この国のなりたち:/1(その1) 外宮、内宮の順でお参り
毎日小学生新聞 2013年02月05日
11日(にち)は建国記念(けんこくきねん)の日(ひ)。奈良時代(ならじだい)の歴史書(れきししょ)「日本書紀(にほんしょき)」によると、日本(にっぽん)を初(はじ)めて統一(とういつ)して大和朝廷(やまとちょうてい)を築(きず)いた神武天皇(じんむてんのう)が即位(そくい)したとされる日(ひ)です。今年秋(ことしあき)には天皇家(てんのうけ)があがめる神(かみ)、皇祖神(こうそしん)をまつる伊勢神宮(いせじんぐう)(三重県伊勢市(みえけんいせし))で、約(やく)1300年続(ねんつづ)く「式年遷宮(しきねんせんぐう)」という行事(ぎょうじ)が20年(ねん)ぶりに行(おこな)われます。建国記念(けんこくきねん)の日(ひ)にちなみ、「この国(くに)のなりたち」を見(み)てみましょう。
◇式年遷宮(しきねんせんぐう)は20年(ねん)に1回(かい)
式年遷宮(しきねんせんぐう)とは20年(ねん)に1回(かい)、神様(かみさま)をまつる建物(たてもの)や、お供(そな)えする刀(かたな)や衣類(いるい)などの宝物(ほうもつ)を新(あたら)しくするお祭(まつ)りです。初(はじ)めて行(おこな)われたのは、西暦(せいれき)で表(あらわ)すと690年(ねん)。以降(いこう)、戦国時代(せんごくじだい)や第二次世界大戦時(だいにじせかいたいせんじ)など、社会(しゃかい)が乱(みだ)れた時(とき)を除(のぞ)き、約(やく)1300年(ねん)もの間(あいだ)、続(つづ)いてきました。
伊勢神宮(いせじんぐう)を訪(たず)ねました。伊勢神宮(いせじんぐう)には天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる皇大神宮(こうたいじんぐう)と、豊受大神(とようけのおおみかみ)をまつる豊受大神宮(とようけだいじんぐう)という二(ふた)つの正宮(しょうぐう)があります。天照大神(あまてらすおおみかみ)は皇室(こうしつ)の祖先(そせん)の神(かみ)(皇祖神(こうそしん))といわれています。豊受大神(とようけのおおみかみ)は衣食住(いしょくじゅう)の守(まも)り神(がみ)です。
皇大神宮(こうたいじんぐう)は内宮(ないくう)、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は外宮(げくう)とも呼(よ)ばれます。この二(ふた)つを中心(ちゅうしん)に、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)など125のお社(やしろ)から伊勢神宮(いせじんぐう)は成(な)り立(た)っています。
外宮(げくう)、内宮(ないくう)の順(じゅん)でお参(まい)りするのが正(ただ)しい作法(さほう)ということで、まず外宮(げくう)へ。外宮(げくう)の御正殿(ごしょうでん)は唯一神明造(ゆいいつしんめいづく)りという日本古来(にほんこらい)の建築様式(けんちくようしき)でした。バスで内宮(ないくう)へ移動(いどう)すると、聖界(せいかい)と俗界(ぞっかい)を分(わ)けているといわれる宇治橋(うじばし)を渡(わた)ります。下(した)に流(なが)れるのは五十鈴川(いすずがわ)。この日(ひ)も、たくさんの参拝客(さんぱいきゃく)が訪(おとず)れていました。
◇年(ねん)に千数百(せんすうひゃく)のお祭(まつ)り
伊勢神宮(いせじんぐう)で大切(たいせつ)なのが、年(ねん)に千数百(せんすうひゃく)あるお祭(まつ)りです。お祭(まつ)りは恒例祭(こうれいさい)と臨時祭(りんじさい)、遷宮祭(せんぐうさい)に分(わ)けられます。恒例祭(こうれいさい)は毎年決(まいとしき)まった月日(つきひ)に行(おこな)われるお祭(まつ)りで、このうち神嘗祭(かんなめさい)と6、12月(がつ)の月次祭(つきなみさい)は三節祭(さんせつさい)といわれ、特(とく)に重要(じゅうよう)なお祭(まつ)りです。
