2011年3月1日火曜日

「武士道」相良亨より 2

鎌倉幕府の貞永式目が現実主義的傾向を多分にもつのに対して、室町の建武式目が、政道の理想を語り、興廃は政道の善悪によることを強く正面に押し出した

足利尊氏を理想的な統率者として描こうとするときに、彼を道に事える者として捉えたところに、われわれは室町幕府の性格を端的に伺うことができる
下克上とは、従来の権威・従来の秩序を否定することである今の世にあっては器量がものをいうという意識が下克上という現象を押し出したのであった。

人心を己に引きつけ、人々の力を己の力として結集しうる器量が、上位に対しては下克上として現れ、下位に対しては、その下からの突き上げをしのぐ力として働いたのである。

「朝倉敏景十七箇条」第一条には「朝倉の家においては宿老を定むべからず、其の身の器用忠節によりて申し付くべきこと」とあり、その第二条には「代々持ち来たり候などとて、不器用の人にうちわに奉行職預けらるまじきこと」とある。
世を実力の世界と理解し、己の実力を自負し、実力を以て越前一国の実権を掌握した敏景にしてはじめて、その統治において高く能力主義をかかげることが出来たのである

「主君の一心」という主君の器量にすべてが懸かるという確信は、彼の体験の中から得られた確信

頼もしい者は「文武両道」である。武は武略武芸であるが、文は道義性、人間的魅力である。この文と武とを一身に実現した者が頼もしいのである。

戦国の武将たちは、主君の一身に興廃が懸かると理解していた。つまり威勢は道の実現の中にのみ形成されると理解していた
少なくとも、戦国武将において、正しさ・道理がその興廃をかけた切実さにおいて受け止められた

興廃を道義にかけたということにおいて、戦国武将が室町の武家貴族と異なるということ、しかして、その道義の受け止め方のこの切実さが、彼らのありのままをよしとする姿勢につながるということに注目したい。 
下克上の世の武将は、頼もしそうに振る舞うのでなく、事実、頼もしくあらねばならぬのである。頼もしくならなければ滅亡あるのみなのである。

武士のあるべき姿を「早雲寺殿」は次のように捉えていた。「拝みをする事身のおこないなり。ただ心を直にやわらかに持ち、正直憲法にして上たるをば敬い、下たるをばあわれみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持ち、仏意冥慮にもかなうと見えたり、たとい祈らずとも、この心持ちあらば、神明の加護之あるべし。いのるとも心まがらば天道にはなされ申さんとつつしむべし。

私心なく、あるべき道理をありのままに捉え行う心の常態、それがここにいう正直の徳なのであった。「早雲寺殿」の「正直憲法」「心を直にやわらかに持ち」「ありのままなる心持ち」が、この中世一般の正直に内容的につながるものである


有りのままの自己を以て世に伍しうる武士のみがありのままの事実に即して他を批判することが出来る。

日本の武士社会には、敵をも愛せよという考え方は生まれなかったが、敵をも敬えという思想は形成された
敬意を表すべき優れた武士に対しては、敵味方の区別なく敬意を表すべきなのである。

言葉が真相をおおいかくすものと理解されるところにおいては、「理をいう」こと、いいわけをすることは武士としてあるまじき事と理解されてくる
弁明・いいわけは武士のなすべきことではない。弁明・いいわけをしないことが、まさにありのままに生きる武士の生き方なのである。

徒に広言過言する武士、あすなろう武士として軽蔑される
ただ証拠のない弁明を否定する武士の世界において、創意工夫が生まれにくかったことも指摘しておかなくてはならない

客観的事実としての自己の外に自己を認めず、よくもわるくも自己の価値はこの事実において評価さるべきであるとするのが、ありのままを尊重する精神におけるもっとも注目すべき姿勢である
このありのままには自負が支えになっていることを忘れてはならない。

事実性を重んじ、いいわけを潔しとしない精神は、ありのままの己を以て世に立つ精神である
武士には内外の区別が存在せず、内外一体的な理解が働いていた

近世の日本人は、人間が至誠に生きようとすれば、至誠たりうる可能性を信じていた俯仰天地に恥じぬという自負もここから生まれ得たのである

「男道のきっかけ」をはずさぬこと、それが武士の生命であったのである。

名・恥は、この一個の武士としての名・恥であり
戦国武士は、このように、自分が尊敬に値する武士であることを自分自身が納得する事実――証拠を求めてやまなかった。証拠によって武士は自己自身をも評価するのである。事実・証拠を尊重する精神が武士にあったことについては既に明らかにしたが、その証拠尊重の精神が、武士の自己自身との関わりにも働いていることを、われわれは改めて注目しなければならない


「恥じ」を考えるとき、われわれは、その根柢に自他の一体性がひかえていることを知らなくてはならない
武士が恥じたのは、自己でありまた明眼――尊敬すべき他者であったのである。

「武士道」相良亨より 1

近代化の方向の中に現在のわれわれがいかに位置するかを知るためには、この百年、われわれが武士的なものをいかに克服し得たかを知る必要があろう。われわれ自身との対決の姿勢を欠くにおいては、武士的なものがその核心において克服されることなく、単になし崩しに表面から姿を消したというにとどまる。もしそうであれば、われわれはこの百年をはじめから出直さなければならないのではないであろうか。しかして、その手続の第一として、われわれは先ず武士的なるものそのものの理解からはじめなければならないであろうか。

少なくとも、主従関係の場において望ましい生き方として自覚された徳性は、他の人間関係の場にも、形を変えて、望ましいあり方として要請された。主従関係にとらわれることなく、関心を広く武士の生活全般にひらき、いかなる場に生きようとも、武士としてのあるべきあり方として常に要請されたもの、そして武士の身についたもの――今これを武士の道徳的気質と呼べば、このような武士の気質をこそここでは問題にしたい。深く、武士を通して日本人の内面に沈殿したものをここでは問題としたい。

この百年、われわれが武士的なものをいかなる深さにおいて克服し得たかということは、依然問題として残されてくる。
伝統を否定するが、これに代わるべき新しいものを生み出し得ないというのが現代の人類一般の傾向であるといわれるが、ことわれわれ日本に関して、武士道に代わるべき新しい何物もまだしっかりと捉えていないという事実は、われわれの祖先の武士的なものへの批判の徹底性に疑問を抱かせるに十分である。
この百年、われわれが武士的なものをいかなる深さにおいて克服し得たかということは、われわれがこの百年、近代化の方向に自らの精神をいかに変革し得たかということを示すものではないであろうか。
近代化の方向の中に現在のわれわれがいかに位置するかを知るためには、この百年、われわれが武士的なものをいかに克服し得たかを知る必要があろう。

われわれ自身との対決の姿勢を欠くにおいては、武士的なものがその核心において克服されることなく、単になし崩しに表面から姿を消したというにとどまる。もしそうであれば、われわれはこの百年をはじめから出直さなければならないのではないであろうか。
しかして、その手続の第一として、われわれは先ず武士的なるものそのものの理解からはじめなければならないであろうか。

新渡戸は、封建時代の子たる武士道は、その母たる制度の死んだ後にも生き残り、一つの無意識ではあるが抵抗しがたい力として、国民および個人を動かしてきたという。武士道が我が国民性の短所についても大いに責任があることを認めていた。また道徳思想として十分に成熟せず、今や武士道の日は暮れつつあることを認めていた。しかし、武士道は完全に絶滅するものでもなく、また絶滅すべきものでもなく、その香気は、新道徳に受け継がれなければならなかった。また、必ず受け継がれるであろうとも考えられた。

ありのままをよしとする武士の精神を理解し批判するためには、その歴史的な形成過程を考えなければならない。ありのままを尊重する精神は戦国時代に特に顕著に自覚された。この戦国時代におけるありのままの精神の誕生を理解するためには、戦国以前の室町の武家貴族たちの生き方をまずあらかじめおさえておく必要がある。という。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 4

(p239~
芥川が忠臣・賊臣という選別に内蔵助の内面とは無縁の、いわばメディア市場における消費的な「代価」の交換を嗅ぎ付けていたといえば、野上は、唯物的な金銭の力が結局は忠義という観念さえ乗り越えて行くという、これまた鋭い見通しをつけていたといえよう。この芥川と野上のおける、「代価」あるいは「御用金」の観察を、人物の内面と心理の解剖から解き放して、歴史的・階級的な観点による批評に変換したところに、昭和という時代における「忠臣蔵」論の特徴が見えてくる。
それを代表するのは、たとえば羽仁五郎の「大石良雄の場合」(「新興科学の旗のもとに」昭四・三)であり、また長谷江川如是閑の「唯物史観赤穂義士」(「中央公論」昭六・五)である。

羽仁は、赤穂事件について、封建貴族が生産の搾取と所有の争奪という基盤を失い、朝廷尊崇と百姓慰撫とが唯一の根拠となったときに起こった、いわば「変態的・観念的」事件であると総括する。浅野家は、そういう歴史的必然の中で、大名取りつぶしの「囮にかかった者」であり、またその家老大石良雄も、復讐のために浪士を「団結」させたのはいいとして、しかし封建貴族的な価値のほかには「一つの希望」も見いだしえず、「解放的改革的意識の酵母」となることもできなかったというのである。つまり、彼らの決起とは、封建貴族団の「最後のあだばな」として、「最も観念的」で、そして「華やか」で、しかし「束の間」的な行動に過ぎなかった。従って、幕府や民衆が与えた「忠臣義士」という呼称は、実はそういう歴史的な現実が彼らに与えた「同情」だったのである。この事件が「文化的存在」として「伝承の中に観念化され美談化」される限り、封建貴族階級の性質は保存され、赤穂義挙録はいくたびも繰り返されて、小市民を感激させ続けるだろう、というのが羽仁の結論であった。

羽仁の言説が、その歴史的な必然論から、一貫して冷めた論調を保持していたのに対し、如是閑のそれには、事件の本質について、も少し突っ込んだ理解をしようとする姿勢が見られる。それというのも、如是閑の論は、復讐に加わりながら結局生き延びた寺坂吉右衛門と、裏切り者にされた大野九郎兵衛が偶然に出会い、「昔物語」に興じる中で、寺坂が大野の「唯物史観」についての講義を聞くというスタイルになっているからでもある。
大野の講義は大星由良之助が芝居の中で「主の仇」など「釣り合わぬ」といったセリフの解説から始まっている。それは敵を欺く計略であったと反駁する寺坂に対して大野は、由良之助のセリフには、封建主従とは契約関係であるという「本音」が隠されており、にもかかわらずその「本音」が「歴史」に押されて、算盤にあわない義挙となったと説くのである。そして、その「歴史」とは、世界は初期資本主義社会へと押し流されている中にあって、徳川政府はむしろ封建社会を旧形態の側に引きとめ、工業経済への転換や商人による富の蓄積を防ぎ、ただ遺産としての金銀だけを、自身を含む大名家の相続で経営するという政策をとったことだという。その上で、そこに温存された封建的隷属関係を、「贋造血縁関係」にまで成長させた過程が、「観念と実践との結合」となったところに赤穂の義挙があったというのである。

ここに、伝統的な隷属関係に生きてきた人間の原始的な感情が、封建的なヒューマニティとなって「臍の辺り」にへばりつき、十二月十四日が彼らのメーデーとなった。また、町人階級は、封建関係を常々外部から暴露的に見る傾きがあるから、武士の「不義挙」を「義挙」に対照させようとして、あの歌舞伎役者のグロテスクな扮装を、すなわち劇化された「忠臣蔵」の方を、「赤穂事件」より持て囃すということにもなった。

振り返っていえば、芥川の捉えた内蔵助は、この復讐が「形式」の点でも「道徳」の上でも、「満足」に近いといっていた。また野上も「相続」された軍資金という拘束性の中で、武士としての「正しさ」を発揮するとすれば、それは仇討ち以外にはないという洞察を語らせていた。そういう二人の観点を、羽仁と長谷川の言説で裏読みすれば、ある「封建貴族」が、既に「無効」となった「契約関係」に準じつつ、「原始的な感情」による事件を引き起こしたということにもなるだろう。そして、この経済的な裏読みが、正面から取りざたされるのは、あの高度経済成長期に続々刊行された忠臣蔵ものであったことは、いうまでもなかろう。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 3

