計な算段をして失敗した場合には、一言の申し開きもできないものだからである。そこで古人の歌にも、
もののふの矢橋のわたり近くともいそがばまわれ瀬田の長はし
といっている。
このような心掛けは、何も道中のことだけではなく、武士の身として、何事につけても忘れてはならぬことである。武士道の古い教訓にも、このことは教えられているところである。》
常に、正々堂々である。
分に応じて、定石を踏んで行動するのが、武士である。
「安全第一」を旨とする公用の場合は、定石を踏むことが肝心である。そうすれば非難されることはない。何故なら、言い訳が認められるからである。分別のある行動をとっていれば、たとえ間違いが起こったとしても、分を弁えた行動として、弁解、或いは言訳ができるのである。
定石を踏むという事は、定式、定まった作法、やり方に倣うことである。
にも拘らず、うまくやろうと、余計な算段をする事は、無分別であるという。
武士道の古い教訓にもそう教えられているのである。
ここで、「瀬田の橋を渡った人々と渡らなかった人々を見ることにより、琵琶湖の東西を巡る交通がどのように位置づけれれていたかがわかります」という面白い記事を見つけたので紹介する。
《主君をもった武士が、主君のご用のお使いを命じられて、たとえば江戸から上方へで出むく道中をするときは、大井川はいうまでもないが、その他の川についても、少しでも水勢が増しているときには、その場所の川越人足を雇って河を越すべきである。わずかな費用を惜しみ、あるいは川越上手を自慢にして自力で川を越そうとして、川の中で馬を倒す、荷物を濡らす、または従者に怪我をさせるなどというのは、非常なる失態である。
また、旅行の経路についても、距離が近いからといって(桑名―熱田の便船ではなしに)、四日市から船に乗ったり、または粟津からの便船で琵琶湖を横断したりすることは、とんでもない無分別である。なぜならば、世間一般において乗るものとされている桑名からの便船に乗っていれば、もしも風波のために日程が遅れたとしても、その言い訳が成り立つものである。それに反して、余計な算段をして失敗した場合には、一言の申し開きもできないものだからである。そこで古人の歌にも、
もののふの矢橋のわたり近くともいそがばまわれ瀬田の長はし
といっている。
このような心掛けは、何も道中のことだけではなく、武士の身として、何事につけても忘れてはならぬことである。武士道の古い教訓にも、このことは教えられているところである。》
常に、正々堂々である。
分に応じて、定石を踏んで行動するのが、武士である。
「安全第一」を旨とする公用の場合は、定石を踏むことが肝心である。そうすれば非難されることはない。何故なら、言い訳が認められるからである。分別のある行動をとっていれば、たとえ間違いが起こったとしても、分を弁えた行動として、弁解、或いは言訳ができるのである。
定石を踏むという事は、定式、定まった作法、やり方に倣うことである。
にも拘らず、うまくやろうと、余計な算段をする事は、無分別であるという。
武士道の古い教訓にもそう教えられているのである。
ここで、「瀬田の橋を渡った人々と渡らなかった人々を見ることにより、琵琶湖の東西を巡る交通がどのように位置づけれれていたかがわかります」という面白い記事を見つけたので紹介する。
2015年8月5日水曜日
心得 第九十六 「家来の恥は主君の恥」
「乗馬のたしなみ」の一項である。
《奉公をする武士が旅行の際には、小身者は宿場の貸し馬などにも乗らねばならない。そうした時には、もし落馬などしても、大小の刀が鞘からはずれぬよう、しっかりと差してから乗らねばならない。
ところが、刀の柄を手ぬぐいなどでぐるぐる巻きにしっかりと結んだり、鎗の鞘をおさえるために太い縄でしばりつけたりするのは(万一の場合、不覚をとるもとであるから)、自分一人が不心得者と見られるだけではすまぬことである。荷物につけた印や、荷札の文字からでも、誰殿の家来かということは人々に知られるのであるから、他国の人々にお家の家風が軽薄であるかのように評判される結果となるであろう。
