2014年5月30日金曜日

心得 第五十一 「徳について」

後見人の心得」の一項として設けたものである。

「後見人の心得」の【解説】において、訳者吉田氏は次のように謂う。
《彼らにとって、家督こそは権威の保障であり、生活のよりどころであった。戦国乱世のころとは違って、すでに定まっている価格は容易なことでは動く可能性はなかった。武家社会の余計者とされていた二、三男育ちの浪人が、たまたま長兄の死によって本家後見人の地位を得たとすれば、なんとしてでもそれを手離したくないと考えたのは、むしろ当然であろう。後見人と嫡子との深刻な争いがしばしば起こったことは容易に想像される。ここで友山は、言葉をつくして後見人の取るべき態度を説いているが、封建の秩序を守る為には、彼らが節操を貫いたという名誉だけをもらって、再び一介の素浪人に戻らなければならなかったことは、どこか哀れというほかはない。》

教を実践する、教を身に着けることが教養であり、教養は生活を通して磨かれたのである。
実利を捨てて、事理を拾ったのである。利を制し、理に付くところに徳は備わるのである。
教養は利より、理を重んじ、利得ではなく、理徳を好んだのである。
公を支えるために、公徳が必要であり、それは私欲を慎むことから確保されたのである。
今日の成果主義、欲望を原動力とする社会では利巧であることを競っているようである。
そして、結局、人の和が乱れ、絶滅の瀬戸際に立つことになっている。
「天の時、地の利、人の和」は三位一体である。そして人は物理的制約の中で生きる存在である。
そこに守るべき定法がある。

徳に絡めて、日本語を考える。
〈とく〉には、「徳、得、篤、特、匿、説く、解く、溶く」などがある。発音が同じこれらの言葉には、共感的なものがあるように思う。

2014年5月29日木曜日

心得 第五十 「譲り渡しはきれいさっぱりと」

後見人の心得」の一項で、「亡兄の家督を預かるときは」から続くものである。
《次に、その子供が無事にして十五歳ともなったならば、主君に対し、「来年はこの子も十六歳となり、若年ながら武士一騎前のお役にたつようになりますゆえ、これまで自分に下されておりました知行をこの者に譲り渡して、ご奉公させたいと存じます」との旨を、書面をもってはっきりと申し上げるのである。
この際、主君から、その願いはもっともではあるが、まだ当人は若年の子とゆえ、なお二、三年の間は、そのほうが勤めるように・・・などとのおおせがあるかもしれないが、たとえ、どのように重いおいいつけがあろうとも、きっぱりとお断りしなければならない。
こうして願いがかなったならば、以前に調べておいた帳面の記録に基づいて、先代の諸道具をすべて甥に引き渡すことが大切である。なお、自分が陣代を勤めている間にととのえた家財についてはその限りではないが、そのうちからもふさわしい品を選び、帳面に記して甥に譲り与えるとよい。
さらにまた、主君より家督を定められる折に、例えば石高五百石として、このうち三百石は甥に下さり、残る二百石は陣代を勤めていた数年の間、よい奉公ぶりであったゆえ、そのほうに与えたいなどと仰せられることもありうる。こうした場合には、「身にあまる幸せとしてありがたく存じますが、そのために本家の知行が減ることは誠に迷惑、何卒、兄の知行はそのまま甥にお渡し頂き、私には永のお暇をくださいますように」と、たってお願いすることが、とりわけ大切なのである。このようであってこそ、陣代、番代として武士の本望をとげる態度といえよう。
これに反して、すでに初陣を勤めるほどの年齢に達した甥に、いつまでも家督を譲ろうとせず、喩え譲るにしても、自分が陣代を勤めていた間に兄の道具類はすべて紛失し、家屋敷は住み荒したまま修理もせず、兄の代にはなかった借金やら買掛金やらをこしらえて、これを甥に押し付け、さらには扶持米や金銭をねだって若い甥のすねをかじる算段をするなどというのは、陣代、番代を勤める武士としては、全く道から外れたものといわねばなるまい。》


《修身斉家治国平天下》を武士道の基本においた。
『大学』は次のように謂う。

家の主、頭領をいかに育てるかが第一の課題であった。
家を中心とした序列を整えることで秩序を保ってのである。
考え方としては、戦時には功を為す武士も、平時には負担をかける存在であることを弁え、極力負担軽減に勤め、迷惑をかけない算段をすることが武士に求められたのである。


