2011年3月1日火曜日

「武士道」相良亨より 2

鎌倉幕府の貞永式目が現実主義的傾向を多分にもつのに対して、室町の建武式目が、政道の理想を語り、興廃は政道の善悪によることを強く正面に押し出した

足利尊氏を理想的な統率者として描こうとするときに、彼を道に事える者として捉えたところに、われわれは室町幕府の性格を端的に伺うことができる
下克上とは、従来の権威・従来の秩序を否定することである今の世にあっては器量がものをいうという意識が下克上という現象を押し出したのであった。

人心を己に引きつけ、人々の力を己の力として結集しうる器量が、上位に対しては下克上として現れ、下位に対しては、その下からの突き上げをしのぐ力として働いたのである。

「朝倉敏景十七箇条」第一条には「朝倉の家においては宿老を定むべからず、其の身の器用忠節によりて申し付くべきこと」とあり、その第二条には「代々持ち来たり候などとて、不器用の人にうちわに奉行職預けらるまじきこと」とある。
世を実力の世界と理解し、己の実力を自負し、実力を以て越前一国の実権を掌握した敏景にしてはじめて、その統治において高く能力主義をかかげることが出来たのである

「主君の一心」という主君の器量にすべてが懸かるという確信は、彼の体験の中から得られた確信

頼もしい者は「文武両道」である。武は武略武芸であるが、文は道義性、人間的魅力である。この文と武とを一身に実現した者が頼もしいのである。

戦国の武将たちは、主君の一身に興廃が懸かると理解していた。つまり威勢は道の実現の中にのみ形成されると理解していた
少なくとも、戦国武将において、正しさ・道理がその興廃をかけた切実さにおいて受け止められた

興廃を道義にかけたということにおいて、戦国武将が室町の武家貴族と異なるということ、しかして、その道義の受け止め方のこの切実さが、彼らのありのままをよしとする姿勢につながるということに注目したい。 
下克上の世の武将は、頼もしそうに振る舞うのでなく、事実、頼もしくあらねばならぬのである。頼もしくならなければ滅亡あるのみなのである。

武士のあるべき姿を「早雲寺殿」は次のように捉えていた。「拝みをする事身のおこないなり。ただ心を直にやわらかに持ち、正直憲法にして上たるをば敬い、下たるをばあわれみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持ち、仏意冥慮にもかなうと見えたり、たとい祈らずとも、この心持ちあらば、神明の加護之あるべし。いのるとも心まがらば天道にはなされ申さんとつつしむべし。

私心なく、あるべき道理をありのままに捉え行う心の常態、それがここにいう正直の徳なのであった。「早雲寺殿」の「正直憲法」「心を直にやわらかに持ち」「ありのままなる心持ち」が、この中世一般の正直に内容的につながるものである


有りのままの自己を以て世に伍しうる武士のみがありのままの事実に即して他を批判することが出来る。

日本の武士社会には、敵をも愛せよという考え方は生まれなかったが、敵をも敬えという思想は形成された
敬意を表すべき優れた武士に対しては、敵味方の区別なく敬意を表すべきなのである。

言葉が真相をおおいかくすものと理解されるところにおいては、「理をいう」こと、いいわけをすることは武士としてあるまじき事と理解されてくる
弁明・いいわけは武士のなすべきことではない。弁明・いいわけをしないことが、まさにありのままに生きる武士の生き方なのである。

徒に広言過言する武士、あすなろう武士として軽蔑される
ただ証拠のない弁明を否定する武士の世界において、創意工夫が生まれにくかったことも指摘しておかなくてはならない

客観的事実としての自己の外に自己を認めず、よくもわるくも自己の価値はこの事実において評価さるべきであるとするのが、ありのままを尊重する精神におけるもっとも注目すべき姿勢である
このありのままには自負が支えになっていることを忘れてはならない。