また、近年の習慣として、旅行中、馬子同士の相談によって馬を交換するということがある。こうした場合、相手の馬の乗り手が武士であれば、馬子のことばによって馬からおりる様子を見届けてから、こちらもおりるのがよい。なぜならば、こちらが馬子のいうとおりに馬からおりてしまったのに、もし相手が馬を替えたくないといった場合には、どうしても替えよというわけにもいかず、結局は、折角おりた馬にまた乗らねばならぬからである。また、江戸表などに滞在中、公私の用事で馬に乗って歩く場合には、たとえ老年であっても、馬に乗れる状態であるならば、自分で手綱を取って乗るようにしなければならぬ。ましてや年若い武士が、中間に両側から手綱を持たせ、自分は馬上で懐手をしているなどは、まことに見苦しく思われるものである。》
「馬に乗る」ことは目立つことであり、外聞を憚る武士としては、その振る舞いには十分注意することが求められた。なぜなら、外での振る舞いは、一個人の振る舞いではなく、その家風が評価されることになるからである。
《近年の習慣として、旅行中、馬子同士の相談によって馬を交換するということがある。こうした場合、相手の馬の乗り手が武士であれば、馬子のことばによって馬からおりる様子を見届けてから、こちらもおりるのがよい。なぜならば、こちらが馬子のいうとおりに馬からおりてしまったのに、もし相手が馬を替えたくないといった場合には、どうしても替えよというわけにもいかず、結局は、折角おりた馬にまた乗らねばならぬからである。》とあるように、新たな慣習に従うにも分相応の対応をすることを求めている。だからとくに相手が武士である場合には、「面子を大事にして対等の関係を崩さないように・・・」ということであろうか。
馬子のいう事に唯々諾々と従い、手間を掛けさせられるのは「間抜け」と映る恥ずかしいことであった。
《江戸表などに滞在中、公私の用事で馬に乗って歩く場合には、たとえ老年であっても、馬に乗れる状態であるならば、自分で手綱を取って乗るようにしなければならぬ。》とは、特に江戸のように人目につく所では、不格好は恥さらしになる。だから、臨機応変の活動が封じられた状態を公衆に晒すのは、敵に隙を見せることになり、恥じたのである。
《奉公をする武士が旅行の際には、小身者は宿場の貸し馬などにも乗らねばならない。そうした時には、もし落馬などしても、大小の刀が鞘からはずれぬよう、しっかりと差してから乗らねばならない。
ところが、刀の柄を手ぬぐいなどでぐるぐる巻きにしっかりと結んだり、鎗の鞘をおさえるために太い縄でしばりつけたりするのは(万一の場合、不覚をとるもとであるから)、自分一人が不心得者と見られるだけではすまぬことである。荷物につけた印や、荷札の文字からでも、誰殿の家来かということは人々に知られるのであるから、他国の人々にお家の家風が軽薄であるかのように評判される結果となるであろう。
また、近年の習慣として、旅行中、馬子同士の相談によって馬を交換するということがある。こうした場合、相手の馬の乗り手が武士であれば、馬子のことばによって馬からおりる様子を見届けてから、こちらもおりるのがよい。なぜならば、こちらが馬子のいうとおりに馬からおりてしまったのに、もし相手が馬を替えたくないといった場合には、どうしても替えよというわけにもいかず、結局は、折角おりた馬にまた乗らねばならぬからである。また、江戸表などに滞在中、公私の用事で馬に乗って歩く場合には、たとえ老年であっても、馬に乗れる状態であるならば、自分で手綱を取って乗るようにしなければならぬ。ましてや年若い武士が、中間に両側から手綱を持たせ、自分は馬上で懐手をしているなどは、まことに見苦しく思われるものである。》