雲右衛門の義士伝が、「武士道鼓吹」を掲げていたことはよく知られているが、彼に限らず明治末から大正期にかけての忠臣蔵は、武士道精神の花盛りであった。それを最もよく示しているのは、芳賀矢一「戦争と国民性」(大五・一)である。その中の一章「花は桜木人は武士」の中で、芳賀は西洋人をしばしば驚嘆させる「ハラキリ」について、日本の武士道が培った「剛毅な精神」の所産として捉え、あらためて四十七士の美学を称えているのである。

そうした武士道を背景に語られる「忠臣蔵」の中で、ひときわ異彩を放つのは、井上剣花坊の存在である。井上は、まず司馬僧正の名前で、「拙者は大石内蔵助じゃ」を刊行するのであるが、これは帝国軍人後援会による刊行で、前編が大正二年二月、続編が大正二年九月で、発行所はいずれも敬文堂である。その前編に序文を寄せているのが、森鴎外なのである。
ところで、司馬僧正が、内蔵助は「義士」ではなくて「人間」だというとき、もちろんそれは、五感を持ち、欲望にとらわれる者を指していよう。と同時に彼は、続編の冒頭に付した「冗語」の中で、その「人間」を「自然主義および象徴主義で書く」と注記してもいたのである。自然主義というのは、ありのままに赤裸々にという意味であるが、象徴主義というのは「平々凡々の人間」でありながら、しかしそれでいて「常人に超越した」処のある内蔵助の「人格の閃き」を「象徴」させるという意味なのだという。

芥川の「ある日の大石内蔵助」は、討ち入り後、細川家にお預けの身となった内蔵助が、復讐という「事業」を「彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した」ことの「満足」に浸ったのも束の間、堀内伝右衛門が外部の噂を持ち込むことによって、彼の満足に曇りが生じ、不快な種が蒔かれるという、ある春の一日を描いたものである。噂というのは、江戸市中に仇討ちをまねることが流行しはじめたということであるが、それを契機にして、同志の中には「背命の徒」をなじり、「乱臣賊子を罵殺」する形勢が生まれている。それについて内蔵助は「変心した故朋輩の代価で、彼らの忠義が益々褒めそやされ」るというこの事態を「新しい事実を発見」と解剖しつつ、いっそう不快さを募らせていくのである。既にこの「代価」という観察に、芥川の独自さは明瞭であるが、しかし、その「内面」を満たす自足感が、他者による相対的な評価の中で揺らいでいるという視点についてはどうであろうか。
「道徳上の要求」すなわち「正義」あるいは「善」の自足性が、あらためて「社会」の中での葛藤や軋轢に晒されて変容するという、その構図が思い浮かべるのは、唐突さを承知の上でいえば、ルソーという存在であろう。
そのルソーについて、かつて寺田光雄(「内面形成の思想史」昭六一,未来社)は、近代人の「内面」が形成される典型を見ていたことがある。ルソーといえば、既に「人間不平等起源論」の中で、いわゆる「自然状態」としての人間の内面的な価値を「社会状態」における人間の「自尊心」に対抗させていたことは知られているが、それはさらに「孤独な散歩者の夢想」に至って、より歴然としてくると寺田はいう。
芥川の捉えた内蔵助も、このルソーと同じ内面の軌跡をたどりながら、しかし結果は「冴え返る心の底へしみ透ってくる寂しさは、この云いようのない寂しさとは、いったいどこから来るのであろう」という吐露で終わっている。その吐露が、寒梅の老木を眺めながら発せられた感慨であることに注意が必要で、彼の内面を一種特権的に満たした「満足」も、また「寂しさ」も、社会を相手にするよりも、むしろ自然による慰藉に傾くことで、自足的な位置のバランスをとっていたことが知られるのである。

芥川の捉えた内蔵助の内面が、他者による相対的な評価にいらだっているとするなら、野上弥生子の大石良雄は、同志によってその内面をことごとく見透かされるものとして描かれている。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 2

福本日南の主張の背景をなしているのは、明治三十七年の国定修身教科書の改訂に伴う「家制国家主義思想」の確立であろう。また明治四十年の「師範学校規定」などの教育制度の制定とも呼応していよう。それらは、翌四十一年の第二次桂内閣の成立とも連動し、又穂積八束や井上哲治郎らの発言とも重なりつつ、「近代忠臣蔵」のイデオロギー的な性格を色濃く投影していたといえるだろう。

忠臣蔵のイデオロギー的な性格を代表する作家といえば、さらに大町桂月を欠くことはできない。・・・「四十七士」(明治四十三年)の結びの一節にはこうある。
四十七士を解せんには復讐を解せざるべからず。復讐を解せんには、忠孝を解せざるべからず。殊に我が国は万世一系の皇室を戴ける国にて忠孝二途なし。四十七士の精神が我が国運の消長に関すること極めて大なり。
それについで、大町はまた「日本及日本人」(明治四十三)の特集「四十七名士之四十七士観」に対して、「四十七名士の四十七士観」を「東京日々新聞」(明治四十三)に連載し、当代の名士の義士観にいちいち批評を試みてもいくのである。
まず乃木・東郷・島村の三将軍、島津、秋元の旧大名のそれについては、文句なく賛辞を呈する一方、元良勇次郎・加藤弘之・浮田一民の三人については、「日本武士の精神を解せざる者」として厳しい批判を浴びせる。そして、彼らとは対照的にラフカディオ・ハーン「神国日本」への思慕を語る高橋是清と、為永春水「正史実伝 いろは文庫」を「忠義浪人」として英訳した斉藤秀一郎の仕事が称揚されている。
「忠臣蔵」の民間への普及において、芝居や小説の果たした役割には大きなものがあるが、とりわけ講談については特筆すべきものが多くある。・・・当時の講談界を三分する神田派・松林派・桃川派の名手や新鋭が競合した場としてもよく知られている。博文館はこの「文芸倶楽部」のほかにも「講談雑誌」や「小説講談ポケット」などを刊行しており、いわば講談文化をリードしていたといっていいだろう。
この「文芸倶楽部」増刊号の講談・落語の人気に注目して、既に雑誌「雄弁」を刊行していた大日本雄弁会が、明治四十四年十一月に「講談倶楽部」を創刊し、新たな組織としての講談社を立ち上げることになる。博文館に次ぐ雑誌王国の誕生である。これに加えて「秀才文壇」を発行していた文光堂が、明治四十五年十月に競争誌「講談世界」を創刊するに及び、ここに講談というジャンルは、明治期における読み物文化を導いていくことになるのである。
講談の需要の多かったことは、当時の新聞の多くが、必ずと言っていいほどに掲載していたことでも知られる。読者のニーズに応えたわけであるが、一方では、学校教育を補完する通俗教育の必要性が、内務大臣床次武二郎などによって声高に唱えられ、その一助として浪花節や講談が、国民道徳の涵養のために推奨されるという背景もあったという。
そしてその成果として示されたのが、通俗教育普及会の編になる「赤穂誠忠録」(大二)という忠臣蔵ものだったのである。この会の顧問には、芳賀矢一、新渡戸稲造・上田万年・森鴎外らがその名を連ねているが、その「序」に芳賀矢一はこう書く。
この時代は、まさに国民誰もが読書をなす時代である。欧米文明国では通俗教育の普及のために図書館設立の運動に努めているが、我が日本では、徳川時代より一種の通俗教育者の任に当たってきたのが講談師で、彼らの役割を無視することはできないと。
この序に続いて、「緒言」には、演劇・小説によって喧伝された義士伝ではなく、的確な考証と教訓の中に、血あり涙ある精神修養書として、かねてから義士伝に通暁している桃川如燕・若燕の口演でこれを世に贈るとも記されている。すなわち「赤穂誠忠録」は講談としての「忠臣蔵」が、史伝としての考証のみならず、いわば国民道徳の宣揚とも結びついた決定版であったともいえるだろう。

羽織なしの着物と肩まで垂らした長髪――その得意な姿にも、人々の注目が集まったという。そうした風貌と、さらに雲右衛門に弟子入りした「三十三年の夢」の著者宮崎滔天との関係をも踏まえながら、かつて花田清輝は、この一代の寵児によって生まれた「雲右衛門節」の形成に、明治初期の書生や壮士に代わる「浪士」の時代を見ていた。すなわち、「日露戦争後、文字通り、時代の子としてときめいていた、福岡の玄洋社を中心に結集」していた「浪人」たちとの関係を見据えての表現である。・・・九州福岡という土地は、近代忠臣蔵にとってのいわば「るつぼ」であったともいえようか。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 1

さて、「近代」という時代に、最初に「忠臣蔵」のステージに上がったのは天皇である。すなわち、明治天皇は、明治元年にはじめて東京へ都を遷したとき、高輪泉岳寺に勅使を使わして、赤穂浪士の墓に対して次のような勅語を与えている。

なんじ良雄等、固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。百世のもと人をして感奮興起せしむ。朕深く嘉賞す。

この天皇の勅語から六年後の明治六年二月、太政官府はいわゆる「復讐禁止令」を発布するのであるが、それにもかかわらず赤穂浪人の復讐劇は、明治天皇のいう「主従の義」の普遍性によって、かつての江戸市民の「感奮」を越えて、さらに近代国民国家の道徳的な指標として引き継がれていくことになるのである。すなわち、「近代忠臣蔵」の始まりである。

「復讐禁止令」は、端的に言えば、仇討ちを私闘による殺人行為と見なし、以後すべては法の下で裁かれることを厳命したものである。封建道徳の美徳として称えられてきた仇討ちが、一転して、犯罪と目されるようになったことは、法制史上当然の推移とはいえ、当時にあって一大変革であったことは想像に難くない。事実、明治新政府は、それに至るまでにジグザグな方針の転換をたびたび重ねているのであるが、
・・・明治元年の暫定的法規としての「仮刑律」の「父祖被殴」の条に「祖父母・父母殴たれ死に至、因って行兇人を殺すは無論」という一節があって、父祖の場合に限って復讐が公認されているという。しかし、
・・・明治四年には、司法省が創設されて法権の統一が再議されるに及んで、ついに
明治六年二月七日、第三十七号布告を以て「復讐禁止令」が発布される運びになったというのである。すなわち、

人を殺すは国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは政府の公権に候処、古来より父兄のために讐を復するを以て子弟の義務となすの風習あり。右は至情やむを得ずに出でると雖も、畢竟私憤を以て大禁を破り、私義を以て公権を侵す者にして、固く擅殺の罪を免れず。

しかし、それでも「孝子の情」については、いまだに定まらず、「今後不幸にして親を害せらる者は事実を詳らかにし速やかにその筋へ訴」えなさいというくだりが「禁止令」には付されていた。それ故、暫定的な法規のまま据え置かれていた「父祖被殴律」について、再度司法省からの伺いが出され、以後たびたびの「改正」を経て、それがすべて撤廃されたのは、実に明治十三年の「刑法」の発布の時であったという。
この「復讐禁止令」の発布をふまえて、福沢諭吉は「学問のすすめ」第六編(明治七年)の中で、何よりも「国法の貴き」ことを標榜し、「国法」に背いて吉良を勝手に殺した赤穂浪人を、私に人の罪を裁いたものとして批判する。ここでは、幕藩体制下における赤穂浪人の復讐が、何のためらいもなく、あたかも既定の事実としての近代国民国家における法の遵守という精神から裁かれていると見ることができるだろう。
それに対して、植木枝盛「赤穂四十七士論」(明治十二年)は、福沢の論は欧米自由文明あるいは公議政体の国法を規範とした啓蒙論にすぎず、現下の日本が「専制独裁の国」と見なさざるをえない以上、たとえ国法といえども「私に裁定」されていると考えるべきだという反駁を展開する。すなわち「人民の与て立定するものにあらざれば、敢えて必ずしもこれに従」う必要はないと植木は述べつつ、彼ら四十七士の止むにやまれぬ「君臣の情誼」による復讐を弁護しているのである。
無論、これは赤穂四十七士論というより、人民の抵抗権をいうために、人々によく知られた赤穂事件を利用した(家長三郎)とされているが、・・・・