事実性を重んじ、いいわけを潔しとしない精神は、ありのままの己を以て世に立つ精神である
武士には内外の区別が存在せず、内外一体的な理解が働いていた

近世の日本人は、人間が至誠に生きようとすれば、至誠たりうる可能性を信じていた俯仰天地に恥じぬという自負もここから生まれ得たのである

「男道のきっかけ」をはずさぬこと、それが武士の生命であったのである。

名・恥は、この一個の武士としての名・恥であり
戦国武士は、このように、自分が尊敬に値する武士であることを自分自身が納得する事実――証拠を求めてやまなかった。証拠によって武士は自己自身をも評価するのである。事実・証拠を尊重する精神が武士にあったことについては既に明らかにしたが、その証拠尊重の精神が、武士の自己自身との関わりにも働いていることを、われわれは改めて注目しなければならない


「恥じ」を考えるとき、われわれは、その根柢に自他の一体性がひかえていることを知らなくてはならない
武士が恥じたのは、自己でありまた明眼――尊敬すべき他者であったのである。

「武士道」相良亨より 1

近代化の方向の中に現在のわれわれがいかに位置するかを知るためには、この百年、われわれが武士的なものをいかに克服し得たかを知る必要があろう。われわれ自身との対決の姿勢を欠くにおいては、武士的なものがその核心において克服されることなく、単になし崩しに表面から姿を消したというにとどまる。もしそうであれば、われわれはこの百年をはじめから出直さなければならないのではないであろうか。しかして、その手続の第一として、われわれは先ず武士的なるものそのものの理解からはじめなければならないであろうか。

少なくとも、主従関係の場において望ましい生き方として自覚された徳性は、他の人間関係の場にも、形を変えて、望ましいあり方として要請された。主従関係にとらわれることなく、関心を広く武士の生活全般にひらき、いかなる場に生きようとも、武士としてのあるべきあり方として常に要請されたもの、そして武士の身についたもの――今これを武士の道徳的気質と呼べば、このような武士の気質をこそここでは問題にしたい。深く、武士を通して日本人の内面に沈殿したものをここでは問題としたい。

この百年、われわれが武士的なものをいかなる深さにおいて克服し得たかということは、依然問題として残されてくる。
伝統を否定するが、これに代わるべき新しいものを生み出し得ないというのが現代の人類一般の傾向であるといわれるが、ことわれわれ日本に関して、武士道に代わるべき新しい何物もまだしっかりと捉えていないという事実は、われわれの祖先の武士的なものへの批判の徹底性に疑問を抱かせるに十分である。
この百年、われわれが武士的なものをいかなる深さにおいて克服し得たかということは、われわれがこの百年、近代化の方向に自らの精神をいかに変革し得たかということを示すものではないであろうか。
近代化の方向の中に現在のわれわれがいかに位置するかを知るためには、この百年、われわれが武士的なものをいかに克服し得たかを知る必要があろう。

われわれ自身との対決の姿勢を欠くにおいては、武士的なものがその核心において克服されることなく、単になし崩しに表面から姿を消したというにとどまる。もしそうであれば、われわれはこの百年をはじめから出直さなければならないのではないであろうか。
しかして、その手続の第一として、われわれは先ず武士的なるものそのものの理解からはじめなければならないであろうか。

新渡戸は、封建時代の子たる武士道は、その母たる制度の死んだ後にも生き残り、一つの無意識ではあるが抵抗しがたい力として、国民および個人を動かしてきたという。武士道が我が国民性の短所についても大いに責任があることを認めていた。また道徳思想として十分に成熟せず、今や武士道の日は暮れつつあることを認めていた。しかし、武士道は完全に絶滅するものでもなく、また絶滅すべきものでもなく、その香気は、新道徳に受け継がれなければならなかった。また、必ず受け継がれるであろうとも考えられた。

ありのままをよしとする武士の精神を理解し批判するためには、その歴史的な形成過程を考えなければならない。ありのままを尊重する精神は戦国時代に特に顕著に自覚された。この戦国時代におけるありのままの精神の誕生を理解するためには、戦国以前の室町の武家貴族たちの生き方をまずあらかじめおさえておく必要がある。という。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 4