2014年5月28日水曜日

心得 第四十九 「亡兄の家督を預かるときは」

後見人の心得」の一項で、「譲り渡しはきれいさっぱりと」へと続くものである。
《戦国のころ、合戦に臨んだ武士が見事な働きをして討死を遂げ、あるいは重傷を受けて傷の手当てが及ばず落命したといった場合、主君、大将といった方々は、その者をとりわけ哀れと思召され、男の子がいれば、まだ一歳であっても家督を継がせて下さるものである。しかしながら、その子供がまだ幼少で戦場のお役が勤まらないというときは、たとえば死んだ親の弟などで浪人している者でもいれば、当分の間はその者に兄の遺産を預けられ、子供が幼少の間は後見をするようにと、主君から仰せ付けられることがある。これを、その頃には陣代、現在では番代と呼んでいる。
この神代、番代を勤めるにあたっての武士の作法というものが昔から伝わっているのである。それは次のようなことだ
先ず、右のような事情で兄の家督を相続することになったならば、その子供は自分にとって甥ではあるが、真実の我が子として愛情をもって育てることは当然である。
次に兄の家督を引き継ぐにあたっては、武具、馬具の類はいうまでもなく、そのほかさまざまな家財類をすべて一か所に集め、一族のうちの誰かを立ち合わせてそれを点検し、すべてを帳面に記載することが大切なのだ。》



甥の後見人になる場合の心得が説かれている。
家督の相続、財産の管理は武家にとって一大事である。また主君にとってもその兵力、権威を維持する上で重大な関心事であり、「御恩と奉公」という封建制度の基盤を成すものである。
貞永式目に始まり、武家諸法度に至るまで、その仕来りが細かく定められていた。
間違いが起こらないように、いわゆる事務的に処理することを勧めている。
このように詳細に説かれているということは、こうした問題が多く見られたということである。
封建体制は、武士の道徳で維持されていた。

2014年5月22日木曜日

心得 第四十八 「昔の意地、いまはいずこに」

「武士は食わねど」の心意気」の一項である。

《五、六十年も昔のころまでは、出世を望む浪人たちの言葉に、「乗り換え馬の一匹も持てるようでなければ・・・」といえば、「五百石以上の知行でなければ・・・・」という意味であった。また、「せめてやせ馬の一匹も持てる程度」といえば「三百石程度なら」という意味、さらに「錆び槍の一本も持たせていただきたい」といえば、「知行取りの身分となれれば、たとえ知行は百石でも・・・・」ということばだった。
その頃までは、まだ昔の武士の気風が残っていたから、何百石ならば奉公いたしますなどと、自分の収入のことを数字をあげて口にしたくないという意地があり、こうした言葉となったものである。"武士は食わねど高楊枝"とか"鷹は飢えても穂を摘まず"などというのも、その頃のことわざである。当時は、年若い人は暮らし向きの損得、物の値段のことなどは口にせず、女色の話が出れば顔を赤らめるといった様子であった。
優れた武士を志す者は、及ばぬまでも、こうした昔の気風を慕い、それにならうようでありたいものである。鼻が曲がっても、(誇りを捨てても)息さえ出れば(暮らしに事欠かなければ)よろしい。といった根性に落ちぶれてしまったこと、まことに是非もないしだいである。》


能力判定の視点を戦場・戦陣に置いた会話で行った。
知行は日常の重要な糧であるが、距離を置く事で品位を保った。
間接的表現を察し、慮ることが尚ばれた。
器量により、身分が決まり、身分に応じた格式が定められる。

