《ある人の説によると、大昔には武士というものは世の中になく、農、工、商の三つの身分だけで治まっていたのだが、やがて、その中から盗賊が生じて人々を苦しめ始めたという。しかし、農工商三民の力によっては、盗賊を防ぐことができないのでいろいろと相談の結果、農民の中から、家系、人柄のよいものを選び出して士(さむらい)と名付け、農業をやめさせ、衣食住ともになんの不足もないようにして、三民を盗賊の害から守る役割を与えた。そして三民の上の身分とし、お侍と呼んでこれを敬ったのである。
そこで、この侍たちも鋤鍬を手にすることをやめ、盗賊を征伐するための弓矢、乗馬、槍や太刀の使い方などの鍛錬に励んだので、盗賊どもも恐れをなして深山に逃げ込み、要害を構えて、自分たちも似合いの武器を用意し、簡単には撃ち殺されぬような体制を作り上げた。そこで、各地に点在する武士たちが互いに寄り集まって軍勢を整え、そのうちの一人を大将と定めて、その者の命令、指図によって、さまざまな戦術を用いて盗賊の本拠を襲い、これを退治したのである。三民の人々はこれを大いに喜び、侍とは頼りになるものだとますます考えるようになり、ここから、士農工商の四民の制度ができあがっていった。これが武家のはじまりだとのことである。
私は学問の道にはきわめて浅いため、この説が正しいかどうかの判定はつけかねるが、考えてみると、現在の世間においても、農業をやめて武士となった者は武士の中でも別に嫌われることがなく、また武士をやめて農業につくことによっては、武士としての身分に傷がつくことなく、再びまた武士となることができるようになっている。ところが職人、商人の身分から武士になることはできず、また武士をやめて一日たりとも職人、町人となった者は、二度と武士になることはできないようになっている。
こうして考えると、右の説にも、もっともな理由があると思われるのである。》
武士が誕生した由来が語られる。武士は農から選抜された者で、その威力、権威を創出・維持するためにルールが定められ、新たな四民制度として、封建社会に定着したのであった。
武士という集団が、封建社会の差別的な身分制度を維持した元凶の様に、現在は言われているが、当初は三民の共同謀議により成立し、《侍とは頼りになるものだとますます考えるようになり、ここから、士農工商の四民の制度ができあがっていった》のである。
李登輝著『武士道解題』は次のように謂う。
「武士とは、武力を持って地方を支配し、公権力に使えていたものを言う」といった独特の意味を持つようになったのは、平安時代も中期の十世紀以降のことでしょう。つまり、日本の社会が十世紀に差し掛かったころから、「合戦」をもって生業とする人々のことを「つわもの」(兵)と呼び、官人や貴人に仕えて家政や警護の役割を受け持つものを「さぶらい」(侍)、そして武力を持って公に奉仕するものを「もののふ」(武者)と呼ぶようになったのです。
徳川三百年の封建社会が維持できたのは、上からの圧力よりも、下からの支えがあった故であろう。封建社会では、身分と職分を一体化させ、政治・経済活動の安定を図った、つまり身分間の移動を禁じたのである。侍が工商の身分に移ることを禁じたのは農としての労働力を維持する為であったと考えられる。
社会の発展と共に職分は多様化し、標準化、単純化、専門化が進む。組織の階層化が進み、専門化は閉鎖された関係、差別意識を産む。権力構造が形成・強化され、それが身分にも反映されることになる。四民制度は、大きく四つの世間を形成することになる。封建社会の住人は被差別の当事者以外はそれほどに不平等は感じていなかったであろう。現在、我々が感じているように・・・。
現在は、身分制度が廃止され、身分と職分が結びつくことはない。一方で、職分は資格と結びつき、職分の中で、職掌として細分化され、専門化が進む。結果として医者と看護師の様に職分による差別化が進んでいる。そしてそれは経済的格差に帰結する。
セクハラやパワハラはその基底に差別が存在することの現れである。
セクハラやパワハラはその基底に差別が存在することの現れである。