(p239~
芥川が忠臣・賊臣という選別に内蔵助の内面とは無縁の、いわばメディア市場における消費的な「代価」の交換を嗅ぎ付けていたといえば、野上は、唯物的な金銭の力が結局は忠義という観念さえ乗り越えて行くという、これまた鋭い見通しをつけていたといえよう。この芥川と野上のおける、「代価」あるいは「御用金」の観察を、人物の内面と心理の解剖から解き放して、歴史的・階級的な観点による批評に変換したところに、昭和という時代における「忠臣蔵」論の特徴が見えてくる。
それを代表するのは、たとえば羽仁五郎の「大石良雄の場合」(「新興科学の旗のもとに」昭四・三)であり、また長谷江川如是閑の「唯物史観赤穂義士」(「中央公論」昭六・五)である。

羽仁は、赤穂事件について、封建貴族が生産の搾取と所有の争奪という基盤を失い、朝廷尊崇と百姓慰撫とが唯一の根拠となったときに起こった、いわば「変態的・観念的」事件であると総括する。浅野家は、そういう歴史的必然の中で、大名取りつぶしの「囮にかかった者」であり、またその家老大石良雄も、復讐のために浪士を「団結」させたのはいいとして、しかし封建貴族的な価値のほかには「一つの希望」も見いだしえず、「解放的改革的意識の酵母」となることもできなかったというのである。つまり、彼らの決起とは、封建貴族団の「最後のあだばな」として、「最も観念的」で、そして「華やか」で、しかし「束の間」的な行動に過ぎなかった。従って、幕府や民衆が与えた「忠臣義士」という呼称は、実はそういう歴史的な現実が彼らに与えた「同情」だったのである。この事件が「文化的存在」として「伝承の中に観念化され美談化」される限り、封建貴族階級の性質は保存され、赤穂義挙録はいくたびも繰り返されて、小市民を感激させ続けるだろう、というのが羽仁の結論であった。

羽仁の言説が、その歴史的な必然論から、一貫して冷めた論調を保持していたのに対し、如是閑のそれには、事件の本質について、も少し突っ込んだ理解をしようとする姿勢が見られる。それというのも、如是閑の論は、復讐に加わりながら結局生き延びた寺坂吉右衛門と、裏切り者にされた大野九郎兵衛が偶然に出会い、「昔物語」に興じる中で、寺坂が大野の「唯物史観」についての講義を聞くというスタイルになっているからでもある。
大野の講義は大星由良之助が芝居の中で「主の仇」など「釣り合わぬ」といったセリフの解説から始まっている。それは敵を欺く計略であったと反駁する寺坂に対して大野は、由良之助のセリフには、封建主従とは契約関係であるという「本音」が隠されており、にもかかわらずその「本音」が「歴史」に押されて、算盤にあわない義挙となったと説くのである。そして、その「歴史」とは、世界は初期資本主義社会へと押し流されている中にあって、徳川政府はむしろ封建社会を旧形態の側に引きとめ、工業経済への転換や商人による富の蓄積を防ぎ、ただ遺産としての金銀だけを、自身を含む大名家の相続で経営するという政策をとったことだという。その上で、そこに温存された封建的隷属関係を、「贋造血縁関係」にまで成長させた過程が、「観念と実践との結合」となったところに赤穂の義挙があったというのである。

ここに、伝統的な隷属関係に生きてきた人間の原始的な感情が、封建的なヒューマニティとなって「臍の辺り」にへばりつき、十二月十四日が彼らのメーデーとなった。また、町人階級は、封建関係を常々外部から暴露的に見る傾きがあるから、武士の「不義挙」を「義挙」に対照させようとして、あの歌舞伎役者のグロテスクな扮装を、すなわち劇化された「忠臣蔵」の方を、「赤穂事件」より持て囃すということにもなった。

振り返っていえば、芥川の捉えた内蔵助は、この復讐が「形式」の点でも「道徳」の上でも、「満足」に近いといっていた。また野上も「相続」された軍資金という拘束性の中で、武士としての「正しさ」を発揮するとすれば、それは仇討ち以外にはないという洞察を語らせていた。そういう二人の観点を、羽仁と長谷川の言説で裏読みすれば、ある「封建貴族」が、既に「無効」となった「契約関係」に準じつつ、「原始的な感情」による事件を引き起こしたということにもなるだろう。そして、この経済的な裏読みが、正面から取りざたされるのは、あの高度経済成長期に続々刊行された忠臣蔵ものであったことは、いうまでもなかろう。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 3