2011年2月25日金曜日

「腹を切ること」(司馬遼太郎)より

自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治以前まで受け継がれてきたごく特殊な思想の一つであった。希典はその系統の末端にいた。いわゆる陽明学派というものであり、江戸幕府はこれを危険思想とし、それを医学とし、学ぶことを喜ばなかった。この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、時に主観をもあわせつつ物事を合理的に格物致知してゆこうという立場のものではない。陽明学派にあっては己が是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのように己が知った以上、精神に火を点じなければならず、行動を起こさねばならず、行動を起こすことによって思想は完結するのである。行動が思想の属性か思想が行動の属性かは別として行動を伴わぬ思想というものを極度に卑しめるものであった。
いわば秩序の支配者にとっては恐るべき思想であり、学問をいうよりも宗教であることのほうがややちかい。
陽明学を信奉すれば「懦夫をも志を立てしめ、頑夫をも潔からしめ、人格に生気を帯び、行動に凜気を帯びしめる」と当時いわれたが、それだけに危険であった。この学派にあっては動機の至純さを尊び、結果の正否を問題にしない。飢民を見れば惻隠の情を起こす。そこまでが朱子学的世界における仁である。陽明学にあっては惻隠の情を起こせば直ちに行動し、それを救済しなければならない。救済が困難であってもそれをしなければ思想は完結せず、最後には身を滅ぼすことによってて仁と義をなし、おのれの美をなすというのがこの思想であった。・・・この学問にあっては事の成否を問うことを卑しむ。事が成功するかどうかを考え、成功するならやるというような考え方を不純として排斥するのであり、この思想に忠実である限り、大塩平八郎は何人も出るであろう。
乃木希典のこの道統は、これの縁族である吉田松陰と玉木文之進から出ているという意味で、長州における陽明風山鹿派のもっとも正統な系譜を継いでいるであろう。
この陽明学をたれに施してもことごとく右のようになるというのではなく、もともと性格として陽明学的体質というのがあるのであろう。そういう性格者の中に陽明学思想が入ったとき、その性格に正義が与えられ、倫理的に琢磨され、その行動に論理が与えらえるのに違いない。あたかも十七世紀の英国キリスト教会に起こったフレンド派の如く、その会派に属する者のことごとくが身を震わす者になるのではなく、選ばれた気質の者だけが主の御言に戦慄し、絶対平和のために挺身し、常識外の純粋行動をとるのと酷似していた。


帝にとって鉄舟がかけがえがないというのは、鉄舟が帝にとって郎党であることであった。資本主義体制下の立憲君主国の君主である帝は、近代憲法上の法制的存在であり、自然人としての人間である部分を少なく生きている。帝が率いている者は臣僚であり、官僚として存在し、彼らも又法制的存在であり、帝の前に出たときは自然人ではない。彼らに対して帝は家来であるという人間的親密さを持つことができないのである。中世の頃、草深い関東の野で鎌倉武士たちがつれて歩いたあの郎党・郎従・家の子といわれる存在に近いものが山岡鉄舟であり、それであればこそ、帝は鎌倉武士がその郎等を愛したように鉄舟を愛した。
一種の錯覚がなければならない。狂言における太郎冠者がそのあるじの大名に対するように、あるいは「義経記」の武蔵坊弁慶がその主人の義経に対するように、自分という自然人の自然人としての主人が帝であると思わねばならなかった。他の臣僚のように、帝を近代国家の法制的存在として尊崇するのではなく、帝が草深い田舎の土豪であるような、自分がその土豪の家の子であるような、そういう錯覚を持たねばならなかった。鉄舟にはそれがあった。希典の成熟時代は鉄舟の頃よりも国家も皇室もはるかに整備され、帝の存在はいよいよ象徴化されていたが、乃木希典という性格はそういう法制や法制的組織をたとえ頭脳で理解できても彼の過剰な、異様なほどに強い従者としての情念はそれらに対して無感覚であり、彼が帝を思うときは常に帝と自分であり、そういう肉体的情景の中でしか帝のことを思えなかった。希典は、常に帝の郎党として存在していた。


が、帝は、この戦争をその知謀と精力的な活動によって勝利に導いた児玉よりも、希典の劇的たたずまいのほうを好まれた。希典の劇的さは、その性格行動だけでなくその宿命までが劇的であり、彼はその二児をこの戦争で喪わしめた。戦闘服を着ていま嗚咽している希典の姿は、児玉などよりも日露戦争そのものであり、この戦争の悲壮と壮烈を一身に具現しているかのようであった。乃木には礼服でなく戦闘服が相応しかった。


本来東郷という人は若年の頃から忠義忠誠などという言葉をことさらに言わぬ人物であった。東郷だけでなくこれは薩摩士族の共通性格であり、彼らはたとえば西郷や大久保でさえ、忠義や忠義哲学についてあらたまって語ることをしなかった。島津時代からのこの藩の士風で、忠義などは人が飯を食うが如く当然のことであり、それをことさらに言挙げするを恥ずる風さえあった。これとは逆に希典の育った長州は観念の論議を喜ぶ風があり、しきりと忠を言い、それを終生言挙げし続けることを以て武士たる者のほむべき骨柄としていた。


希典とその妻の殉死の報は、それから一時間後には、大葬拝観のために堵列している群衆の間に広がったらしい。すぐに世界に広がった。希典は既に旅順要塞の攻略者としてこの当時の日本人としては他国に対する知名度が最も高く、その死は文明世界のほとんどの国の新聞に掲載された。その論評のことごとくがこの日本の貴族の演じた中世的な死の様式に驚きつつも、そのほとんどが、激しく賞賛した。既にヨーロッパにおいてはどの国でも王室の尊厳と貴族の権威が失われつつあり、その典雅で剛健な秩序を哀惜する者はこの希典の死を世界史的な感覚で捉え、奇蹟の現象として感動した。彼の思想の過去の系譜の中にあるこの稿の冒頭の人々が、すべてその行動よりもその劇的な死によってその同時代人や後生に思想的衝撃を与えたように彼の死もその劇的な時宜を得た。

「要塞」(司馬遼太郎)より  2

筆者が乃木希典についてかねて抱いていた疑問は、この将軍が軍事技術者としての自分の能力の乏しさをどの程度まで知っていたか、あるいはついに気づかずに過ごしたか、気づいていながらあえて陛下の将官である体面上気づかぬふりでいたか、あるいは且つもしそれに気づいているとすれば、現実の任務(将官としての)との間にどのような懊悩自責があり、どのように彼自身の中で屈折したか、ということを知りたかった。
この「案山子」がそうにちがいない、と思った。案山子とは、新村出氏の「広辞苑」によれば「竹や藁などで人の形を作り、田畑に立てて、鳥獣のよるのを脅し防ぐもの」とあり、その第一義から転じた意味として「見かけばかりもっともらしくて役に立たぬ人」という釈義も出ている。乃木希典は、自分をもってそれであるとし「その役立たぬ人」というのが自分の肖像であるとして案山子を書かせた。・・・・と筆者は思った。しかしよく考えるとどうも違うように思われる。乃木希典は休職にあたって、「案山子として晩年を終わるべし」ともらし続けていたという。とすればなるほど非職(休職)軍人は姿ばかりの軍人で現務を執らせてもらえないから案山子であり、無能の意味ではない。乃木希典は単に現務をとりあげられたことについての深沈とした心境を案山子に託しているのであり、無能の謂いではない。「晩年は案山子として」という限りは、それ以前はむろん案山子ではなく、生き生きとした能力を持つ活人物であるべきであり、そう思っていたことになるであろう。
・・・乃木希典はおそらく筆者の考えていたような、自分の能力に疑いを持つというようなことは、あるいはなかったかもしれない。


旅順を攻撃するという話が浮かび上がったのは開戦後、ずいぶんの期間が経ってからである。それまでは、旅順を攻めるという案はなかった。故川上操六案にもなかったであろうし、故田村恰与造案にもなく、児玉源太郎案にもなかった。この遼東半島の尖端にあるロシアの租借港に然るべき要塞が築かれつつあるということは大本営も察していたが、これを攻略せねばならぬというほどの戦略上の必要を、日本陸軍は感じていなかった。あくまでも対露作戦の目的は満州の中央平野においてロシア軍を撃滅するにあり、こういう辺地の要塞など、本戦が勝利に帰せば捨てておいても朽ちてしまう。その意味で、陸軍の旅順無視は戦略上正しいであろう。ところが、海軍がそれを要請した。


この当時、既に近代要塞に関する戦術論がヨーロッパではやかましく論議されていたし、そのうち最も優れた意見としてフランスのボーバンのいう「完全築城を施した要塞を攻撃するにはいわゆる正攻法をもって進まねばならない」ということが原則化しており、それらの書物は、参謀本部にも陸軍大学校にも来ているはずであり、軍人ならば当然の義務として読んでいなければならない。ボーバンのいう正攻法とは、要塞とは裸の歩兵で奇襲するべきものではないということであり、構造物そのものを物理的に破壊せねばならないということであり、その方法をいう。つまり工兵と砲兵の圧倒的使用ということであった。日本戦史の上でいえば、城攻め――要塞攻略――でボーバンはいう「正攻法」をとったのは豊臣秀吉であり、備中高松城の水攻めがその好例であった。・・・が、大本営が乃木希典にあたえたのは、わずか三師団の歩兵と野砲一個旅団、重砲兵三個連隊であった。その砲のうち、十五珊(さんち)の青銅臼砲、九珊の青銅臼砲が混じっていた。火砲が鋼鉄になってから久しいというのに、維新前後に通用した青銅砲を持たせてやるというのは、理由は別として、乃木希典はこの事態の中では、客観的存在として既に不幸な戯画である。


とにかく、大本営の方針は、「強襲をもって一挙旅順上を屠る」というものであっった。敵要塞から多少の抵抗を受け、それがため多少の犠牲を払うとも、あくまでも肉弾をもって奪る。肉弾をもって火砲の不足を補わねばならぬ、というのが基本方針であった。それには精神家の乃木が最適であろうと大本営は思ったかどうか、それは分からない。「乃木には乃木でなければならぬ役がある」といった前記山県有朋の言葉は少なくとも旅順を想定した時期の言葉でなく、この言葉をもってこの人選の理由を探るわけにはいかない。


要するに乃木の最初の不運は、名だたる旅順軽視論者をその参謀長と副参謀長にしたことであろう。ちなみに、日本陸軍の慣習は、司令官の能力を棚上げにするところにある。作戦のほとんどは、参謀長が立案し、推進してゆき、司令官は統制の象徴であるという役割のほか、作戦の最終責任をとる存在であるにすぎない。


彼がドイツ滞在中に感じた欧州各国における徳義の根源は、宗教であると見たようであった。「しかるに我が邦仏教のごときは、目下殆ど何の用をなすところなく」と書き、軍人の徳義の根源は天皇と軍人勅諭と武門武士の伝統的忠誠心に求める外ない、と見、その旨を前記意見具申書に含めて書いている。徳川時代に確立した武士道は死を前提とした上に成立しており、それへの到達は自己を常住死の意識の中に置くという自己鍛錬以外にない。乃木希典は自己美の感性のために絶えずそこへ意識を集中してきた。彼は軍事技術者よりも自己美の求道者であり、この「棺が三つ並ぶまで葬式を出すな」といったのは、他人への演出ではなく、自分自身への演出であった。


「元来、種々の評判多き司令部なれば」と、参謀本部次長の長岡外史が、満州総軍参謀井口省吾少将へ長文の電報を送っている。評判というのはその信じられぬほどの無能と上級機関の助言に一切耳を傾けぬ頑固さということであろう。大本営の中には乃木と伊地知で構成している第三軍司令部を復員解散させ、人事を一変させてしまおうという意見も有力になりつつあった。そうなれば乃木は自殺するに違いない、しかし、自殺させよ、戦局の危機を救うために乃木を殺すこともやむを得ない、ということであった。大本営の長岡外史は、「司令部内の空気を清め、一方には新鋭の兵力を呼び寄すること必要なりと断定す」と、満州総軍に打電している。
しかしながら、乃木と伊地知は、なおも二〇三高地に攻撃の主眼をおこうとはせず、頑固に最初の強襲攻撃の方針を捨てず、連日おびただしい死を累積させつつあり、そういう乃木や伊地知の姿は、冷静な専門家の目から見れば 無能というよりも狂人というに近かった。