《質実剛健勤倹尚武》、気風・誇りを慕い、意地・根性を養うことを求めている。

2014年5月20日火曜日

心得 第四十七 「たとえ尋ねられてもはぐらかせ」

許されぬ転職先での旧主の悪口」の一項である。
《侍というものは、自分が奉公している主人の家に子々孫々まで勤めるつもりでいても、何かの事情によって、その家を離れることがある。
そして、前の主人との関係で差支えがなければもちろんのこと、もし、何かの制約でもあれば詫びを入れて自由な立場となり、ほかの主君に抱えられて奉公人となるというのが昔からの武士の仕来りである。もし、こうした事情から他家に奉公し、やがて、その家の古参の武士たちと親しくなり、朝夕に顔を合わせ雑談をするようになってからも、かつての主人の家のよからぬ噂などは、仮にも口に出してはならぬと決意することが、武士としての第一に必要な心がけである。
なぜならば、この広い世界において日本国の武士と生まれ、国の東西南北に大名、小名、城主などが数知れず居る中で、どのような過去の因縁によって主従の契りを結び、たとえしばらくでもその家に奉公していたとあれば、その間に自分の生活を支え、子供を育てることができただけでも、その恩を受けていなかったとはいえまい。そのように考えるならば、たとえ一日といえども主君と仰いだ人の悪い噂などということは、仮にも口に堕すべきものではない。
ところが、そうした判断もつかず、世間に知られていない旧主の噂までも、自分だけが知っているとばかり得意げに言いふらすなどというのは、あたかも小者、中間同然の根性と思われる。
かつてのご主人のことについては、それがたとえ不始末のために幕府のおとがめを受けた人であろうとも、噂すべきではない。もし人から尋ねられようと
、あれこれとはぐらかして、その人の悪事などは一言も口にしないというのが武士としての正しい道である。》

先に、《儚くも、一期一会の世の中で、家を立てんと一所懸命》が武士の生き方であったと述べた。《報恩》《忠孝仁義》が武士の思想の中核にあった。
《法の前に道理あり》と謂う。道理に基づく君臣関係は、世間の評判を超えたものである。
だから、噂などに加担し、尊ぶべき君臣関係を卑しめるなというのである。

吉田氏は《これは、ある意味では現在でも立派に生きる教訓である。》と言い、次のように続ける。
自分の出所進退を事情を知らぬ相手に語るとき、われわれは知らず知らずのうちに自己弁護をしているものだ。前の測場をなぜ山高について、自まんとも愚痴ともつかぬ話をくどくど聞かされれば、たいていの相手はうんざりするに違いない。それで自分の株を上げようなどと思っても、逆効果しか期待できないだろう。
人材の流動化が進んでいる最近の風潮から考えて、心にとめておきたい。
全くその通りである。

2014年5月19日月曜日

心得 第四十六 「慎重を要する舅の立場」

親族関係のけじめ」の一項で「なぜ本家を大事にするか」から続くものである。
《次に、自分の娘を他家に嫁がせ、男子が生まれてから後にその夫がなくなり、幼い孫が跡継ぎの立場となったため、これからのことを婿方の親類と相談するといった場合には、十のものならば八つ、九つまでを婿方の親類にまかせて、こちらはひかえ目にしている心掛けが大切である。
但し、娘の嫁ぎ先が、婿の生前から家計が苦しく、その始末で親類たちの負担となっているような状態であれば、苦労している我が娘の世話をしてやるのは当然のことであり、あれこれとしてやらねばなるまい。
婿が亡くなったあとでも、何の苦労もないほどの暮らしであるとか、たとえ少しでも財産があるようであれば、舅の立場から差し出がましいことはいっさいやらぬという慎重な態度をとることが武士の本道である。
そうでないと、「孫がまだ幼いうちに、わが娘の内々の相談をして後見役をしているのは、どうも納得がいかぬ」などと、他人の批判が出てくるに相違ない。
次に、一族の本家筋、または先祖の主人筋、かつての上役といった人々の家が衰えて、みるかげもなく落ちぶれてしまった時、これを少しも粗末に扱うことなく、昔からのつながりを重んじて何かと配慮をするというのは、これまた武士本来の精神である。その時々の相手の景気ばかりを気にして、威勢がよいと思えば敬うべきでない者をも敬い、衰えたとみればいやしんではならぬ相手をもいやしむようであっては、まるで町人百姓同然の心がけであって、武士本来のあり方とはいえない。》


続いて、親戚となった他家との関係・つきあいについて語る。
武士には歩むべき道がある。立場を重んじ、本来あるべき姿・形を整えることがそれであり、恩に報いることで筋を通した。つまり義を貫いたのである。体面を重んじ、面子を損ねることを慎んだのである。男系の血縁関係を中心に家族内の序列が決められ、他家との関係も整えられた。内外意識はこうして形成されたと考えられる。イエ制度については『イエとしての文明社会』に詳しい。