雲右衛門の義士伝が、「武士道鼓吹」を掲げていたことはよく知られているが、彼に限らず明治末から大正期にかけての忠臣蔵は、武士道精神の花盛りであった。それを最もよく示しているのは、芳賀矢一「戦争と国民性」(大五・一)である。その中の一章「花は桜木人は武士」の中で、芳賀は西洋人をしばしば驚嘆させる「ハラキリ」について、日本の武士道が培った「剛毅な精神」の所産として捉え、あらためて四十七士の美学を称えているのである。

そうした武士道を背景に語られる「忠臣蔵」の中で、ひときわ異彩を放つのは、井上剣花坊の存在である。井上は、まず司馬僧正の名前で、「拙者は大石内蔵助じゃ」を刊行するのであるが、これは帝国軍人後援会による刊行で、前編が大正二年二月、続編が大正二年九月で、発行所はいずれも敬文堂である。その前編に序文を寄せているのが、森鴎外なのである。
ところで、司馬僧正が、内蔵助は「義士」ではなくて「人間」だというとき、もちろんそれは、五感を持ち、欲望にとらわれる者を指していよう。と同時に彼は、続編の冒頭に付した「冗語」の中で、その「人間」を「自然主義および象徴主義で書く」と注記してもいたのである。自然主義というのは、ありのままに赤裸々にという意味であるが、象徴主義というのは「平々凡々の人間」でありながら、しかしそれでいて「常人に超越した」処のある内蔵助の「人格の閃き」を「象徴」させるという意味なのだという。

芥川の「ある日の大石内蔵助」は、討ち入り後、細川家にお預けの身となった内蔵助が、復讐という「事業」を「彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した」ことの「満足」に浸ったのも束の間、堀内伝右衛門が外部の噂を持ち込むことによって、彼の満足に曇りが生じ、不快な種が蒔かれるという、ある春の一日を描いたものである。噂というのは、江戸市中に仇討ちをまねることが流行しはじめたということであるが、それを契機にして、同志の中には「背命の徒」をなじり、「乱臣賊子を罵殺」する形勢が生まれている。それについて内蔵助は「変心した故朋輩の代価で、彼らの忠義が益々褒めそやされ」るというこの事態を「新しい事実を発見」と解剖しつつ、いっそう不快さを募らせていくのである。既にこの「代価」という観察に、芥川の独自さは明瞭であるが、しかし、その「内面」を満たす自足感が、他者による相対的な評価の中で揺らいでいるという視点についてはどうであろうか。
「道徳上の要求」すなわち「正義」あるいは「善」の自足性が、あらためて「社会」の中での葛藤や軋轢に晒されて変容するという、その構図が思い浮かべるのは、唐突さを承知の上でいえば、ルソーという存在であろう。
そのルソーについて、かつて寺田光雄(「内面形成の思想史」昭六一,未来社)は、近代人の「内面」が形成される典型を見ていたことがある。ルソーといえば、既に「人間不平等起源論」の中で、いわゆる「自然状態」としての人間の内面的な価値を「社会状態」における人間の「自尊心」に対抗させていたことは知られているが、それはさらに「孤独な散歩者の夢想」に至って、より歴然としてくると寺田はいう。
芥川の捉えた内蔵助も、このルソーと同じ内面の軌跡をたどりながら、しかし結果は「冴え返る心の底へしみ透ってくる寂しさは、この云いようのない寂しさとは、いったいどこから来るのであろう」という吐露で終わっている。その吐露が、寒梅の老木を眺めながら発せられた感慨であることに注意が必要で、彼の内面を一種特権的に満たした「満足」も、また「寂しさ」も、社会を相手にするよりも、むしろ自然による慰藉に傾くことで、自足的な位置のバランスをとっていたことが知られるのである。

芥川の捉えた内蔵助の内面が、他者による相対的な評価にいらだっているとするなら、野上弥生子の大石良雄は、同志によってその内面をことごとく見透かされるものとして描かれている。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 2