「伊地知では無理だったのだ。乃木がかわいそうだ」と、児玉は馬を粉雪の中にかけ入らせながら、彼のただ一人の随員である田中国重少佐に向かって叫んだ。少佐は叫び返したが児玉の言葉が聞き取れず、やむなく馬をあおって近づいてきた。「あいつには、ヨーロッパ人が何者であるかがわからん。シナ人同様に思っていたのがあいつの作戦の根本のあやまりだ」と、児玉はいった。この戦争の初動作戦の一つである第二軍の金州、南山攻めで奥保鞏が費消した弾量だけで日清戦争の全期間の費消量を越えてしまっており、これには大本営も狼狽した。これほどの物量を使用せねば対抗できぬ相手であるとは、どの日本人も感覚としては思ってもいなかった。ヨーロッパ人が感覚として日本人の中に入ってきたのは、金州・南山の激戦によってであろう。
・・・児玉源太郎によれば軍人の頭脳は柔軟でなければならず、新しい現象に対して幼児のように新鮮な目を持たねばならないということであったが、乃木と伊地知の組み合わせはどうもそうではないらしく、いつまでも十年前の日清戦争であるらしかった。伊地知は軍部きってのヨーロッパ通であり、少将級では最も留学期間が長い。しかしながら外国文字も読めぬ徳山毛利藩士出身の児玉の方が新しい現実の理解度が鋭いというのはどういうことであろう。将器というのは教育によるものではなく、ついには生まれついての才能によるものであろうか。


乃木大将をして永久に歴史にとどめしめた水師営の会見が行われた。乃木は降将ステッセル以下に帯剣を許し、またアメリカ人映画技師がこの模様を逐一映画に撮ろうとしてその許可方を懇望してきたが、乃木はその副官をして慇懃に断らしめた。敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは日本の武士道が許さない、というものであり、この言葉は外国特派員のすべてを感動させた。
しかしながら、かれら特派員にとって必要なのはこの降伏の写真であり、重ねてそれを懇望した。乃木はついに、「それならば会見後、われわれが既に友人となって同列に並んだところを一枚だけ緩そう」という返答をした。この場合、この許可のいきさつそのものが特派員たちにとってニュースであり、かれらはそれぞれ感動的な電文を綴ってその本国へ打電した。乃木の名は世界を駆け巡り一躍、日本武士の典型としてあらゆる国々に記憶された。・・・乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。彼によって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。
この評判は、あるいは彼と彼の参謀たちを救ったことになるかもしれなかった。大本営内部や満州軍の高級幕僚の間では、この旅順攻囲戦が集結し次第乃木とその幕僚は更迭されてしまうだろうという観測が圧倒的であった。が、乃木はその軍人としての最大の恥辱から免れた。それを免れしめた理由の一つは明治帝の乃木に対する愛情であり、一つには陸相寺内、参謀総長山県の長州人としての友情であり、今ひとつはもし乃木を旅順攻略後に罷免するとすれば旅順における日本軍の戦闘が、最後は勝利をおさめたとはいえ、その途上において記録的な敗戦を続けたということを世界に喧伝する結果になり、外国における起債に響くことは明らかであった。このため、乃木と伊地知以下の人事は国際信用のためにも触ることができなかった。


乃木は自分の軍事能力に(あるいはその不運に)絶望するとき、常に自殺を思い、自殺によって自分を恥辱から救い出し、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射のように起こるようであった。
児玉にとって乃木ほど手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さに殺したいほど腹立たしかったが、しかし軍事技術以外の場面になってしまえば児玉は乃木のようなまねはできない自分を知っていた。児玉ならばたとえ失敗しても一軍を死に陥れることがあっても、そのあとでこのように純粋な泣きっ面はできなかったであろう。これが乃木だ、というのは、乃木の美しさはそこだという意味であったように思われる。

「要塞」(司馬遼太郎)より  1

余談だが、この時期、一般の感覚としては――山県有朋でさえ――軍旗はさほど尊貴なものとはしていなかったであろう。第二次大戦での降伏によって日本陸軍は終焉したが、いわゆる帝国陸軍の特徴のひとつは軍旗を異常に神聖視し、あたかもそこに天皇の神聖霊が宿っているが如くあつかったことであった。この精神的慣習はおそらく乃木希典から始まったであろう。明治十年、それを敵に奪われたがために連隊長が自分の生命を消すことによって詫びようとした。ということで、世間も軍も、その尊貴さを発見した。同時に――話は別だが――この事件は、乃木希典自身の歴史にとっても重要であった。彼はこれ以前にはごく普通の快活な、人並み以上に派手好みの軍人であったに過ぎず、後年の精神主義者としての形相は少なくともその行跡からは片鱗も見られなかった。が、これ以後、明らかに変化している。その面貌に陰鬱さが加わり、その骨相上の固有の特徴である泣きっ面がこの時期から目立ちはじめ、しばしば大酒をし、酒を飲むとかならず荒れ、常住、何か痛刻なものを宿している様子の人物になった。それまで彼自身の中で背をかがめていた精神家が、このあたりから顔をもたげたように思われる。
乃木にとって軍旗を失ったことは天子への罪であり、その罪を常に意識し続けることによって、ちょうど封建時代の殿様と家来の関係のような、そういう直接的な手触りで天皇の存在を意識し、意識するだけでなく体の中で感ずるようになったのであろう。他の日本人にとっては天子は明治政府の教えるが如く生神さまであり、多分に観念の中での存在であったが、乃木希典の場合はひどく肉体感のある君主であった。その明治帝が崩じたとき、乃木希典がちょうど封建武士が殿様に殉死するような、そういう肉体的親さを感じさせる自然さで殉死したのは、やはりこの軍旗事件における自責の念から育っていった感情であるに違いない。
その感情は、後になるに従って、明治帝にも自然に通じてゆき、明治帝にとっても乃木希典がまるで鎌倉時代の郎党であるかのような、そういう実感を持つようになり、そのことが乃木にも伝わり、乃木を感動させ、彼をして近代日本の中で希有といっていい古典的忠臣にしていった。
この軍旗事件は、もし他の別な士官の身の上に起こっていたならば、自責の結果、この残酷なばかりに不名誉な過失を契機に、あるいは違った発奮をするかもしれない。例えば敗北を苦にし、再び右のようにならぬよう自分の近代的軍事技術を磨こうととするかもしれない。しかし乃木は――これは彼の特質であるであろう――精神主義の方へ行った。精神主義は多くは無能な者の隠れ蓑であることが多いが、乃木希典の場合にはそういう行為はない。しかしながら歴史の高みから見れば、結果としてはそれと多少似たものになっている。


明治十八年、三十七歳、五月二十一日、陸軍少将に任じ、歩兵第十一旅団(熊本)旅団長に補せらる。
明治十九年、三十八歳、十一月三十日、ドイツ国留学を仰せつけらる。
このドイツ留学の結果が、少々乃木希典の性行、容儀、嗜好、日常習慣、といったものをすべて一変させた。大げさに言えば、倫理性が一変した。人間を倫理的存在としてみる古い時代の哲学者の定義を借りるとすれば、乃木希典は別人になって帰朝したといっていい。そういう人間現象がありうるものかと疑う者があれば、われわれは乃木希典を実例に出さねばならないであろう。
かれらが(乃木と川上)がドイツでやらねばならぬことは、世界的戦術家とされる参謀総長モルトケに師事し、その推薦による参謀に直接の教授を受けることであった。
乃木希典は主に服装と容儀に関心を持ち続けた。デュフェに毎日親炙することによって、デュフェが居常笑顔を惜しみ、常に威厳に満ち、その挙措の端正であることにほとんど衝撃に近い感動を受けた。
ドイツ人はこの点ではヨーロッパ諸民族の中で特異であり、かれらは何よりも制服を好み、制服によって人格をつくるとさえ他の民族から揶揄されていることなど、極東から来た乃木にはむろんわからない。
乃木希典はドイツ参謀本部への留学以後、その居常は独特の生活規律を持つようになり、精神家として大きく傾斜した。彼の生涯を深く歴史に印象づけたのは旅順における近代要塞への攻撃とされているが、このドイツ留学中、その生涯で唯一というべき近代戦術の習得の機会において要塞と要塞攻撃に関する研究はなかったようであった。乃木希典の関心事は、あくまでも教育(自己に対する教育も含めて)であり、精神美の追求であったにちがいない。

2011年2月23日水曜日

直情径行の気質と陽明学

直情径行とは「自分の思うままに行動して相手の立場を思いやらないこと。礼儀知らず。」である。
英語では、「be honest in one's actions / be of a straightforward disposition」となる。
類義語として直言直行(ちょくげんちょっこう) / 猪突猛進(ちょとつもうしん)が挙げられている。
直言直行とは「思ったことははっきり言い、考えたことをそのまま行うこと。自分の気持ちを、そのまま言行に反映させるという意」であり、陽明学の求めた「知行一致」である。明治維新を先導する力となった。
しかし、「直言直行」は、視界が曇り、独断と偏見に陥ったとき、また視界が狭くなり、他者への配慮、客観的な思考を無視したとき、「直情径行」となる。
近代化を急ぐ日本の象徴的な行動様式となった。無心に近代化を求めた日本人の姿がそこに現れたのである。無心であったから、それだからこそ、径行に走ったのであろう。
無心には二つのとらえ方がある。ひとつは「固定的なとらわれがなくなった状態、あるいは心に何のわだかまりもなく素直であること、自然ままに虚心であるさま」とするもので、「無心に遊ぶ子供」といった表現で用いられ、無私、無欲と同義とされ、武道では境地の一つとされた。しかし、日常生活における「無心」は「ある方面についての心の働きが欠けていること」であり、大人げない行為であり、依存的な態度の一つなのである。その側面に無頓着であったこと、それが日本の無神経さであったのである。
こうした態度をまた短絡的という。径行とは「まげないで(他を無視して)行うこと」、短絡とは、「事柄の本質を無視して刺激と反応、問いと答えを簡単に結びつけてしまうこと」である。その態度において、「無視する」という共通点を持つ。
効率化には、径行と短絡は有効である。機械的に試行錯誤を繰り返し、問いと答えを結びつければよいのである。径行は最短距離を行くことであり、短絡は電位差をゼロにする。径行も短絡も無駄を無くす。結果は差がなくなり、同位が実現され、フラットになる。


無心、無神経、無私、無欲、無視、すべて実在しない物である。言葉と同様に、しかし人は実感し、その意味をつかむことができる。行動もそうである。働きとして、対象物に作用を及ぼしたとき、存在が顕わになる。


自主的行動とは、他に依存しない行動であり、それ自体で存在する行動である。自律的行動である。認められるものであって作用するものではない。行動が他に作用するとき、働きとなり、働きが目的において機能となる。
経行という言葉がある。「めぐり行くこと。過ぎ行くこと。」である。経験を積み、人生を味わい意味を見つけ出す行動であろうか。また啓行という言葉もある。「先にたって道を開くこと」とある。人生、社会を豊かにするのは径行ではなく、経行であり、啓行である。
なぜ、誠が中心課題となったのか。
誠が中心課題とされたのは、この直情径行を避け”直言直行”を実現するためであったのではないか。
思はしと思ふも物を思ふなり 思はじとだに思はしやきみ」と心身一如を追求した。
思考をこらすことは迷いを生ずることであり、間髪を入れず、無心で行動することが求められた。無私、無思が極意(位)であった。しかし、行動が正しいものであるかどうか、質すことが必要である。無思ではその行動を正すことはできない。
その働きを誠に求めたのである。言葉と行動を一致させることに求めたのである。実証である。言葉に表し、認識を明らかにし、認識を行動に置き換え、言葉と行動の一致を正しいとしたのである。言葉によって行動が正されたのである。
言葉を規定し、言葉に準じて行動を規制するようになった。しかしそれは、法が制定され、法によって、心が裁かれるようになったことを意味する。自由であった心が法によって取り締まられるものになったのである。
徳治から法治への移行である。


ミチと同じである。
神経という言葉もおもしろい感じの組み合わせである。
神経とは「『神気の径脈』という意から杉田玄白が『解体新書』の中で用いた語」とされる。
動物体の各部の機能を統率し、又各部と中枢との間の刺激伝達の経路となる器官の総称。繊維状の構造をもって網のように全身に分布し、いくつかの神経系を作る。
「天網恢々疎にして漏らさず」(「老子」73章から)が思い出される。これは「天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ」で、神経と玄白が名づけたときにはそこに神の存在が意識され、それが「心のはたらき、気持ち、知覚、精神」を表現するものとなったのであろう。
われわれの心の働きは神の働きと不分離なものであり、「心即理」というのも、心=神=真=理という関係の中で捉えることができる。心理は神理であり、それは真理である。

"みち"と"ミチ"

"みち"とは、何か。
"みち"は未来に続く、いまだ知られない"未知"のものである。未知を訪ね、知を獲得することが"人の道"なのであろうか
新幹線、高速道路が整備されている。新たな空路、海路が整備されている。技術革新・情報化・国際化は新たな"ミチ"を切り開いている。"ミチ"は便利で経済的なところでのみ整備される。
"みち"が"ミチ"に変化し、近代化が進む。
"みち"は"ミチ"によって駆逐される。
"良貨"が"悪貨"によって駆逐されるように・・・

"みち"を明らかにしたい。

「前途洋々」とは、"前にあるみちはひろびろとしている"ということでしばしば青年期の人たちに適用される言葉である。その青年に向けて「青年よ大志を抱け」とクラークはいった。
"みち"と大志とはどのように関係するのであろうか?