さらに祈年祭(きねんさい)と新嘗祭(にいなめさい)の二(ふた)つを加(くわ)えて、五大祭(ごだいさい)と呼(よ)ばれます。外宮(げくう)では毎日朝夕(まいにちあさゆう)、天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめ神々(かみがみ)に食事(しょくじ)を出(だ)すお祭(まつ)りも行(おこな)われています。
臨時祭(りんじさい)は皇室(こうしつ)などに重大(じゅうだい)なことがあった時(とき)に臨時(りんじ)に行(おこな)われるお祭(まつ)り。遷宮祭(せんぐうさい)は20年(ねん)に一度(いちど)、お宮(みや)を建(た)て替(か)え、新(あたら)しくするお祭(まつ)りです。それがちょうど今(いま)、行(おこな)われています。
内宮(ないくう)の門前(もんぜん)には、江戸時代(えどじだい)の雰囲気(ふんいき)を残(のこ)す「おはらい町(まち)」や「おかげ横丁(よこちょう)」が広(ひろ)がっており、おみやげを買(か)ったり、食事(しょくじ)をする参拝客(さんぱいきゃく)でにぎわっていました。
◇「お白石(しらいし)」を正殿(せいでん)に
「お白石持行事(しらいしもちぎょうじ)」は三重県(みえけん)を流(なが)れる宮川(みやがわ)から拾(ひろ)い集(あつ)めた「お白石(しらいし)」と呼(よ)ばれる白(しろ)い石(いし)を、新(あたら)しい正殿(せいでん)の敷地(しきち)に敷(し)きつめる行事(ぎょうじ)です。
「お白石(しらいし)」は伊勢(いせ)の人々(ひとびと)が運(はこ)ぶことになっており、地域(ちいき)ごとの約(やく)80の奉献団(ほうけんだん)が「お白石(しらいし)」を奉曳車(ほうえいしゃ)や木(き)ぞりに乗(の)せ、勇(いさ)ましいかけ声(ごえ)や木遣音頭(きやりおんど)とともに沿道(えんどう)や川(かわ)を練(ね)り進(すす)みます。
岡本町(おかもとちょう)の子(こ)どもたちが練習(れんしゅう)しているのは、この木遣音頭(きやりおんど)です。子(こ)どもたちを指導(しどう)する土谷健一(つちやけんいち)さん(56)によると、選(えら)ばれるのは小学(しょうがく)2年生(ねんせい)から4年生(ねんせい)までの6人(にん)の男(おとこ)の子(こ)。この学年(がくねん)に決(き)めているのは、変声期(へんせいき)が来(き)て声(こえ)の域(いき)が低(ひく)くなってしまうのを避(さ)けるためだそうです。
昨年(さくねん)7月(がつ)ごろから毎週土曜日(まいしゅうどようび)の夜(よる)に練習(れんしゅう)を始(はじ)め、現在(げんざい)は木遣(きやり)音頭(おんど)の文句(もんく)を覚(おぼ)えているところです。本番(ほんばん)では3人(にん)ずつに分(わ)かれて披露(ひろう)するため、練習(れんしゅう)も代(か)わりばんこに行(おこな)われました。「もっとゆっくりと」「あきらめずに最後(さいご)まで」など、土谷(つちや)さんが声(こえ)をかけます。今月(こんげつ)からは振(ふ)り付(つ)けの練習(れんしゅう)も始(はじ)まりました。
岡本町(おかもとちょう)で生(う)まれ育(そだ)った土谷(つちや)さんは、10歳(さい)の時(とき)に「お木曳(きひ)き行事(ぎょうじ)」の子(こ)ども木遣(きやり)を、30歳(さい)の時(とき)に青年木遣(せいねんきやり)を経験(けいけん)しました。木遣音頭(きやりおんど)に楽譜(がくふ)はなく、すべて口(くち)づたえで教(おし)えます。このため、土谷(つちや)さんのような体験者(たいけんしゃ)の存在(そんざい)は欠(か)かせません。
◇人集(ひとあつ)めには苦労(くろう)も
しかし、毎年(まいとし)ある行事(ぎょうじ)ならともかく、式年(しきねん)遷宮(せんぐう)は20年(ねん)の期間(きかん)が空(あ)くため、人集(ひとあつ)めは大変(たいへん)だそうです。「40年前(ねんまえ)はやりたい子(こ)が多(おお)かったので、オーディションのような感(かん)じで歌(うた)の上手(じょうず)な子(こ)を選(えら)んだものですが、今(いま)はどんな子(こ)がどこに住(す)んでいるかもあまりよくわからないので、知(し)り合(あ)いのつてを頼(たよ)って探(さが)すことが多(おお)いのです」と土谷(つちや)さん。やりたくても、開(かい)催(さい)の年(とし)と自分(じぶん)の年齢(ねんれい)のタイミングが合(あ)わないというケースも少(すく)なくないそうです。
