昔の武士が馬を愛してというのは、一旦、戦いが起こったならば、甲冑をつけ、旗指物をつけて体が重くなり、自由に歩行することができず、戦場での働きは馬上でなければならなかったから、我が両足の代わりとして馬を重んじたのである。また場上で敵と戦う場合には、事と次第によっては馬も重傷を負い、命を落とすことさえある。そのように思えば、畜生ながらも哀れと思って、日頃の餌や手入れにも、何かと念を入れ、心を配ってきたものなのである。
これに対して、近頃の馬が好きだというもののうち十人に九人までは、人が持て余している悪癖のある馬を安値に買って曲を直し、あるいは田舎育ちの丈の低い馬を見つけてきては手入れをし、調教をして仕立て上げ、望むものが有れば高価に売り払うのを目的としているのであるから、自分の厩には、いつもよい馬を置くことはできずにいる。これではまるで馬商人、仲買人同様の根性であって、馬の趣味をまったく持たぬよりも、さらに困ったことである。
以上、初心の武士の心得として申すものである。》
心得 第十五 「選ぶ基準は実用本位で」において、〈変〉の時、最も武士の働きを助ける〈馬〉の選び方を学んだ。ここではうまに趣味を持つことについて、二通りあるという。
戦場では人馬一体で働く。一心同体である。だから心を通わせた。しかしながら、近頃の馬が好きは、営利目的である。目的を違えて、商人根性、商業趣味に走る心を堕落として卑しんでいる。
戦場では人馬一体で働く。一心同体である。だから心を通わせた。しかしながら、近頃の馬が好きは、営利目的である。目的を違えて、商人根性、商業趣味に走る心を堕落として卑しんでいる。
新渡戸稲造『武士道』は《封建社会の身分制度は為政者である「士」の心が卑しくならないようお金に関わる「商」を最も遠い位置においた》という。
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