「馬に乗る」ことは目立つことであり、外聞を憚る武士としては、その振る舞いには十分注意することが求められた。なぜなら、外での振る舞いは、一個人の振る舞いではなく、その家風が評価されることになるからである。
《近年の習慣として、旅行中、馬子同士の相談によって馬を交換するということがある。こうした場合、相手の馬の乗り手が武士であれば、馬子のことばによって馬からおりる様子を見届けてから、こちらもおりるのがよい。なぜならば、こちらが馬子のいうとおりに馬からおりてしまったのに、もし相手が馬を替えたくないといった場合には、どうしても替えよというわけにもいかず、結局は、折角おりた馬にまた乗らねばならぬからである。》とあるように、新たな慣習に従うにも分相応の対応をすることを求めている。だからとくに相手が武士である場合には、「面子を大事にして対等の関係を崩さないように・・・」ということであろうか。
馬子のいう事に唯々諾々と従い、手間を掛けさせられるのは「間抜け」と映る恥ずかしいことであった。
《江戸表などに滞在中、公私の用事で馬に乗って歩く場合には、たとえ老年であっても、馬に乗れる状態であるならば、自分で手綱を取って乗るようにしなければならぬ。》とは、特に江戸のように人目につく所では、不格好は恥さらしになる。だから、臨機応変の活動が封じられた状態を公衆に晒すのは、敵に隙を見せることになり、恥じたのである。
2015年8月4日火曜日
心得 第九十五 「主君をやりこめるのは大の非礼」
「無理なおことばにも逆らうな」の一項である。
《奉公を勤める武士としては、自分が仕える主君から、たとえどれほど理屈に合わぬ事を言われ、どのようなお叱りを受けようとも、ひたすら恐縮して仰せを承り、ただただ困り果てた様子でいることが、第一に大切な心掛けである。
もしも、主君の方から、「その方に誤りがないというのならば、申し開きをせよ」などといわれることがあろうとも、主君のお言葉に対して申し開きをすることは、お言葉を返す、といって主従の礼儀に反した非常な無礼の大罪であるから、そのようなことはかたくつつしむことである。しかしながら、それが武士道にもとるような性質の事柄であれば、やむを得ぬことであるから、家老、年寄、用人といった人々に対し、後刻、「主君よりお見限りを受けぬよう申し開きを致したいので、なにとぞ、お取次ぎの程を」とお願いするといったことは、当然あるべきことである。
こうした点について、主君のお言葉を無視もせず、また自分の立場をも失わぬように、見事な受け答えをした昔の武士の物語を、初心の武士への教訓として記しておこう。
慶長年間のこと、福島左衛門大夫正則の家来に佃又右衛門という大剛の武士がいた。ある出陣中のこと、夜中、正則の陣中で不意の騒動が起こり、家中の武士たちが残らず本陣に駆けつけたということがあった。その翌朝、正則は又右衛門に対して、「その方は、昨夜の騒動の際、鎗にさやをかけたままで持っていたのはどういうわけか」と尋ねられた。又右衛門は、これを承って、「お疑いは最もでございますが、昨日は夕方から空が大変曇っておりましたために、夜は鎗に雨鞘をかけ、そのまま持って出たのでございます。したがって、鞘をかけたまま持って出たものとご覧になったのは当然のことでございました」と申し上げたので、正則は、「なるほど、わかった」といわれ、ことは落着した。
その後、同僚たちが又右衛門の所へ来て、「昨夜、あなたが鎗の鞘をはずしてもって出られたことは、誰もがよく見ており、証人もあるというのに、今朝のお尋ねに対して、雨鞘をかけてあったとお答えになったことは、どうも納得がいきませんが」と尋ねた。又右衛門は、「雨鞘というものは、あなた方もご存じのように、油紙一枚のもので、実質的には抜身の鎗と同じことです。小さなことながら、大将が見間違いをなさったというのは重大なことですので、それを表沙汰にせぬため、右のようなお答えをしたものです」と答えたので、人々は又右衛門の心がけの程に感心したということである。現代においても、主君のお側近くに奉公仕る武士としては、このような心掛けが必要なのである。》