◇20年後(ねんご)は教(おし)える側(がわ)に
それでも岡本町(おかもとちょう)お白石(しらいし)奉献団長(ほうけんだんちょう)の片岡康(かたおかやすし)さん(69)は、参加(さんか)する意義(いぎ)について、「伝統(でんとう)を継承(けいしょう)すること。これにつきますね」と話(はな)します。「この行事(ぎょうじ)に参加(さんか)した人(ひと)が今度(こんど)は20年後(ねんご)、教(おし)える側(がわ)にまわって、岡本町(おかもとちょう)を支(ささ)えていってくれるといいですね」【井上志津(いのうえしづ)】
◇「国譲(くにゆず)り神話(しんわ)」
出雲地方(いずもちほう)(島根県(しまねけん))にちなむ神話(しんわ)は、「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」と、ほぼ同(おな)じ時代(じだい)に地域(ちいき)の歴史(れきし)や特性(とくせい)をまとめた書物(しょもつ)「出雲国風土記(いずものくにふどき)」に記(しる)されています。
スサノオが大蛇(だいじゃ)のヤマタノオロチを退治(たいじ)する伝説(でんせつ)も有名(ゆうめい)ですが、出雲神話(いずもしんわ)を代表(だいひょう)する神(かみ)はスサノオの娘(むすめ)と結(むす)ばれた大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が皮(かわ)をはがされたうさぎを助(たす)ける物語(ものがたり)「因幡(いなば)の白(しろ)うさぎ」でおなじみです。
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)は地上(ちじょう)の国(くに)を治(おさ)める神(かみ)として登場(とうじょう)します。そこで重要(じゅうよう)なのが「国譲(くにゆず)り神話(しんわ)」。古事記(こじき)のあらすじを追(お)います。
◇ ◇
高天原(たかまのはら)から出雲(いずも)にやって来(き)た神(かみ)たちが大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)に国(くに)を譲(ゆず)るよう迫(せま)りますが、1度目(どめ)、2度目(どめ)は失敗(しっぱい)。3度目(どめ)の交渉(こうしょう)で、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)は子(こ)ども2人(ふたり)の判断(はんだん)にまかせます。1人(ひとり)は同意(どうい)し、もう1人(ひとり)は力比(ちからくら)べを挑(いど)んだものの負(ま)けてしまいます。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)は国譲(くにゆず)りに応(おう)じ、代(か)わりに住(す)まいとなる大(おお)きなお社(やしろ)を造(つく)ることを望(のぞ)みました。
◇ ◇
この立派(りっぱ)なお社(やしろ)が、「出雲大社(いずもたいしゃ)」(島根県出雲市(しまねけんいずもし))です。平安時代(へいあんじだい)には高(たか)さ48メートルもの巨大神殿(きょだいしんでん)(現在(げんざい)の高(たか)さの約(やく)2倍(ばい))であったと伝(つた)えられます。2000年(ねん)、出雲大社(いずもたいしゃ)の境内(けいだい)から当時(とうじ)のものとされる直径(ちょっけい)1メートル以上(いじょう)の大木(たいぼく)を3本束(ぼんたば)ねた柱(はしら)が見(み)つかり、注目(ちゅうもく)を集(あつ)めました。