われわれの歩む"みち"は明日に続くものなのか

みちには、道、路、途、径が当てられる。さらに術、行もミチと読まれ、用いられた。
「字源」には、次のように解説されている。
  道は天下の大道筋、唐の十道、本朝の七道の類、往還なり、大小に通じてその用広し。
  路も大小に通ず。宋の二十三路は大ミチ、小路、山路は細きミチなり。
  途は小道なり。
  径はホソミチなり。山ミチあるいは庭中のミチ等いう。コミチと訓ず。チカミチを捷径という。
  行はアルクミチスヂということ。詩経に行露とかきミチの露とよむ。
  術は邑中の道也と注す。
  途と路とは行いのミチに仮用することなし。
  道は行いのミチ、シカタ等にいう。・・・道というは、仮りてその筋々についていうなり。
  術はその仕方・道筋・手だて・行う方法なり。

また、"広辞苑"は次のように解説する。
  道:頭を進行方向に向ける。人の通るみちの意。
  ①通りみち。「道路・道中・沿道・歩道・水道・赤道・鉄道」
  ②すじみち。宇宙を支配する根源的な真理。条理。「道徳・道理・王道・邪道・没義もぎ道・武士道」
  ③神仏の教え。「神道しんとう・得道・伝道・道心」。特に、老子・荘子を祖とする教え。
「道家・道教・道観・道士」

  ④やりかた。専門の技芸・理論。「道具・芸道・茶道・柔道・斯道」
   (用例)
   悪道・易行道・沿道・羨道・横道・王道・陰陽道・海道・街道・華道・歌道・花道・間道・気道・軌道・
   旧道・弓道・求道・行道・魚道・芸道・外道・剣道・権道・坑道・香道・黄道・公道・国道・極道・
   悟道・索道・参道・山道・桟道・色道・士道・師道・斯道・私道・車道・邪道・修道・柔道・衆道・儒道・
   入木道・唱道・常道・成道・食道・書道・神道・新道・人道・水道・隧道・政道・正道・赤道・世道・
   岨道・大道・弾道・地道・茶道・中道・鉄道・伝道・天道・東道・同道・得道・難行道・入道・尿道・
   女道・農道・覇道・半道・非道・貧道・仏道・婦道・武道・無道・報道・舗道・歩道・本道・魔道・
   没義道・吏道・糧道・林道・六道・聞道


  径:二つの地点を結んだ真っ直ぐにつないだ近道
   (用例)
   口径・小径・捷径・石径・鼠径部・長径・直径・半径・蘿径


  途:(目的地までの)長くのびた道
   (用例)
   一途・官途・帰途・三途・仕途・使途・首途・征途・先途・前途・壮途・中途・長途・半途・費途・別途・
   方途・冥途・目途・雄途・用途


  路:目標に至るために経由すべき所(足で連絡するみちすじの意)
   (用例)
   隘路・悪路・一路・迂路・駅路・遠路・沿路・往路・回路・海路・街路・活路・棘路・帰路・岐路・空路・
   径路・経路・血路・険路・航路・行路・語路・順路・捷路・進路・針路・水路・世路・線路・走路・退路・
   直路・通路・鉄路・電路・当路・道路・難路・坂路・販路・復路・返路・遍路・末路・冥路・迷路・要路・
   陸路・理路



2011年2月21日月曜日

日本の道_13(「芸能と仏教」)

やはり服属の証しですね。このように芸能それ自身が政治の世界に持ち込まれるというか、政治と癒着したした芸能になってゆく性格が古代国家の成立に伴う芸能の発展過程では、非常に強いと思いますね。


道を行く者と、訪れてくる者を迎える者との出会いが大切になって、一期一会といった感じがどうしても出てきますね。だから日本の文化というのは、思想も芸も信仰も一カ所に土着して、根を張って勢力を広げていくというのではないんだと思うんです。たえず、どこからかやって来て、また去って行く。その会い方と別れ方を非常に大事にする特徴を持っているんです。これは世界でも珍しいコミュニケーション型の文化だといえますし、だからもともと日本の文化といえば道の文化だし、日本の思想といえば道の思想だと、私は思うんです。定着してしまう文化はどうもだめになるという気がします。


こう考えてみると、日本人の仏教に対する受け止め方は、仏像を一応礼拝の対象にはしていても非常に形式化したものだったと思うのです。それに対して神の方は、もっと日常生活に密着していた。仏教の方では仏像があってお祭りしてあるのに、神は遊行するものだから、静止した像というべきものはなかった。私の考えでは、人間がその代行をつとめたので神はお面だったと思うんです。能面のように人間がかぶる面(仮面)としてあった。そしてその面みたいなものが、やがて芸能の上で盛んに使われるようになっていく。


平安仏教を見ると、こうした最澄的な、対決的な生き方と、空海的な調和的な生き方があって、日本の仏道の二つの系列を象徴するように思いますね。ここで面白いのは、だいたい最澄は近江の出身ですし、布教したのも東国の方が中心のようです。一方、空海は讃岐、佐伯国造の佐伯値の出ですから、出身地も西、基盤も西ということになります。


芸能でいっても荒事と和事といいますか、東日本型、西日本型に分かれますね。・・・仏教の展開を見ても、芸能の展開を見てもどうも二つの型があります。東男に京女、近松・西鶴の上方芸能の世界と、江戸を中心とした芸能の世界の違いもこれですね。仏法でいえば、不動明王の信仰は東日本に圧倒的に多いし、西日本は観音信仰です。だから西国三十三カ所というけれど、全部観音様です。


私は、仏教が入ってくる前までの日本にはあまり歴史意識というのがなかったんじゃないかという気がしているんです。つまり、「永遠の今」といった意識だけがあるわけで、現世は今だけれども、そこへ客のように永遠が、神が訪れてきて、それで「永遠の今」が成り立つという感じですね。だから「古事記」「日本書紀」も――むろん仏教はもっと前に入っていますが――確かに修史事業には違いないけれども、その中には歴史意識があまりないと思うのです。仏教が入ってきて、仏教のもっていた一種の終末史観がこなされたものが日本人のもった最初の歴史意識だと思います。「古事記」「日本書紀」と、仏教を取り入れてから後の「愚管抄」、鏡ものでは歴史意識の点で変質があるような気がするんです。


道教というのは、確かにおもしろいですね。日本では、正史の上には出てこないで、隠れた方に百大夫とか何とか、やたらと出てくる。道ということでいえば、やはり道教ですしね。始めなく終わりなく名づけがたきものをあえて道と名づくということですからね。
神道の道というのは、本来きわめて道教的ですね。道教の思想というのは、民間信仰に非常のスムーズに密着していきます。神道の自然の道という感覚とですね。


「古今集」の世界では、桜花爛漫たる花にはあまりあわれを感じないで、散る花、散華にあわれを感じる。こうした平安朝以来の花の思想みたいなものが、花道にあるような気がします。六方を踏む。、見得を切る、そういう華麗さとともに、潔さみたいなものが潜んでいる。だから、引退する政治家が花道を飾るといったり、あるいは男の花道とか特効隊の散華の思想とかにも共通する心情が出てくるのじゃないでしょうか。
日本には雪月花の思想というのがあります。雪月花の共通点は何かというと、結局、雪は消えるし、月は欠け、花は散るということです。つまり、形がなくなるもの、長く続かないところに、日本人は美を感じてきているのです。


兼好は、非常に短い、限られた人生を歩いていく人間の思いをいっているのですね。前にも言ったように、仏教が入ってくる前と後とでは、日本人の意識が変わったと思うのですが、人生は有限だから、不完全さというものはどこまでもつきまとう。だけど、それこそが真実だ、とこういうわけです。


結局、完結したものは道とはならないということでしょうか。つまり未完であって、連続していくわけで、はじめもなく、終わりもなしという、これがまさに「道は常に無名」ということですね。


仏教を考えてみると、二つに分かれますね。密教と顕教ということもあるし、また同じ鎌倉仏教から出ても、同じ浄土宗の中で鎮護国家の方向へ行く蓮如と、聖の方に徹しきる一遍といった具合に。私の考えでは、この一遍のような行き方が、道の思想だと思いますね。しかも芸能に結びついていくのも、こうした遊行の方です。一遍の時宗は、中世賤民の芸と深い関係を持っています。念仏踊りというのが、まさに象徴的ですが、これは日本の原点みたいな気がします。


本来の寺衆の精神というのは、道行の思想を日本的に体現したものであるということですね。だから男の花道だけでなく、女の花道、人類の花道、つまり人類の道行をいかに創造していくか。最初にもいいましたように「道は未だ知られざる"未知"」でもあって、未完の道の思想、これにはたくましい創造性があります。そういう点からの道の再発見が大事だということになりますね。


神道のことを考えてみますと、仏教は一つの規範としてできあがったものとして入ってきたのに反して、日本にはそういう体系だったものがなかった。結局、神の行動のあとをずっとつづり合わせたものが、あるかなしかだった。神道はいわば神の履歴書です。神の踏んだ跡それが神道です。


明治以降の国家神道は神仏分離で仏教的な要素を排除し、国民道徳の中心みたいにした点で、もっとも神道的ではなかったといえますね。仏をも排除しないのが、日本神道のユニークなところです。神道の強さは、ある意味でこの点にあると思います。対決の論理をもっているものは、対決の論理によって倒されるわけですから。それを持たぬものは転向が極めて可能です。表面では、崇仏論争とか対決しているように見えて、実は相手の論理を取り入れているわけです。これは未完の強さともいえます。完結した論理はむしろ弱いですね。
仏教に話を戻せば、最澄はある意味では未完です。だから天台の教えからは、法然、親鸞、日蓮などが出てくる。これに反して空海は非常に偉大で、もう完結しているから、密教は広まるけれども、空海の後にはあまり傑僧が出てこない。


学問も未知の世界に挑むことであって、完結した既知の世界は物知りをつくるだけだということですね。


日本神道の弱さは対決の論理を持たなかったことですが、それがまさに強さにもなっているわけです。しかし、それが無意識になっていることが恐ろしいんです。もっとそれを自覚していけば、強さが強さとなり弱さが弱さになる。自覚されていないために、非常に都合よく権力に利用されるということになるんじゃないですか。


道の思想とは、もともと遊行し、フィードバックする。受け身で自分の中に閉じこもっては伝統には成らず、伝承に過ぎないわけです。伝統というものは、常に創造的要素があってはじめて成り立つものではないでしょうか。日本の<みち>の強さ、<どう>の弱さというものをわれわれはもっと認識する必要があると思います。


江戸のはじめの日本文化の大きな部分は、明末の渡来民が支えている。たとえば歌舞伎の発達に及ぼした影響というのは非常に大きいわけです。それから隠元が来て黄檗宗が入ってくる、それとともに煎茶の方法というものも入ってくるわけです。だから、日本の文化、宗教、芸能にしてもみな大陸に道があったからこそ、今日あるのです。やはり、基本的には、閉ざされた道ではなく、開かれた道であったということが大事だと思います。

日本の道_12(「道ひとすじ」)