奉公を勤める武士の心掛けとして大事なことは、「イエ」社会の秩序を守ることである。
従って、主君がらどんな理不尽なことを要求されようと、武士道に悖るものでない限り、唯々諾々と従えというのである。
人権意識が高い今日では、考えにくいことであるが、当時はこうするように理を説いたのである。
それは何故か、主君に対して、意見を言うことは、主君の間違いを指摘することになり、そのことが表沙汰になれば、主君の名を汚すことになる。それは分を弁えない、間違いであり、そうすると「イエ」の秩序が崩れる、それは不忠となるというのだ。
今日の市民社会において我々は「身分制度」から解放され、「忠孝仁義」の伝統的な考え方から解放されたというが、
内聞よりも外聞を重んじ、意図的に、営為を以て行動することを是とする今日、現代的な「忠孝仁義」はどのようなものか、一考する価値はあるように思える。
新渡戸稲造著『武士道』はどのように説明しているのだろうか。
《奉公を勤める武士としては、自分が仕える主君から、たとえどれほど理屈に合わぬ事を言われ、どのようなお叱りを受けようとも、ひたすら恐縮して仰せを承り、ただただ困り果てた様子でいることが、第一に大切な心掛けである。
もしも、主君の方から、「その方に誤りがないというのならば、申し開きをせよ」などといわれることがあろうとも、主君のお言葉に対して申し開きをすることは、お言葉を返す、といって主従の礼儀に反した非常な無礼の大罪であるから、そのようなことはかたくつつしむことである。しかしながら、それが武士道にもとるような性質の事柄であれば、やむを得ぬことであるから、家老、年寄、用人といった人々に対し、後刻、「主君よりお見限りを受けぬよう申し開きを致したいので、なにとぞ、お取次ぎの程を」とお願いするといったことは、当然あるべきことである。
こうした点について、主君のお言葉を無視もせず、また自分の立場をも失わぬように、見事な受け答えをした昔の武士の物語を、初心の武士への教訓として記しておこう。
慶長年間のこと、福島左衛門大夫正則の家来に佃又右衛門という大剛の武士がいた。ある出陣中のこと、夜中、正則の陣中で不意の騒動が起こり、家中の武士たちが残らず本陣に駆けつけたということがあった。その翌朝、正則は又右衛門に対して、「その方は、昨夜の騒動の際、鎗にさやをかけたままで持っていたのはどういうわけか」と尋ねられた。又右衛門は、これを承って、「お疑いは最もでございますが、昨日は夕方から空が大変曇っておりましたために、夜は鎗に雨鞘をかけ、そのまま持って出たのでございます。したがって、鞘をかけたまま持って出たものとご覧になったのは当然のことでございました」と申し上げたので、正則は、「なるほど、わかった」といわれ、ことは落着した。
その後、同僚たちが又右衛門の所へ来て、「昨夜、あなたが鎗の鞘をはずしてもって出られたことは、誰もがよく見ており、証人もあるというのに、今朝のお尋ねに対して、雨鞘をかけてあったとお答えになったことは、どうも納得がいきませんが」と尋ねた。又右衛門は、「雨鞘というものは、あなた方もご存じのように、油紙一枚のもので、実質的には抜身の鎗と同じことです。小さなことながら、大将が見間違いをなさったというのは重大なことですので、それを表沙汰にせぬため、右のようなお答えをしたものです」と答えたので、人々は又右衛門の心がけの程に感心したということである。現代においても、主君のお側近くに奉公仕る武士としては、このような心掛けが必要なのである。》
奉公を勤める武士の心掛けとして大事なことは、「イエ」社会の秩序を守ることである。
従って、主君がらどんな理不尽なことを要求されようと、武士道に悖るものでない限り、唯々諾々と従えというのである。
人権意識が高い今日では、考えにくいことであるが、当時はこうするように理を説いたのである。