「出雲神話(いずもしんわ)に敗者(はいしゃ)の美学(びがく)を感(かん)じませんか」と問(と)いかけるのは、島根県立大学短期大学部名誉教授(しまねけんりつだいがくたんきだいがくぶめいよきょうじゅ)で、松江歴史館館長(まつえれきしかんかんちょう)の藤岡大拙(ふじおかだいせつ)さんです。出雲地方(いずもちほう)が神話(しんわ)の主要(しゅよう)な舞台(ぶたい)であるということは、いにしえの時代(じだい)、この地(ち)が大(おお)いに発展(はってん)していたとも考(かんが)えられます。神話(しんわ)に描(えが)かれるように、古代(こだい)、出雲地方(いずもちほう)は大(おお)きな勢力(せいりょく)に攻(せ)められ、領土(りょうど)を譲(ゆず)ったのかもしれません。藤岡(ふじおか)さんは「争(あらそ)いに負(ま)けた敗北感(はいぼくかん)を抱(かか)えながら、静(しず)かにこの地(ち)に住(す)み続(つづ)けた人(ひと)びとの記憶(きおく)が、今(いま)も出雲(いずも)に刻(きざ)まれているように感(かん)じるのです」と話(はな)します。
◇「天孫降臨(てんそんこうりん)の物語(ものがたり)」へ
地上(ちじょう)の国(くに)を得(え)た天照大神(あまてらすおおみかみ)は孫(まご)のニニギノミコトを高千穂(たかちほ)に派遣(はけん)します。神(かみ)が地上(ちじょう)に降(お)り立(た)つ「天孫降臨(てんそんこうりん)の物語(ものがたり)」です。日向国(ひゅうがのくに)を舞台(ぶたい)に3代(だい)の物語(ものがたり)が続(つづ)き、カムヤマトイワレヒコ、後(のち)の神武天皇(じんむてんのう)が誕生(たんじょう)。神(かみ)と人間(にんげん)の時代(じだい)がつながります。
ここで神話(しんわ)は幕(まく)を閉(と)じます。神武天皇(じんむてんのう)は日向(ひゅうが)から東(ひがし)に向(む)かい、大和地方(やまとちほう)(現在(げんざい)の奈良県(ならけん))を征服(せいふく)して、そこを本拠(ほんきょ)にした大和朝廷(やまとちょうてい)を築(きず)きます。「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」では、その後(ご)の天皇家(てんのうけ)へと世(よ)の出来事(できごと)がつづられていきます。【小丸朋恵(こまるともえ)】
◇130年前(ねんまえ)の製法(せいほう)を再現(さいげん)
「平成(へいせい)の大遷宮(だいせんぐう)」では、ある先人(せんじん)の技(わざ)がよみがえりました。大屋根(おおやね)に使(つか)う銅板(どうばん)に、松(まつ)ヤニやエゴマ油(あぶら)、石灰(せっかい)などを混(ま)ぜた「ちゃん」を塗(ぬ)って保護(ほご)する技術(ぎじゅつ)です。2010年(ねん)、出雲大社(いずもたいしゃ)で銅板(どうばん)の塗料(とりょう)が見(み)つかったことがきっかけで調査(ちょうさ)が始(はじ)まりました。
「ちゃん塗(ぬ)り」は、現在(げんざい)の本殿(ほんでん)が建(た)てられた江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)に残(のこ)りますが、製法(せいほう)までは分(わ)かりませんでした。現代(げんだい)の職人(しょくにん)たちが試作(しさく)を重(かさ)ねてできた塗料(とりょう)は、その後発見(のちはっけん)された製法(せいほう)の記述(きじゅつ)とほぼ同(おな)じでした。昭和(しょうわ)の遷宮(せんぐう)(1953年(ねん))では使(つか)われていない技術(ぎじゅつ)ですが、明治(めいじ)の遷宮(せんぐう)(1881年(ねん))では施(ほどこ)されているため、今回(こんかい)の改修(かいしゅう)で130年前(ねんまえ)の御本殿(ごほんでん)の姿(すがた)が再現(さいげん)されたことになります。
新(あたら)しい御本殿(ごほんでん)には、東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)で被害(ひがい)に遭(あ)った岩手県釜石市(いわてけんかまいしし)の木材(もくざい)も使(つか)われています。釜石(かまいし)の製材屋(せいざいや)が震災前(しんさいまえ)に出荷準備(しゅっかじゅんび)をしていた木材(もくざい)が、地震(じしん)と津波(つなみ)をまぬがれ、倉庫(そうこ)に残(のこ)っていました。木材(もくざい)は2011年(ねん)3月(がつ)31日(にち)までに届(とど)けられる予定(よてい)でした。出雲大社御遷宮奉賛会事務局(いずもたいしゃごせんぐうほうさんかいじむきょく)は「震災直後(しんさいちょくご)の混乱(こんらん)のなか、製材屋(せいざいや)さんが遷宮(せんぐう)のために、期日(きじつ)までに届(とど)けてくださいました」と振(ふ)り返(かえ)ります。