福本日南の主張の背景をなしているのは、明治三十七年の国定修身教科書の改訂に伴う「家制国家主義思想」の確立であろう。また明治四十年の「師範学校規定」などの教育制度の制定とも呼応していよう。それらは、翌四十一年の第二次桂内閣の成立とも連動し、又穂積八束や井上哲治郎らの発言とも重なりつつ、「近代忠臣蔵」のイデオロギー的な性格を色濃く投影していたといえるだろう。

忠臣蔵のイデオロギー的な性格を代表する作家といえば、さらに大町桂月を欠くことはできない。・・・「四十七士」(明治四十三年)の結びの一節にはこうある。
四十七士を解せんには復讐を解せざるべからず。復讐を解せんには、忠孝を解せざるべからず。殊に我が国は万世一系の皇室を戴ける国にて忠孝二途なし。四十七士の精神が我が国運の消長に関すること極めて大なり。
それについで、大町はまた「日本及日本人」(明治四十三)の特集「四十七名士之四十七士観」に対して、「四十七名士の四十七士観」を「東京日々新聞」(明治四十三)に連載し、当代の名士の義士観にいちいち批評を試みてもいくのである。
まず乃木・東郷・島村の三将軍、島津、秋元の旧大名のそれについては、文句なく賛辞を呈する一方、元良勇次郎・加藤弘之・浮田一民の三人については、「日本武士の精神を解せざる者」として厳しい批判を浴びせる。そして、彼らとは対照的にラフカディオ・ハーン「神国日本」への思慕を語る高橋是清と、為永春水「正史実伝 いろは文庫」を「忠義浪人」として英訳した斉藤秀一郎の仕事が称揚されている。
「忠臣蔵」の民間への普及において、芝居や小説の果たした役割には大きなものがあるが、とりわけ講談については特筆すべきものが多くある。・・・当時の講談界を三分する神田派・松林派・桃川派の名手や新鋭が競合した場としてもよく知られている。博文館はこの「文芸倶楽部」のほかにも「講談雑誌」や「小説講談ポケット」などを刊行しており、いわば講談文化をリードしていたといっていいだろう。
この「文芸倶楽部」増刊号の講談・落語の人気に注目して、既に雑誌「雄弁」を刊行していた大日本雄弁会が、明治四十四年十一月に「講談倶楽部」を創刊し、新たな組織としての講談社を立ち上げることになる。博文館に次ぐ雑誌王国の誕生である。これに加えて「秀才文壇」を発行していた文光堂が、明治四十五年十月に競争誌「講談世界」を創刊するに及び、ここに講談というジャンルは、明治期における読み物文化を導いていくことになるのである。
講談の需要の多かったことは、当時の新聞の多くが、必ずと言っていいほどに掲載していたことでも知られる。読者のニーズに応えたわけであるが、一方では、学校教育を補完する通俗教育の必要性が、内務大臣床次武二郎などによって声高に唱えられ、その一助として浪花節や講談が、国民道徳の涵養のために推奨されるという背景もあったという。
そしてその成果として示されたのが、通俗教育普及会の編になる「赤穂誠忠録」(大二)という忠臣蔵ものだったのである。この会の顧問には、芳賀矢一、新渡戸稲造・上田万年・森鴎外らがその名を連ねているが、その「序」に芳賀矢一はこう書く。
この時代は、まさに国民誰もが読書をなす時代である。欧米文明国では通俗教育の普及のために図書館設立の運動に努めているが、我が日本では、徳川時代より一種の通俗教育者の任に当たってきたのが講談師で、彼らの役割を無視することはできないと。
この序に続いて、「緒言」には、演劇・小説によって喧伝された義士伝ではなく、的確な考証と教訓の中に、血あり涙ある精神修養書として、かねてから義士伝に通暁している桃川如燕・若燕の口演でこれを世に贈るとも記されている。すなわち「赤穂誠忠録」は講談としての「忠臣蔵」が、史伝としての考証のみならず、いわば国民道徳の宣揚とも結びついた決定版であったともいえるだろう。