それは何故か、主君に対して、意見を言うことは、主君の間違いを指摘することになり、そのことが表沙汰になれば、主君の名を汚すことになる。それは分を弁えない、間違いであり、そうすると「イエ」の秩序が崩れる、それは不忠となるというのだ。
今日の市民社会において我々は「身分制度」から解放され、「忠孝仁義」の伝統的な考え方から解放されたというが、
内聞よりも外聞を重んじ、意図的に、営為を以て行動することを是とする今日、現代的な「忠孝仁義」はどのようなものか、一考する価値はあるように思える。
新渡戸稲造著『武士道』はどのように説明しているのだろうか。
2015年8月3日月曜日
心得 第九十四 「評価をさげる消極的な応対」
「むずかしい命令こそきっぱりと受けよ」の一項で「受けるときの態度が肝心」から続くものである。
《およそ武士としての誇りを持つ者は、どのような場合にも、消極的な態度をとって相手にひけを取ることがないよう心掛けるべきである。
たとえば、人から無心を受け、援助を頼まれたりした時、これはできることか、できぬ事かを前もって繰り返し検討して判断を下し、協力はできないという結論の場合はともかく、もし、いやとは言えぬ事情で承知するというのならば、できるだけ気持よく引き受けるようにすれば、相手の側も誠に有り難いと感じるものである。ところが、承諾の返事がはっきりせず、何か不承不承のように思われてしまうと、相手側の感謝の気持ちも薄れ、「できることなら、この人のところへは無心をいいに行きたくはないが、ほかとの関係もあるからそうもできない。やれやれ残念なことになってしまった」などと、口惜しく残念に思わずにはいられないであろう。
このような者をさして「気性がいさぎよくない」とか、「きっぱりとしたところがない」とかいうが、結局は、その為に損の上に損を重ねるともいわれるのである。このところをよくよく考えるべきであろう。》
武士道は、「後れること」を嫌った。臆病として恥としたのである。そうした後れを生ずる一因が「消極的な態度」にある。
また武士道は、「吉凶を転ずる力」を期待した。それを〈勇〉と称したのである。
状況を転じて、生気、活気を養い、育むことを求められたのである。
「機転(気転)を利かす」力、それは積極的でなくては発揮できない。
その為に、求められたのが「潔さ」であった。未練があると機転が利かないのである。
「潔さ」で連想されるのは、「清廉潔白」である。
〈清廉〉とは、《心が清らかで私欲がないこと》とある。また〈潔白〉とは、《心や行いがきれいなこと。真っ白なこと》とある。「無欲無心」である様を云う。
《およそ武士としての誇りを持つ者は、どのような場合にも、消極的な態度をとって相手にひけを取ることがないよう心掛けるべきである。
たとえば、人から無心を受け、援助を頼まれたりした時、これはできることか、できぬ事かを前もって繰り返し検討して判断を下し、協力はできないという結論の場合はともかく、もし、いやとは言えぬ事情で承知するというのならば、できるだけ気持よく引き受けるようにすれば、相手の側も誠に有り難いと感じるものである。ところが、承諾の返事がはっきりせず、何か不承不承のように思われてしまうと、相手側の感謝の気持ちも薄れ、「できることなら、この人のところへは無心をいいに行きたくはないが、ほかとの関係もあるからそうもできない。やれやれ残念なことになってしまった」などと、口惜しく残念に思わずにはいられないであろう。
このような者をさして「気性がいさぎよくない」とか、「きっぱりとしたところがない」とかいうが、結局は、その為に損の上に損を重ねるともいわれるのである。このところをよくよく考えるべきであろう。》
武士道は、「後れること」を嫌った。臆病として恥としたのである。そうした後れを生ずる一因が「消極的な態度」にある。
また武士道は、「吉凶を転ずる力」を期待した。それを〈勇〉と称したのである。
状況を転じて、生気、活気を養い、育むことを求められたのである。
「機転(気転)を利かす」力、それは積極的でなくては発揮できない。