乃木希典
乃木希典の頭の中では、部門と装でない一般国民とが截然と区別されていた。専門の武人は、生命を国家に預けてしまうことによって高給を与えられ、支配階級の一員に加えられている。国家の危急にあたってはちゅうちょなくその生命をささげなければならない。一般国民はそうでない。支配階級の側に席が用意されていないかわりに、支配体制のために死をもって仕えることも要求されていない。乃木は、明治の現実を、そのように、封建時代の武士と庶民の関係からあまり遠くは隔たっていないところでとらえていたはずである。乃木の武士道とはそのようなものだ。武士のみが常に死を覚悟し命がけで主君に仕えるのだというように、徳川時代に観念だけで極度に純粋化されていた武士道を乃木はそのまま受け継ぎ明治国家に当てはめようとしていた。
徴兵制によって、一般国民がほとんど無権利のままで兵役に組み込まれ、事変が起これば死地に立たされることになったのである。乃木が武士道の担い手であるべきだと考えている職業軍人は、むしろ、その庶民兵の生命をいかに有効に使うかという軍事技術者に転化してしまった。

乃木にとって、日露戦争の旅順攻撃は、最大の悲劇の場であった。乃木は、究極のところ国家に提供できるものとして、自分自身の死しかもっていないのだが、軍司令官として、彼の武士道よりすれば生命を求められていないはずの庶民兵たちを、大量に死に追いやらねばならなかったのである。死ぬべき自分は死ねず、死ぬべきでない庶民兵を大量に殺す。乃木の武士道を実としてこの関係をタラ得てみれば、彼の味わった苦しみは常人の想像をはるかに越えるものがあったろう。
殉死をめぐる議論
乃木の殉死をめぐる議論には、大まかに分けて二つの系列がある。一つは、白樺派の作家たちは、また芥川龍之介の「将軍」などに代表されるような、乃木に対する侮蔑と殉死という行為への嫌悪感とを示したものである。近くは、世評高い司馬遼太郎氏の「殉死」も、ちょっと強引な分類で申し訳ない気がするけれども、やはりこの系列に入ると考えてよかろう。
もう一つは、当時では森鴎外、少し遅れて昭和十年代の日本浪漫派の人々に見られたような、乃木を「純粋痛烈な理想家」だととらえる立場である。


内村鑑三
鑑三の重さとは、すなわち、この無限の思想の道を一筋に歩む者の重さだったのである。


河上肇
河上にとっては「道」はすべて命がけの飛躍であった。大観するならば第一は「彼が二十七歳の時」の体験と持ち物一切を放擲して身を「無我苑」に投じたこと。第二はそこに安住の世界を求め得ないで経済学研究に没頭したこと。第三はその経済学はブルジョア経済学であったことよりして、これを踏み越えてマルクス主義経済学への飛躍を遂げたこと、第四は実践としての地下運動・党員活動・獄中における求道生活。第五は一切を通しての宗教的心理と科学的心理との弁証法的統一を自覚したこと。いうなれば彼の人道主義は多くの豊かな肉付けによって非転向マルクス主義者として将来への示唆多いみずからを作り上げたこと。

日本の道11(「変革の論理」)

荻生徂徠
徂徠においては「道」という観念はその思想の中核的位置を占めるが、彼は「先王の道は外にあり」(弁名)という。そして彼以前の儒学は「外を軽んじ重きを内に帰した」(弁道)と批判する。・・・徂徠のいう道は、外的な者、客観的実在としてとらえられるものである。
前期の思想家たちの主要関心事は世俗社会における人間的真実の内的探求ということであり、彼らの探究の態度は求道的、求心的であった。ところが徂徠以後の儒者の主要関心事は一方においては文献学的、考証学的研究であり、他方では経世済民の問題であった。いずれにしても彼らの探究の態度は、外面的、遠心的となった。そしてこのような展開の機運をつくったもの、それが徂徠の道についての考え方なのである。
徂徠は、この道は、一言でいいあらわすことのできない多様なものであり、多くのものをその中に含めた包括的存在(統名)であるという。・・・彼は老荘のいうように道は自然に存在するのではなく、中国の堯舜等の先王たちによって制作されたものと考えたからである。その制作されたものの内容には、卜や医薬や農業のような「利用厚生」的な面も含むけれども、徂徠が最も重んじたのは「礼楽」という人間を人間らしい存在とする文化的制作物であった。人間は文化を持つことによって人間となる、と徂徠は考えていたのである。
しかし、徂徠以後、文化の道と経世済民の道とは分化した。そしてこの傾向は今日まで続き、この両者が相互に影響し合うことによって、それぞれを豊かにしていく可能性はほとんど見失われてしまった。この統合の道は何か、それは徂徠がわれわれに残した宿題であろう。


本居宣長
宣長によれば、ことごとしく「道」をいいはることじたいが、"からごころ"であり、儒者たちの説く"聖人の道"は所詮「ただ人の国をうばわんがためと、人に奪わるまじかまえとの、二つにすぎずなもある」ということになる。儒者が「皇国をしも、道なしとかろしむる」のは、わが国には「道」があったからである。そのゆえに道についての"ことあげ"がわざわざなされなかったことを知らないためであり、逆に儒者が「道々しきことをのみ言いあえる」は、実は「道ともしきゆえ」であったためだと断言する。
道徳としての道、治国教化の道は、心の「道」にあらずとした宣長の立場は、人間の心情(まごころ)を重視する契沖以来の国学の思想を、最も端的に表明したものであった。
彼はいう。「其はただ物にゆく道」である。その説くところは、極めて明白である。「美知(みち)とは、此記(このふみ)に味御路(うましみち)と書ける如く山路野路などの路に、御ちょう言を添えたるにて、ただ物にゆく路ぞ。これをおきては、上代に、道というものはなかりしぞかし」。
人の歩むべき道、あるいはまた人が歩まされる道ではなく、人がおのずからに歩んできた路、「ただ物にゆく路」のみが、「道」であった。それは「おおらかにして事足りぬる」道であり、「優れたる大きな道」であって、「実は道あるが故に道ちょう言なく、道ちょうことなけれど、道ありしなりけり」という「道」の姿であった。
何々せねばならぬ道、かくかくあるべしとする道、強制の道、当為の道、規範の道は、彼が最も嫌った道であった。
儒者の"からごころ"にあれほど厳しかった宣長が、幕藩体制の治者の世界に、心情に基づく"ことあげ"のやいばを向けず、そのさかしらをあばきえなかったのも、宣長自体が被治者の立場にとどまって、変革者の立場にいたり得なかったためである。彼は単なる復古主義者ではない。だが「今より後もまたいかにあらん。今に勝れる物おおく出来べし」としながら、未来への展望は、なお不十分であった。道は"未知"でもある。未だ知られざる明日にいかに創造してゆくか、そのことを問わなかった宣長学の限界は、同時に彼における道の限界となっている。


佐久間象山
佐久間象山は思想史的に言えば、儒教の合理主義的側面と、自然科学に代表される近代西欧の合理主義とを同一化することを通じて、儒教文明に属した日本を、近代ヨーロッパに発祥した科学文明へとバトン・タッチし、そのことによって日本の国家的独立を守ろうとした人であるといえよう。
彼の「道」についての考え方にはこれまでにない要素が三つ結びついていた。第一は道と科学技術との結合であり、第二は道と時勢との結合である。第三は、道と力との結合である。
では彼のいう時勢――幕末・維新期の日本のおかれた状況とは何か。それは国際政治においては、力が何よりも有力な地位を占めるということである。彼は国際政治における道徳や正義の要素を無視するのではない。しかし力なくしては、道徳も正義も実現できない、というのが象山の考えである。
たとえ中国は敗れても、それが儒教文明そのものの敗退であってはならない。そのためには、儒教文明を維持しつつ、しかも日本が西洋諸国の科学技術・軍事・政治・経済等の諸力に対抗しうる道を発見する以外に取るべき態度はない。――象山の思想と行動の源はここにあったというべきであろう。


吉田松陰
松陰は一方において現実主義的側面をもっていたが、他方では絶えず現実を突破することを通じて現実と関わろうとする主体的・実践的面を強く持ち、求道的・求心的な、しかも現実から逃避しない実践者ともいうべき人であった。従って「道」ということは松陰にとって重要な問題であった。
「道が清純であるか、ないか、事業が成るか、ならないか、は、ひとえに志が立つか立たないかによる。ゆえに士たる者は自己の志を立てなければならない」という言葉がそのことを最も明らかに示すであろう。
松陰にとって士道は儒者の道であるとともに武士の道であった。儒教の武教化すなわち士道は山鹿素行において本格的に成立したが、松陰はその直系であり、士道的武士の理想像といってよいかもしれない。文武の興隆や文武の一致ということは、当時の心ある武士たちによっていわれたことだが、彼は文武の興隆の動力となる精神的要素を重要視する。
そしてこの精神的要素というのは「文武御興隆の大本は御家中貴賤をえらばず剛毅木訥の風をなすことが、第一義と存じ奉ります」とあるように、「論語」に言うところの剛毅木訥の気風である。彼は、剛毅木訥の気風が培われなければ、どれほど文武に長じても、どれほど人材を成就しても国家に益するところは全くないという。
儒教世界に生きた人々にとっては、それは普遍的倫理と信ぜられた。「道は天下公共の道」であり、「道は天地の間一理であって、そのおおもとは天から出たのである」と信ぜられたのである。この信念は、極東世界における自然法的理念の根拠であった。
「天下は一人の天下であって天下の天下ではない」といって、一君万民の考えを提出する。この考えが明治維新の変革の原理になり、明治国家の支配の原理となったことはいうまでもない。ただここで見落としてならないことは、松陰においては、日本の国体に現れた道は、あくまで日本の「独」であって、他国にも通用する「同」ではない、とされていることだ。


勝海舟
彼が「御公儀=幕府」に義理を感じなかったのは、龍馬が「土佐=御国」に冷淡だったのと同じだった。

日本の道10(「町人の道」)

鳥居宗室
安土桃山の変革期を生き抜いた博多の豪商である。その私の五年前の慶長十五年(1610)に、子孫の戒めとした十七条からなる遺言状がある。
まず貞心、律儀と慇懃すなわち人間としての徳目を挙げ、五十歳になるまでは後生ねがいなどの信仰は無用であるとし、次いで四十歳頃までの心得として、賭け事、碁、将棋、謡い、舞、茶の湯、物見遊山などは一切無用で、商売を専らとすべきこと、三味線、小唄好き、大酒飲みの友人を避けること、親類は勿論他人への飲食の振る舞いを慎み、衣装好み、道具集めなどの奢侈を禁じ、ひたすら節約をむねとし、朝夕は主人が自ら竈の火をたき、買い物はすべて値切って買うこと、特に唐、南蛮などの外国貿易への危険な投機を避けること、ただし殿様である黒田家やその家老などへは、しばしば付け届けをせよ・・・
その遺訓の最後に宗室はこういっている。――いくさの名人はまず負けるときの用心と手立てをよく考えて弓矢をとるものである。たとえ破れても国を失わず人も損なわない。思案のない武士はその分別がなく、人の国を取ることばかり考えているから、いったん破れると国を失い身もあい果てるものである。「徒然草」に双六の上手は勝とうと思って打たず、負けまいと思って打つとある。しょうばいもそれとおなじである・・・と。日露戦争と第二次大戦の軍首脳部の違いを思わせるような箴言だが、それはさておき、商いの道も、戦いと同様に、まず負けないこと、損をしないことを心がけることが第一だと宗室はいうのである。
その先には、厳しい身分制の確立と鎖国があった。宗室はそこまで見通していたのかもしれない。大名たちとの取引と情報の場として利用していた茶の湯を、宗室は子孫に禁止するのである。これまで中世商人の利殖の最大の源泉は利貸しと外国貿易であった。これからは利貸しと内国商業になる。宗室はその切り替えをいち早く先取りしたともいえるかもしれない。しかし流通ルートは異なっても、勤倹と蓄積が商いの道の基本原則であることには変わりがない。そのためには宗室のいうごとく「いずれの道にも、我と心労候わずば、所帯は成まじく候事」であった。