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が新(あたら)しい御本殿(ごほんでん)にお戻(もど)りになった後(あと)もしばらく、境内(けいだい)のステージではお祝(いわ)いの神楽(かぐら)や能(のう)などが行(おこな)われます。この「奉祝行事(ほうしゅくぎょうじ)」の演目(えんもく)には東北(とうほく)の伝統芸能(でんとうげいのう)も並(なら)び、5月(がつ)19日(にち)には、福島県浪江町(ふくしまけんなみえまち)の請戸地区(うけどちく)で江戸時代(えどじだい)から伝(つた)わる「田植踊(たうえおどり)」が披露(ひろう)される予定(よてい)です。同地区(どうちく)は津波(つなみ)で全世帯(ぜんせたい)がほぼ壊滅(かいめつ)し、福島第(ふくしまだい)1原発事故(げんぱつじこ)により今(いま)も警戒区域(けいかいくいき)になっています。
◇悼(いた)む踊(おど)りから復興(ふっこう)の踊(おど)りへ
奉祝行事(ほうしゅくぎょうじ)で踊(おど)り手(て)となる10人(にん)の子(こ)どもたちは今(いま)、県内外(けんないがい)で離(はな)ればなれで暮(く)らしています。集(あつ)まって練習(れんしゅう)する時間(じかん)がほぼとれないまま、本番(ほんばん)に臨(のぞ)むことになりそうです。請戸芸能保存会(うけどげいのうほぞんかい)の渡部忍(わたなべしのぶ)さんは、「大遷宮(だいせんぐう)の行事(ぎょうじ)で踊(おど)れることは、震災(しんさい)で亡(な)くなった方(かた)を悼(いた)む踊(おど)りから、復興(ふっこう)を後押(あとお)しする踊(おど)りへと変(か)わる節目(ふしめ)になるでしょう」と話(はな)します。
踊(おど)り手(て)の柴綾花(しばあやか)さんと妹(いもうと)の優花(ゆうか)さんは、この春高校(はるこうこう)と中学(ちゅうがく)に進学(しんがく)します。新(あたら)しい学校生活(がっこうせいかつ)の日程(にってい)を調整(ちょうせい)して出雲(いずも)に行(い)く予定(よてい)です。綾花(あやか)さんは「60年(ねん)ぶりの行事(ぎょうじ)で踊(おど)れて光栄(こうえい)です。一生懸命踊(いっしょうけんめいおど)る姿(すがた)を多(おお)くの人(ひと)に見(み)てもらいたい」、優花(ゆうか)さんは「仲間(なかま)と久(ひさ)しぶりに会(あ)えるのも楽(たの)しみ。お客(きゃく)さんに笑顔(えがお)になってもらいたいです」と語(かた)ります。
60年(ねん)ぶりの出雲大社(いずもたいしゃ)の一大行事(いちだいぎょうじ)には、現代(げんだい)を生(い)きる私(わたし)たちのあらゆる祈(いの)りが込(こ)められているのです。【小丸朋恵(こまるともえ)】
◇国家神道(こっかしんとう)を問題視(もんだいし)
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)の敗戦後(はいせんご)、連合国軍総司令部(れんごうこくぐんそうしれいぶ)(GHQ)は天皇(てんのう)や国家(こっか)が神聖化(しんせいか)されていることを問題視(もんだいし)し、神社(じんじゃ)は民間(みんかん)の宗教団体(しゅうきょうだんたい)になりました。明治政府(めいじせいふ)が定(さだ)めた大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)も廃止(はいし)されました。信教(しんきょう)の自由(じゆう)が奪(うば)われた歴史(れきし)の反省(はんせい)から、新(あたら)しい憲法(けんぽう)では第(だい)20条(じょう)が設(もう)けられました。