その為に、求められたのが「潔さ」であった。未練があると機転が利かないのである。
「潔さ」で連想されるのは、「清廉潔白」である。
〈清廉〉とは、《心が清らかで私欲がないこと》とある。また〈潔白〉とは、《心や行いがきれいなこと。真っ白なこと》とある。「無欲無心」である様を云う。
今、世情を「東芝」問題が賑わしている。
東芝には、土光敏夫氏が居た。「行革の顔」として活躍された。「廉直の士」であったように思う。
どうしてこうなったのだろう。日本の企業の行く末が案じられている。
2015年8月2日日曜日
心得 第九十三 「受けるときの態度が肝心」
「むずかしい命令こそきっぱりと受けよ」の一項で「評価をさげる消極的な応対」へと続くものである。
《奉公を勤める武士として、主君から大切な上意討ちなどを仰せつけられた時には、「ご家中に多くの人々がおられる中から、私にこの度のご用を仰せ付けられましたこと、一生の名誉、武士の冥利につき、本望のいたり、かたじけなきしだいにございます。」などと、きっぱりと申し上げてお受けすることが望ましいのである。これに反して、そのような心がけもなく、煮え切らない態度をとることは、もってのほかの不都合である。
なぜならば、内心では大いに勇気を奮い起こし、見事にし遂げてお目にかけようと決意していても、勝負は時の運であるから、十分に仕とげることがあるかと思えば、また討ち損じた上に返り討ちになる場合さえもあるのである。どのような結果となっても、後日、同僚たちの間で様々な批評が出てくるであろう。
その際、お受けした時の態度がよかった場合には、首尾よく仕とげれば、「お受けしたその時から、なるほどあれなら仕とげずにはおかぬという様子に見えたが、その通りに見事仕とげたものである」と、人々からほめられるであろう。また、たとえ仕損じて返り討ちにされたとしても、「お受けした時の態度から見て、まさか仕損じることはあるまいと思われたのに、どうして打ち損じたのであろうか」と、悔やみ惜しんでくれるものである。
ところが、お受けする時に少しでも煮え切らぬような態度をとていた場合には、たとえ首尾よく仕とげても、「あれは運がよかっただけのこと」といわれて、誰もほめてもくれず、また、もしも仕損じるようなことがあれば、「どうもお受けする時から、なにやら頼りなく思われたが、はたせるかな仕損じてしまった」と、人々から非難されるものである。それであるから、お受けする時には、何としてもきっぱりとした態度を示せというのである。》
その成行きは時の運に左右される。首尾よく事が成就することもあれば、運悪く、不首尾に終わる事もある。致し方のないことである。
武士道は、運命に左右されない「至誠一貫」した心のあり方に実を求めた。
難しい命令は、忝き誉である。何故か、頼り甲斐があると見込まれたという事である。
その信頼に応えるかどうかが評価の基準となったと考えられる。
事の成就はその成行きによって決まる。時々の運によるのである。
事の正否、勝負の結果は大事であったが、それより大事なものは、受命者の態度である。
その評価は、成果主義ではなく、誠意主義で行われたのである。
信頼に足るものかどうか、その基準は、その時々に変わる事ではなく、常に変わらぬ心に置かれたということであろう。事の首尾ではなく、心の終始なのである。
終始一貫した誠意が問われたのである。そこに「頼もしさ」が生まれたのである。
《奉公を勤める武士として、主君から大切な上意討ちなどを仰せつけられた時には、「ご家中に多くの人々がおられる中から、私にこの度のご用を仰せ付けられましたこと、一生の名誉、武士の冥利につき、本望のいたり、かたじけなきしだいにございます。」などと、きっぱりと申し上げてお受けすることが望ましいのである。これに反して、そのような心がけもなく、煮え切らない態度をとることは、もってのほかの不都合である。