心得 第四十五 「なぜ本家を大事にするか」

親族関係のけじめの一項で「慎重を要する舅の立場」へと続くものである。
《世間では、自分の兄の子も、弟の子も同じく甥と呼び、また自分の姉や妹がよそへ嫁いで生んだ子をも甥と呼んで、どれも変わらぬように考えているが、これは百姓や町人の場合のことである。武士においては、心には義理を重んじ、形には作法を守るものであるから、こうした点についても農工商の身分のものとは違っていなければならない。
例えば、一族の嫡子である兄の家に生まれた子は、自分にとって甥であっても、本家を相続する立場にあり、わが目上に当たる親、兄の跡を継ぐ惣領家となるのであるから、兄が亡くなり甥の代となっても、自分の親、兄を敬うようにその者に対して礼をつくすのである。これは決してその甥個人を敬うのではなくて、わが家の先祖を敬う心のあらわれなのである。
しかし、兄弟の子供であっても、二男、三男或いは自分の弟の子供に対しては、世間一般の叔父甥のつきあいでさしつかえない。また姉妹の子供については、甥には違いないのだが、他家の姓を名乗る立場にあるのだから、普段のことばづかいや手紙の文章なども、やや他人行儀に、丁寧にすることがふさわしい
さらに、自分の甥、弟、あるいはわが子であっても他家へ養子にやった子供に対しては、すっかり他人となったものと心得るべきである。例えば、内輪の交際で顔を合わせた時などの言葉づかいなどはともかくとして、他人を交えての場においては、他人同様の態度をとらねばならない。
さもないと、養父方の親類や家来たちの目から見て「一旦、他人の子にしておきながら、相変わらず、わが子、わが弟のように扱っているが、そのくらいなら、最初から自分のところにおいておけばよいのに・・・」と軽蔑されるであろう。
もっとも、養父方の家にしっかりした者が誰一人おらず、家のまとまりもなくて相続もできぬという状態の場合においては、我が子、わが弟のことゆえ、放っておくわけにもいかぬということはあるであろうが・・・。》


《心には義理を重んじ、形には作法を守るものである》武士の生き方が、《これは決してその甥個人を敬うのではなくて、わが家の先祖を敬う心のあらわれなのである。》と〈祖先崇拝〉、〈家中心〉であることが説かれている。
家中心のルール(格式)に従った。格式ばって威を保ったのである。それが時代の要請であった。
情に流されることを知っていた故に、義理を強調し、他家の姓を名乗る甥に対しては《やや他人行儀に、丁寧にすることがふさわしい。》と行動に現わすことを強調したのである。
「儚くも、一期一会の世の中で、家を立てんと一所懸命」、が武士の姿であった。

2014年5月15日木曜日

心得 第四十四 「汚れを洗う三つの妙薬」

古手の役人はよごれた白小袖の一項で「汚職役人の手口はこれだ」に続くものでる。

《ところで、白小袖も、よごれっ放しにしておかず、ときおり洗濯さえしておけば、いつも白く、見苦しくなくできるものである。
役人についても同様で、自分で自分の心の汚れに気を付け、絶えずこれに洗うようにさえするならば、汚らしくよごれ果てるようなことはない道理である。
尤も、白小袖っがよごれたのは、人間の垢やまわりのほこりできたなくなっただけであるから、質のよい灰汁で洗いさえすれば、垢もしみも落ちて、あとはきれいになるものである。
それにひきかえ、人の心には、種々さまざまなものがしみこんで、そのよごれ方もはなはだしいから、ただ、ざっと洗った程度ではきれいにはなりにくい。そのうえ、白小袖ならば年に一度か二度、洗いさえすればよいのだが、人の心の洗濯は、一日四六時中居ても立っても、またさまざまなことに心を動かすたびごとに、あるときはもみ洗い、あるときはふりすすいで、少しの油断もなく洗い続けていても、たちまち、そのあとからよごれけがれてしまうものである。
もっとも、白小袖にかぎらず、垢を落とす灰汁にはいろいろな種類があり、垢をそっくり落とす薬などもあるということである。それと同じように、武士の心の洗濯をするには三つの灰汁を使うのがコツとされている。
その灰汁とは、忠、義、勇の三つである。
心に染みついて垢の性質によって、忠誠心によって落とす場合もあり、また正義感によって落とすべき垢もある。その上に、もう一つの秘訣がある。もし、忠で洗い、義で洗ってみても、そのよごれがひどくて落ちにくい場合には、はげしい勇気の灰汁を少し加えて、全力を尽くしてしゃにむにもみ洗いしてから、さっぱりとすすぎあげるのだということである。これが武士の心の洗濯についての秘伝とされているのだ。》