しかし、島薗(しまぞの)さんは「規模(きぼ)は小(ちい)さくなっていますが、国家神道(こっかしんとう)は今(いま)も完全(かんぜん)になくなっているとは言(い)えません」と言(い)います。例(たと)えば、現在(げんざい)は伊勢神宮(いせじんぐう)は民間(みんかん)の施設(しせつ)で、天皇(てんのう)も国(くに)の象徴(しょうちょう)とみなされてはいますが、皇太子(こうたいし)の結婚式(けっこんしき)をはじめ、天皇家(てんのうけ)の祭祀(さいし)を含(ふく)む事柄(ことがら)は国家行事的(こっかぎょうじてき)な性格(せいかく)を帯(お)びており、伊勢神宮(いせじんぐう)と関(かか)わりがあるからです。
明治時代(めいじじだい)、戦死(せんし)した兵士(へいし)をまつる神社(じんじゃ)として位置(いち)づけられた靖国神社(やすくにじんじゃ)もまた、国家的(こっかてき)な施設(しせつ)になりえます。戦後(せんご)、極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん)(東京裁判(とうきょうさいばん))で戦争(せんそう)の責任者(せきにんしゃ)として有罪(ゆうざい)となった「A級戦犯(きゅうせんぱん)」をまつっていることもあって、首相(しゅしょう)が靖国神社(やすくにじんじゃ)に公式参拝(こうしきさんぱい)することに対(たい)して、毎年夏(まいとしなつ)になると国内外(こくないがい)で問題視(もんだいし)する声(こえ)が上(あ)がってきます。
「いつの間(ま)にか再(ふたた)び国民(こくみん)の宗教(しゅうきょう)として強制(きょうせい)されることのないように、歴史(れきし)を学(まな)んでおかなければいけません」(島薗(しまぞの)さん)
◇意味(いみ)や歴史(れきし)を学(まな)ぼう
では、私(わたし)たちは宗教(しゅうきょう)に対(たい)して、どのように接(せっ)していくのがいいでしょう。島薗(しまぞの)さんはまず、身(み)の回(まわ)りで小(ちい)さな祠(ほこら)やお地蔵(じぞう)さんなど、宗教(しゅうきょう)に関(かか)わるものを見(み)かけたら、いつからあったのか、どんな人(ひと)が拝(おが)んだのか、考(かんが)えてほしいと言(い)います。そして、お寺(てら)や神社(じんじゃ)の行事(ぎょうじ)の意味(いみ)や歴史(れきし)について学(まな)ぶことの大切(たいせつ)さを指摘(してき)します。
「宗教(しゅうきょう)にはどうしても、内(うち)と外(そと)を区別(くべつ)する面(めん)があります。例(たと)えば、日本(にっぽん)は特別(とくべつ)に神聖(しんせい)で優(すぐ)れているという考(かんが)え方(かた)を強調(きょうちょう)しすぎると、外国(がいこく)の人(ひと)たちには違和感(いわかん)を持(も)たれてしまいますよね。壁(かべ)を作(つく)らないように気(き)をつけて、異(こと)なる宗教(しゅうきょう)や考(かんが)え方(かた)を尊重(そんちょう)する姿勢(しせい)が大事(だいじ)です」。島薗(しまぞの)さんはそう教(おし)えてくれました。
東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)の後(あと)、獅子舞(ししまい)やお神楽(かぐら)などの伝統的(でんとうてき)な民俗芸能(みんぞくげいのう)は、被災者(ひさいしゃ)を元気(げんき)づけました。地域(ちいき)の神社(じんじゃ)が昔(むかし)も今(いま)も人々(ひとびと)の間(あいだ)に溶(と)け込(こ)んでいることが、証明(しょうめい)された一例(いちれい)かもしれません。一方(いっぽう)、日本(にっぽん)には沖縄(おきなわ)の文化(ぶんか)やアイヌの文化(ぶんか)など、地域(ちいき)によってもさまざまな文化(ぶんか)があります。
異(こと)なる文化(ぶんか)を尊重(そんちょう)する姿勢(しせい)を身(み)につけながら、多様(たよう)な文化(ぶんか)に親(した)しむことが大切(たいせつ)なのではないでしょうか。【井上志津(いのうえしづ)】=おわり
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