なぜならば、内心では大いに勇気を奮い起こし、見事にし遂げてお目にかけようと決意していても、勝負は時の運であるから、十分に仕とげることがあるかと思えば、また討ち損じた上に返り討ちになる場合さえもあるのである。どのような結果となっても、後日、同僚たちの間で様々な批評が出てくるであろう。
その際、お受けした時の態度がよかった場合には、首尾よく仕とげれば、「お受けしたその時から、なるほどあれなら仕とげずにはおかぬという様子に見えたが、その通りに見事仕とげたものである」と、人々からほめられるであろう。また、たとえ仕損じて返り討ちにされたとしても、「お受けした時の態度から見て、まさか仕損じることはあるまいと思われたのに、どうして打ち損じたのであろうか」と、悔やみ惜しんでくれるものである。
ところが、お受けする時に少しでも煮え切らぬような態度をとていた場合には、たとえ首尾よく仕とげても、「あれは運がよかっただけのこと」といわれて、誰もほめてもくれず、また、もしも仕損じるようなことがあれば、「どうもお受けする時から、なにやら頼りなく思われたが、はたせるかな仕損じてしまった」と、人々から非難されるものである。それであるから、お受けする時には、何としてもきっぱりとした態度を示せというのである。》
その成行きは時の運に左右される。首尾よく事が成就することもあれば、運悪く、不首尾に終わる事もある。致し方のないことである。
武士道は、運命に左右されない「至誠一貫」した心のあり方に実を求めた。
難しい命令は、忝き誉である。何故か、頼り甲斐があると見込まれたという事である。
その信頼に応えるかどうかが評価の基準となったと考えられる。
事の成就はその成行きによって決まる。時々の運によるのである。
事の正否、勝負の結果は大事であったが、それより大事なものは、受命者の態度である。
その評価は、成果主義ではなく、誠意主義で行われたのである。
信頼に足るものかどうか、その基準は、その時々に変わる事ではなく、常に変わらぬ心に置かれたということであろう。事の首尾ではなく、心の終始なのである。
終始一貫した誠意が問われたのである。そこに「頼もしさ」が生まれたのである。
2015年8月1日土曜日
心得 第九十二 「死ぬときの苦痛は同じこと」
「つねに功名手柄を志すこと」の一項で「小心者でも歴史に名を残せる」から続くものである。
《このように、その姓名さえ残らぬような討死を遂げるにせよ、あるいは末代にまで名を残す名誉の討死をするにせよ、敵に首を取られる苦しみにおいては、別に相違はないはずである。ここのところをよくよく考え、どうせのことに捨てる命であるならば、人々にすぐれた働きをして討死を遂げて敵味方の耳目を驚かせ、主君にも惜しまれ、子孫にまで長くその名誉を伝えたいものと心がけてこそ、武士にふさわしい決意といえよう。
ところが、そうした判断もつかずに醜い根性をさらけ出す者は、平地での戦闘になれば攻めるときには人の後から、退くときには人より先になることばかりを考え、敵の城を責めるときに弓矢、鉄砲玉が激しければ同僚を楯のかわりにして、そのかげにかがみこんでいるが、そのようにしても運命からは逃れられず、敵の矢に当たって伏し倒れ、そのうえ、味方の人々から踏みにじられて犬死の最期を遂げ、大事な命を失うこととなる。これでは誠に残念至極、口惜しい次第で、武士としてこれ以上の不覚はあるまい。
こうした点をよくよく考えて、武士として戦場に赴き、どうせ命を捨てるからには、敵味方の見ている前で、この上ない手柄を立て、あっぱれの討死を遂げて名を後世にまで残すことを期して、朝に夕に鍛錬を重ねることこそ、武士本来の務めといえよう。》
この項の内容が意味することは既に、前項で触れた。
「取捨選択」という事について考えてみる。
武士道は、生きる上で最も大事な、命を捨てることを前提として、大事の決定・判断をするということになる。
欲に囚われることなく正しい判断ができるとするのである。
死に切っていれば、恐れなく、危険な場にも対面でき、物事の処理を的確に行えるとするのだ。