本阿弥光悦
風流人としての光悦は、自らその好むままの道を歩んでいた。しかしその道には、明らかに一本の筋があった。それは彼に私淑した灰屋紹益が、その著「にぎはひ草」の中に書いている。すなわち「光悦はよをわたるすべ、一生さらに知らず」という生き方である。「よをわたるすべ」とは、封建社会の現実を肯定して、権力に順応していく生き方である。この安易な方法を、はっきり拒否した。さらに「一生涯へつらい候事、至って嫌い」といいきった。


近松門左衛門
幕藩体制の整った中で、武士階級を逸脱した近松が、市井にくぐって全的に引き出した義理と人情の相克は、町人の時代閉塞の世界を、その内部から凝視し、告発する世界観的な把握であった。この世界観的な高さを、現実世界の単なる負け犬でしかない任侠渡世道の肩肘張った虚勢の合理化につかわれた、やくざ的な義理・人情にまで、低落させることはできない。近松の悲劇における義理・人情の相克を見たものにとって、後代幕末の任侠の徒がもったやくざ的な義理・人情など、まったくの頽廃としか、いいようはない。


十返舎一九
これら膝栗毛より後の時代にできたものも多い。私はこれを行動文化と呼んでいる。一人であれ、集団であれ、歩いていくのである。歩いてそれに参加するのである。私の自由意志で、勝手に振る舞う態度で参加する。野次・北はそういう庶民である。庶民がそのような行動をすることができるようになったのである。東海道も木曾街道も、江戸近郊の道々もすべて、庶民にも開放されたのである。


為永春水
春水は、近代日本の尾崎紅葉や永井荷風へ発展する文学の源流という見方もあり、いろいろな評価がある。しかし私はこの作家を、封建社会における女性の規範であった女大学の世界から彼女たちを解放したという所に、最も大きな功績があったと思う。


任侠の群れ
江戸時代の前期、幕藩体制が次第に固められ、士農工商という身分制の締め付けが強まるにつれ、この身分からはみ出た、またはみ出された群落は、かぶき者、伊達者、男達、たて衆などと呼ばれた。伊達者が近代になったダンディーを意味する言葉として残されたように、そこには弱者特有の自己顕示の威風を伴った。「だて」とは、身分的征服の枠外の自由な異装であった。かぶき者の原義が「傾く」つまり異装であったことは、そのことをよく物語るものである。
町奴は、身分制抑圧に対する町人の不満と、町人の経済的上昇ムードの上に奔放なる振る舞いをした。彼らの主観的意図はともかく、客観的には、旗本奴に対応するという形で公義の掟にレジスタンスを示した点で、消極的ながら庶民の声を代弁し、密かに庶民の支持を得たのである。
だが、これらの裏街道の不文律が、後世に庶民たちから任侠道などと呼ばれるようなものとして喧伝されるようになった江戸中期に遊興の徒の社会的堕落が本格的に始まったことは、歴史の皮肉というべきものであった。


岩崎弥太郎
岩崎にあっては、士魂と商才とは矛盾しなかった。商才といっても、結局は判断力、決断力であって、商売に関して判断力を働かせることである。問題は、商売に関して判断力決断力を働かせることに意義を認めるかどうかということに関わっている。武士に商才がなかったのは、軽蔑していたからであり、商才を軽蔑していたのは、商売を軽蔑していたからである。


渋沢栄一
岩崎弥太郎が戦国武士の魂を実業の中に持ち込んだのに対して、渋沢栄一は、武士道徳の儒教精神を実業の中に持ち込んだ。
下世話に、「商売と屏風はまがらなければたたぬ」といわれた実業界に入るに当たって、渋沢は、自分は「論語」の教えに従って商工業に従事し、知行合一主義を実行する決心である、徒断言した。それは渋沢の「論語ソロバン主義」といわれたもので、彼の終生の心情であった。
彼によれば、富貴は望ましい者なのである。そして、それは、必ずしも道と矛盾するものではないのである。もともと、文明とは、人間が、それぞれに創意、工夫、発明につとめ、自分の富だけでなく、社会全体の富を高めて、封建社会の停滞性を打ち破ることであった。従って、渋沢の解釈によれば、「論語」のこの言葉は、道に適わない仕方で富貴を求めてはならないという消極的な意味の裏に、富貴は道に適った方法で求めよという積極的な意味を含んでいたのである。
渋沢は、近代経済における自由競争は、あくまでも「君子の争い」であるべきであると考えた。同じく自由競争であっても、岩崎弥太郎の場合は戦争であった。渋沢は「商戦」という言葉を嫌った。渋沢からすれば、競争は、相手を倒すことではなく、人々が、互いに能力を競い合うことであった。渋沢は「論語」にいうとおり、人の道は、結局、「忠恕」――まごころと思いやり――の一語に尽きると考えていたのである。
渋沢は、道徳を離れた商売はあるべきでなく、またあり得ないという信念を持って行動した。そして、このことが、彼の社会的信用を高めた。

日本の道9(「風雅のこころ」)

大伴家持
体制に批判的でありながら、体制内にとどまらざるを得なかった。官僚家持の矛盾の表明が、一見矛盾するかに見える彼の"ますらおぶり”と"出家修道"への願いとの交錯となって歌の世界に結晶した。家持もまた時代の人であった。大丈夫たらんとしてその実は大丈夫たり得ない心のゆれが、家持の歌の歌心になっている。そこにこそ万葉における"ますらおぶり"の本質があると思われてならぬ。
道を求める心、それは安心立命の境地においてはかえって起こらぬ。むしろ苦悩のなかにこそ、「修道を欲する」こころが渦巻くのである。
和泉式部
彼女の歌集を読むと、近代を思わせる情熱的な、又肉感的なものに注意を引かれがちなのだが、実は基調となっているのはむしろ人の心のたよりなさ、恋のはかなさを歌った方である。師営の死を悼む百二十四首の哀調が、彼女の本領であると見てよい。師営との恋の成立からその邸に迎えられるまでの事情を綴った日記にも、彼女の恋のあり方がよくうかがえる。正妃への気兼ねや世間への気遣いでためらいながら、親王の心ざしを無にするに忍びないと、その意向のままに邸に移るあたりがそれである。 


西行
西行が遁世する以前の名は、佐藤義清(のりきよ)。台記によれば”重代の勇士”であった。佐右衛門府の藤原氏の意味で、直接の祖はムカデ退治で有名な藤原秀郷である。
義清の遁世は、記録が残っていて、保延六年、(一一四〇)十月十五日である。生まれたのが元永元年(一一一八)だから、二十二歳のことである。この年若いのに興味がある。一つの時代の新しい変動期は、同時に先行する古い時代の複雑な維持への動きと絡まっている。義清は、新しい時代への政治的な動きに参加するには、あまりにも朝廷的な武士の家系に属した。義清は新しい武士の時代への変動に駆けるよりは、古い分化、和歌の形式に、旧来の貴族の心情とは別のものの、新しい時代の人間――直接には武士――の詠歎を盛ることに、自分を賭けたのである。それはつまり武士であることをやめるという形になった。
西行は、いち早く現実の時の流れ、貴族から武士の世の中へ変わる、あるいは変える動きからは、身をそらした。そして、このそらしたことが、かえって西行をして、一個独立の時の流れとは別の、個性的な道をたどり、開いていく者たらしめたのである。西行にまつわる道の者的イメージはここからくる。
時代の進歩的方向に自己を同化させる道は、それなりに、歴史の隘路を切り開く。頼朝や、仲清や能清は、そういう人間であった。しかし、こういう同化(自己が自己であること)をこわす場合もある。古い支配体制への同化も拒否し、新しい時代を開く運動への同化も拒否した遁世者西行は、そのことによって、自己が自己である道を切り開いたのである。
歴史の隘路を乗り越えるのは、政治的な変革の道だけではない。それとあわせて、既に築かれた古い文化を読みかえ、書きかえて、新しい内容をもる変革も必要だし、そういう変動の仲で新しい時代の人間像を打ち出していく道も、必要なのである。


源実朝
西行は出自の武士をも捨てることで、貴族の和歌を、自己漂白の歌に変えることができた。実朝は、武士の頂点、将軍の座にいて、その空しさをうめるべく貴族の和歌を学び、それでいて、貴族歌を越える個性をつくるだした。あり様の対照的な二人がつくり出した、個性的漂白に、私は打たれる。個性的漂白を風雅のこころと呼べば、風雅とは、権力正統から身を引きはがすことと、分かちがたく結んでいるように見える。はるかの後生、やはり武士の出自を捨てて”風雅の乞食”となった芭蕉が、西行、実朝を並べ評価したのも、偶然ではない。


千利休
利休は、信長のあと秀吉に仕え、秀吉の権力者らしい黄金趣味の茶に対して、彼の「茶の湯の真味は草庵にあり」という主張を貫くことに悩み抜いた。
利休の歩んだ道は、堺がつくり上げたように思われる。それは利休の茶の中に、庶民的な自由な感覚として伝えられた。「茶の湯の道とて他にはなく、ただ湯をわかし茶を点てて飲むばかり」と言い切ったのも茶の湯に加えられるさまざまな規制に対して、堺の町人らしい感覚を持って積極的に主張したものであった。


芭蕉
みちのくは、もと道奥と書いた。ここでの道は、五機七道という律令制下の国を意味しているから、道奥とは、国の外、大和朝廷の国の外という意味である。これが道奥の国となったとき、道奥は大和朝廷の国の中に入ったのである。
文化という者は、常に同一化を目指す。一つの文化は、その中心から、それがない地方へ伝播していくこうして文化の同質化が進むが、そうなると、文化はやや停滞を免れなくなる。文化は他方で、常に異質なもの、他者との接触や対決による刺激を、必要とするのである。
私は芭蕉を考えるとき、西行と切り離して理解することができない。あるいは別の言い方をすれば、芭蕉その人にだけ興味があるのではなく、芭蕉と西行との五世紀を隔てた精神のコミュニケーションに、興味がある。
人間の歴史においては、しばしば、政治的な変動が重視される。もとより現実の生活に響きが大きいのは、政治史上の出来事である。
けれども政治史とは関わりのない、あるいはあらわには政治との関わりをたった人間の営為の中に、政治史の変動では捉えきれぬ人間の面目が現れてくるのを、忘れることはできない。


与謝野晶子
明治三十四年、時に晶子は数えで二十四歳、近代日本の青春とたぐいまれな個性の青春とが重なり合った、えがたい時代の産物であった。
近代日本は、旧民法について穂積八束らがいっているように、平民の慣習は慣習でも何でもないとの立場に立って、もっぱら武士社会の慣習を国家の伝統とし、国民の道であるとするところから出発した。国(藩)のため主君のためには、家も妻子も捨てて武器を取らねばならぬのである。武士ので存在価値はそのことだけにあったのである。しかし平民には、そうした伝統はない。町人にとって大切なのは家業であり、日常生活であって、それ以外のものではなかった。しかもその家業は、農家が村の共同体に縛られているほど、外からの規制を受けてもいなかった。
封建意識のままで近代人になることはできない。町人の家業大切だけでは近代国民の資格には欠けるところがあろう。桂月の非難の中にはその点が含まれてもいた。しかし問題はそれだけではない。同じく近代国家を作るにも、武士の伝統中心にではなく、町人の慣習中心に作り上げる道あったはずである。

2011年2月20日日曜日

日本の道8(「武士道の開花」)