羽織なしの着物と肩まで垂らした長髪――その得意な姿にも、人々の注目が集まったという。そうした風貌と、さらに雲右衛門に弟子入りした「三十三年の夢」の著者宮崎滔天との関係をも踏まえながら、かつて花田清輝は、この一代の寵児によって生まれた「雲右衛門節」の形成に、明治初期の書生や壮士に代わる「浪士」の時代を見ていた。すなわち、「日露戦争後、文字通り、時代の子としてときめいていた、福岡の玄洋社を中心に結集」していた「浪人」たちとの関係を見据えての表現である。・・・九州福岡という土地は、近代忠臣蔵にとってのいわば「るつぼ」であったともいえようか。

「近代つくりかえた忠臣蔵」より 1

さて、「近代」という時代に、最初に「忠臣蔵」のステージに上がったのは天皇である。すなわち、明治天皇は、明治元年にはじめて東京へ都を遷したとき、高輪泉岳寺に勅使を使わして、赤穂浪士の墓に対して次のような勅語を与えている。

なんじ良雄等、固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。百世のもと人をして感奮興起せしむ。朕深く嘉賞す。

この天皇の勅語から六年後の明治六年二月、太政官府はいわゆる「復讐禁止令」を発布するのであるが、それにもかかわらず赤穂浪人の復讐劇は、明治天皇のいう「主従の義」の普遍性によって、かつての江戸市民の「感奮」を越えて、さらに近代国民国家の道徳的な指標として引き継がれていくことになるのである。すなわち、「近代忠臣蔵」の始まりである。

「復讐禁止令」は、端的に言えば、仇討ちを私闘による殺人行為と見なし、以後すべては法の下で裁かれることを厳命したものである。封建道徳の美徳として称えられてきた仇討ちが、一転して、犯罪と目されるようになったことは、法制史上当然の推移とはいえ、当時にあって一大変革であったことは想像に難くない。事実、明治新政府は、それに至るまでにジグザグな方針の転換をたびたび重ねているのであるが、
・・・明治元年の暫定的法規としての「仮刑律」の「父祖被殴」の条に「祖父母・父母殴たれ死に至、因って行兇人を殺すは無論」という一節があって、父祖の場合に限って復讐が公認されているという。しかし、
・・・明治四年には、司法省が創設されて法権の統一が再議されるに及んで、ついに
明治六年二月七日、第三十七号布告を以て「復讐禁止令」が発布される運びになったというのである。すなわち、

人を殺すは国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは政府の公権に候処、古来より父兄のために讐を復するを以て子弟の義務となすの風習あり。右は至情やむを得ずに出でると雖も、畢竟私憤を以て大禁を破り、私義を以て公権を侵す者にして、固く擅殺の罪を免れず。

しかし、それでも「孝子の情」については、いまだに定まらず、「今後不幸にして親を害せらる者は事実を詳らかにし速やかにその筋へ訴」えなさいというくだりが「禁止令」には付されていた。それ故、暫定的な法規のまま据え置かれていた「父祖被殴律」について、再度司法省からの伺いが出され、以後たびたびの「改正」を経て、それがすべて撤廃されたのは、実に明治十三年の「刑法」の発布の時であったという。
この「復讐禁止令」の発布をふまえて、福沢諭吉は「学問のすすめ」第六編(明治七年)の中で、何よりも「国法の貴き」ことを標榜し、「国法」に背いて吉良を勝手に殺した赤穂浪人を、私に人の罪を裁いたものとして批判する。ここでは、幕藩体制下における赤穂浪人の復讐が、何のためらいもなく、あたかも既定の事実としての近代国民国家における法の遵守という精神から裁かれていると見ることができるだろう。
それに対して、植木枝盛「赤穂四十七士論」(明治十二年)は、福沢の論は欧米自由文明あるいは公議政体の国法を規範とした啓蒙論にすぎず、現下の日本が「専制独裁の国」と見なさざるをえない以上、たとえ国法といえども「私に裁定」されていると考えるべきだという反駁を展開する。すなわち「人民の与て立定するものにあらざれば、敢えて必ずしもこれに従」う必要はないと植木は述べつつ、彼ら四十七士の止むにやまれぬ「君臣の情誼」による復讐を弁護しているのである。
無論、これは赤穂四十七士論というより、人民の抵抗権をいうために、人々によく知られた赤穂事件を利用した(家長三郎)とされているが、・・・・