瀬戸際に立つ、危機に直面しても動ずることはなく、正々堂々と活動できるとするのである。
翻って、今日、我々は、どのように考えて、「取捨選択」をしているだろうか。
「人の命は地球よりも重い」と謂い、命を捨てることは論外であり、命は取り上げられ、「安全第一」で守られるものとされる。そのため、昨今、人口に膾炙する「利他的利己主義」を、実践する覚悟はなく、空論と化しているのではないか。こうして我々は、人に会うチャンス、人を知るチャンス、それを逃しているように思う。
人を最もよく知ることができるのは、戦場のような、危機において、その脱出のために共働する時である。そのことを、後藤健二さんは教えてくれる。その時世界は動いたのである。
危機を回避し、自分を大事にする、自分らしく生きることは当然であるが、自分に固執することによって、大事に向かうチャンスを逃していないだろうか。
自分を捨てた時、自我を超えた本来の我が顕れるという。
公正な選択・判断は、「捨てる」ことから始まるということを銘記したい。
《このように、その姓名さえ残らぬような討死を遂げるにせよ、あるいは末代にまで名を残す名誉の討死をするにせよ、敵に首を取られる苦しみにおいては、別に相違はないはずである。ここのところをよくよく考え、どうせのことに捨てる命であるならば、人々にすぐれた働きをして討死を遂げて敵味方の耳目を驚かせ、主君にも惜しまれ、子孫にまで長くその名誉を伝えたいものと心がけてこそ、武士にふさわしい決意といえよう。
ところが、そうした判断もつかずに醜い根性をさらけ出す者は、平地での戦闘になれば攻めるときには人の後から、退くときには人より先になることばかりを考え、敵の城を責めるときに弓矢、鉄砲玉が激しければ同僚を楯のかわりにして、そのかげにかがみこんでいるが、そのようにしても運命からは逃れられず、敵の矢に当たって伏し倒れ、そのうえ、味方の人々から踏みにじられて犬死の最期を遂げ、大事な命を失うこととなる。これでは誠に残念至極、口惜しい次第で、武士としてこれ以上の不覚はあるまい。
こうした点をよくよく考えて、武士として戦場に赴き、どうせ命を捨てるからには、敵味方の見ている前で、この上ない手柄を立て、あっぱれの討死を遂げて名を後世にまで残すことを期して、朝に夕に鍛錬を重ねることこそ、武士本来の務めといえよう。》
この項の内容が意味することは既に、前項で触れた。
「取捨選択」という事について考えてみる。
武士道は、生きる上で最も大事な、命を捨てることを前提として、大事の決定・判断をするということになる。
欲に囚われることなく正しい判断ができるとするのである。
死に切っていれば、恐れなく、危険な場にも対面でき、物事の処理を的確に行えるとするのだ。
瀬戸際に立つ、危機に直面しても動ずることはなく、正々堂々と活動できるとするのである。
翻って、今日、我々は、どのように考えて、「取捨選択」をしているだろうか。
「人の命は地球よりも重い」と謂い、命を捨てることは論外であり、命は取り上げられ、「安全第一」で守られるものとされる。そのため、昨今、人口に膾炙する「利他的利己主義」を、実践する覚悟はなく、空論と化しているのではないか。こうして我々は、人に会うチャンス、人を知るチャンス、それを逃しているように思う。
人を最もよく知ることができるのは、戦場のような、危機において、その脱出のために共働する時である。そのことを、後藤健二さんは教えてくれる。その時世界は動いたのである。
危機を回避し、自分を大事にする、自分らしく生きることは当然であるが、自分に固執することによって、大事に向かうチャンスを逃していないだろうか。
自分を捨てた時、自我を超えた本来の我が顕れるという。
公正な選択・判断は、「捨てる」ことから始まるということを銘記したい。
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