柳生宗矩
柳生宗矩は宮本武蔵より十三最年長であり、武蔵の死後一年して亡くなっている。いわば同時代の剣客ではあるが、正確には宗矩の方が一世代早いといわなければならない。武蔵を座標軸にとってみると、彼の誕生時には石舟斎は五十九歳塚原卜伝は死後十五年、上泉伊勢ノ上は亡くなって七年たつことになる。荒木又右衛門は武蔵の十六歳の時に生まれる計算だ。このような見取り図から想定されるのは、宗矩が武蔵以上に動乱と太平の時代の相違を体験していたということである。武蔵は剣の理念化につとめたが、宗矩は政治の中の剣のあり方を極めた人物といえる。
政治の中で剣を志した柳生が、結局は政治の中に埋没してしまう結果となった。
宗矩は父の開いた柳生流の剣技、特にその哲学的な認識を敷衍し、体制中政治の剣へと推し進めた。彼は死に臨んで、一万二千五百石の領土の返還を申し出ている。この行動を、与えられた封土を世襲するという考えを拒み、徳川家へ戻すことによって、剣による技術者としてのぎりぎりの誇りを示そうとしたものだと理解するのは、私の深読みであろうか。
山本常朝
「葉隠」で常朝は、近世的な秩序ができあがる前の戦国風の武士の「死」と「狂」をほめたたえ、それにひきかえての今の武士たちのふぬけぶりを罵倒する。しかし、その主張は、彼自身が「死に狂い」で死ぬべき時に死ななかったという一点で、いかに古風をあこがれていようと、現体制が法を以て押しつけてくれば、いくら不本意でもそれに従わなければならないということを教える羽目に陥ってしまった。「あわれ昔ならば」の一語が持つ意味は大きい。この一語によって常朝は、実際の行動では現在の秩序に従いながら、頭の中でだけいにしえの武士の風を追うという分裂をさらけ出してしまっている。そうして、自分の行動によってではなく、頭の中でだけいにしえの武士道を追い求めるから、過去の価値への傾倒はますます大きく、ますます純粋になる。論理の完全性、てっっていせいも、おそらくはそのような関係の中で得られるのである。
常朝は死ぬべきところを生き続けたからこそ、自分も死ぬべきだったという結論を導き出すような武士道論を生み出し得たのであって、もしその主張を直感的に先取りして腹を切ってしまっていれば、そのような純粋の武士道論は生まれはしなかったろう。行為をしなかったからこそ、その行為をすべきだという理論をつくりえたのである。ひょっとすると、思想とか哲学とかいうものは、おおむねそのような本質を持つのかもしれない。武士道に限らず「道」という得体の知れない名前のものはことにそうだろう。
武士道を受け継ぐのは絶対にお断りであるけれども、常朝を悩ました行為と思想との関係、自分自身の行為を欠いたがゆえに自己の思想が「狂」というほどの純粋さを求めてしまうという関係は、そういう問題として冷静に受け継いでみるのに値するのでは亡かろうか。
大塩平八郎
平八郎には倒幕などという大それた考えはさらになく、むしろ父祖以来およそ二百年、二百石取りの武士として安穏な生活を保証してくれた徳川幕藩体制に、心から感謝と報恩の念を抱いていたのである。
それではそのような平八郎が、どうして武装蜂起という革命的な道を選んだのであろうか。平八郎はかねがね各地に頻発する百姓一揆にひしひしと幕藩体制の危機を感じていた。そしてその危機感は飢饉による市中の惨状を眼前にするにおよんで最高潮に達したのである。このままで幕府は崩壊する。挙兵はもとより非常手段ではあるが、そうすることで従前の政治のあり方を変え、、幕府の崩壊を食い止めることができるならば、非常手段も又正しい”道”である。しかも陽明学の最大の特色の一つは知行合一を標榜する高度の実践性にあった。だから平八郎の挙兵は彼がその学問に徹する限り、当然の帰結というべきものであった。

2011年2月19日土曜日

日本の道6(「道の分化」)

武士道
新渡戸は、武士道とは武士の必ず実践すべき倫理綱領であるとし、その内容として、正義、勇気、仁愛、礼儀、至誠、名誉、忠義、克己などあげ、特に中の観念を「封建諸道徳を結んでの均整美あるアーチと為した要石である」と述べている。江戸時代に完成された武士階級の道徳綱領としては、ほぼ正しいであろう。もちろんこれは武士はまさに「かくあるべきもの」という規範であって、現実に「こうである」という意味ではないことは当然である。
正義も、勇気も、仁愛も、礼儀も、至誠も、名誉も、克己も、いずれも武士にのみ特有の倫理ではないはずである。すべて規律ある社会人として生活する以上、すべての人間が当然これらの道徳律を目標とすべきであろう。それが武士道として、特に武士階級に強く要求されたのは、武士が封建社会における指導的階級とされ、農工商に範たるべきものとされていたからにちがいないが、もっとも肝要な点は、忠義という武士に特有の観念が、これらの道徳の要石としてすえられていたからだ。忠義の一点を除けば、他の諸点は、欧米の紳士道についてさえ、ほとんど一致するといってよい。
従って、武士道の根底をなす「忠」という観念を究明することなくしては武士道の本質を把握することはできない。
それならば、武士道というものは、封建社会の平和を維持するために作り上げられた、将軍や大名たちのためご用道徳というほかない。果たして、幕末、再び全国動乱の時がやってくると、いわゆる「江戸時代の武士道」は、轟然たる音を立てて崩壊した。
個人同士の場合には、刀のこじりが触れたとか、挨拶の仕様が悪かったからとかいうような些細なことでも、刀にかけて面目を立てようとするくせに、相手が幕府や主家とあれば、頭から恐れ入って引き下がるのが、江戸時代の武士道の現実の姿である。
福沢諭吉が「文明論の概略」の中で述べている。
――日本の武士は、権力偏重の中に養われ、常に人に屈するを恥としない。上下の名分が定まっており、それに応じて権力道義を異にし、一人として無理を蒙らない者はなく、一人として無理を行わない者はない。乙は甲に対し卑屈を極め忍ぶべからざる恥辱を忍んでも、丙に対しては意気揚々として誇る楽しみがある。故に前の恥辱は後の愉快で償い得る。西洋の人民は自己の地位を重んじ、その権力は鉄のごとく、膨張することは困難であるとともに収縮することも困難であるが、日本の武士の権力はゴムの如く、下に向かって大いに膨張し、上に向かっては急に収縮する性質がある。伸縮自在の権力を一体に集めて武家の威光と名づけている――と。
もともと武士という階級の勃興したとき、彼らの間に行われた「もののふのみち」は、もっと粗野ではあるが、より雄渾な活気に満ちた人間的なものであった。それは戦塵の間に自然に生まれたものであり、上からの教義として教えられたものではない。いわば、戦友の間の情誼である。戦闘が現実に要求する勇気と義務と名誉と克己と相互扶助の実践道徳だったのである。
源平の時代のもののふの道が血肉の通った道であるとすれば、いたずらに煩瑣に形式化した江戸武士道は神経衰弱的武士道といえるだろう。


農民道
身分の秩序を天地の上下に比し、天のご恩と地の職分を説く思想は、農民をひたすら体制への奉仕者に位置づけるものとなった。十八世紀の初めに生まれた安藤昌益は、南部八戸の町医者となったが、彼はこのような封建教学の思想を鋭く批判して、直接生産者である農民の耕作、すなわち「直耕の真道」を力説した。
そこでは天の恩よりも地の恩、法の世よりも自然の世、不耕貪食の世よりも直耕の世を重視する、働く者への共感にみなぎっていた。
昌益は、「直耕の真道」を叫んだが、その人自身が「直耕」の人ではなかった。
(尊徳は)「天に従うを自然となす。これを名づけて天道という。人を以て作事となす。これを名づけて人道という。人道は田畑を開き、天道は田畑を廃す」という発言は、道の確たるものは農にありとする農民道そのものへの自覚に根ざしていた。
与えられた自然を、天道とする考えを尊徳はとらない。自ら働いて荒廃した田畑を復興した体験は、人間の働き、作事すなわち人道という認識を導き出す。自然の道徳化によって、人間社会を規制する空理空論は、尊徳にとっては無用の長物に過ぎないのだ。
体制批判にとどまって実践的に深められなかった昌益の「直耕の真道」と、実践的であったが結局は治者を助ける「農の大道」となった尊徳の「人道」と、その両者の止揚はさらに後代に残されることになる。

2011年2月18日金曜日

日本の道5(「町人道の確立」)

元禄の生きがい論
百科事典の売れ行きは大衆社会のバロメーターといってよい。そうした現象を過去に求めるなら、元禄時代がまさに最初の大衆社会の出現期であったと思う。
利休が古聖人に祭り上げられた背景に、元禄三年が天正十九年秀吉に殺された利休の百回忌に当たっていたことが、大いに関係したようだ。
茶の湯のことを「茶道」といういい方はこれ以前から用いられてはいたが、その中に封建倫理・道徳が込められるようになるのは、元禄時代のことであった。
つまり芸の道における元禄時代は、それの大衆への広範な普及の一方、それを否定して精神主義が強調されるという、二面性を有していた時代であったといえよう。

西鶴の目
町人が最高権威としての天守閣に到達するためには、当然何段階かの空間を通過せねばならなかった。しかも、しばしばこの空間群は、外に向かって閉ざされていたのである。曲折・閉鎖・断絶こそが、封建都市居住者としての町人の道であった。
京都・大阪、そしてやや雰囲気を異にしながらも江戸、この三都市の町人たちは、周知のごとく「天下の町人」と称し、将軍直属を誇ったが、彼らの意識の構造はそのままに、天領都市の、単一的・同質的・開放的空間構造に対応するものであった。
ここに道がある。この道こそは連続し、空間を単一化する。この道こそは町人生活を、はたまた天下の流通を支える動脈である。目的への到達のために、まず迂回し、まず足踏みせねばならなかった多くの封建諸都市の町人たちと、天下の町人たちとの意識は、かくして截然と分離するだろう。
しかし、天下の町人が、如何にしても町人以外の何ものでもないという認識を迫られる日がやがて訪れる。いやそれよりも、封建体制下において町人とは何かという根源的な、苦い発問を自らに課し、町人階級の歴史的・普遍的認識に到達せねばならぬ日は、そう遠くなかったその日もなお道は、直として四通八達していたのであるが・・・。

町人意識
豊臣秀吉と交わった一代政商島井宗室の遺訓は、早い時期の町人意識の書として有名であるが、それを武家処世訓、例えば「朝倉宗滴話記」などと比較するとき、本質的な差異は認めがたい。「遺訓」が十七条であるのも、太子憲法にならうものであるとともに「朝倉敏景十七箇条」が投影しているとも考えられるだろう。
富の問題にしても「春鑑証」や「翁問答」などは多く肯定的であり、「清正公記」などでは、貧窮を「曲が事」として責めているのである。
富への追求能力を武士たちは失い、次いで富そのものを失ってしまった。武士道のストイシズムの多くはここから説明されるのであって、可なり副次的な意味しか持たないだろう。
十七世紀、西鶴の描いた町人たちこそ、十六世紀の武士たちの生き方の、最も正統的な後継者であったのだ。

義理と一分
概括的にいえば、西鶴の町人たちには、義理の観念は、なお潜在的である。それは町人生活に外在する、異質の理念であり、しかも武家社会においてさえ、原理的というよりは情的に機能するものであった。それに対し、近松の町人たちの行為はすべて義理に収斂するようである。かつて倫理的な裏打ちを伴わなかった行為すらが、倫理――義理により裏打ちされねばならぬことは、共同体モラルの成熟を意味するものであるか、それとも共同体そのものの変質・頽廃を意味するものであるのか。その両者とも正しいであろう。元禄から享保へ、そこでは封建体制そのものが、大きく揺れ動いた。その変動のプロセスにおいて、意識面における倫理的締め付けとして義理が町人化したということは充分考えられうだろう。
義理に追い詰められた小町人たちの最後の拠り所は何か。それはこの情念としての「一分」であった。それはもはや、倫理や原理ではなく、家や職能、その他もろもろの他者とは何の関わりもない。それらすべてに対決する一個の人間の孤絶における信念であり、意地である。・・・しかし一分においては全く純粋に「古」のみが問題である。・・・町人の義理に対する小町人の一分として図式化することには、幾分の危険性を含みながら正統さが認められるだろう。義理における挫折よりも一分の挫折はさらに絶望的である。
一分――それはもはや町人生活の規範としての義理からこぼれ落ちた近松の主人公たちの、最も激しく最も切実な心情告白であった。軽蔑され、迫害され、死にまで追い詰められた小町人たちの、傷だらけの自我であった。


石門心学
享保改革路線が、それまでかつがつ覆われていた町人対武士の関係、すなわち貨幣経済対自然経済の関係における諸矛盾をあらわにさせたとき、その生々しい現実の上に、否応なしに立った町人が、自己の位相への認識を検証したものが石門心学に他ならない。梅巖はそれら諸矛盾の解決に一筋の道を想定する。すなわち、人間の本質を起時の目、生地の耳でとらえ、その根源的究明によって、人間が人間となりうる道が見出されるとするのである。梅巖の描く理想像は、かくして全く日常的な相貌となる。彼は倹約をその思想の究極原理とするが、その倹約とは、無私、無心、生まれながらの正直心と相即の関係にあるものであった。