世の中で生きていく限り、垢が身に付き、汚れるのは当然である。
染みついた汚れは時宜に応じ、除染すればよいのである。除染の特効薬がある。それは忠誠心と正義感と勇気の三つであるという。勇気について、武士道は人知を超えたものとする。
力を仁に見せかけるもの。それは知謀である。仁を力あるものにするもの。それは勇気である。戦国覇道としての武士道は、、このようにして、無道の中から道をつくり、出して、無道を一つの道にまで高めてゆくために知恵と勇気が血みどろに戦う虚々実々の世界である。虚構も真実なら、真実にもいつわりがある。根本は力が正義だからである。(『武士道の歴史Ⅱ』「山名細川の道」より)

〈義〉は、〈偽〉ではなく、それを超えたものである。
〈偽〉「人の為すこと」、つまり〈なれる〉ことで達することができるものではない。

心得 第四十三 「汚職役人の手口はこれだ」

古手の役人はよごれた白小袖の一項で「慣れるにつれて腐るのが常」に続くものでる。

《それだけではない。新任のころには、人からの贈物などがあっても、それを禁じている規則に従ってきれいに送り返し、もし、どうしても受け取らねばならなかった時には、後日、その贈物にふさわしいお返しをするなどして、人々からも、いたって潔白なやり方とほめられていたような者でも、いつの間にかその心掛けが変わってきて、この職務を勤めているうちに少しでも多く握りしめておかなければ・・・という欲心が起こってくる。しかし、人からの贈物を受けてはならぬという規則があるからには、いまさら受け取るわけにはいかない。ところが、そうした心のうちというものは、言葉の端々にあらわれるものであるから、人もそれを敏感に察して、表面では一向にかまわぬふりをしておいて、裏から縁故をたずね、さまざまな関係をたどり、手段をつくして品物を送りつけるのである。こうして贈られた金品はいくらでも受け取り、さてその返礼には、お上の目をかすめて、えこひいきをするにきまっている。こうしたよごれ方というのは、右に述べた白小袖がねずみ色になっていくのと少しも変わりがない。》
慣れるが狎れる《親しみすぎて礼を失する》になってはならない。
礼節を正すこと、節義を守ることが重要である。
人は経験を重ね、資料が増え、思量が増えると、慮る、配慮することになる。
配慮することは悪いことではないが、慣れて、気が弛むと、節義を失うことになる。
思量を重ねることが必ずしもいいとは限らない。判断が重要なのである。
〈はかる〉にいろいろな表記がある。〈ためる〉も〈矯める、溜める、貯める〉と三つの表記がある。
外目には同じように映る〈腐る〉と〈熟す〉をどう判断するか、見極める力を養うことが必要である。
武士の身上である〈潔白〉〈潔さ〉を失うことのないよう志操を護れということである。
法の前に道理あり、思想の前に志操あり。

2014年5月14日水曜日

心得 第四十二 「慣れるにつれて腐るのが常」

古手の役人はよごれた白小袖の一項で「汚職役人の手口はこれだ」へ続くものでる。

《「白無垢小袖と役人とは、新しいうちがよい」ということばは、軽いことわざながら、なかなかもっともなことと思われる。
白小袖の新しいうちというものは、たいへんきれいなものでも長いこと着ている間には、襟のあたりや袖口から汚れ始めて、そのうちにねずみ色のようになってしまうと、まことに見苦しく、汚らしいものである。 
また、役人が何かの職務についた場合も、最初のうちは万事について新鮮な心構えを持ち、主君のおおせつけを大切に守り、ちょっとしたことについても真剣に考え、とりわけ、その職務についての規定罰則に心を刻んで、少しもそむくことがないようにと慎重に勤めるから、すべてについて不足するところがない。こうして、家中の一同から、まことに無欲正直なよい役人とほめられたほどの者であっても、その職務を長らく勤め、さまざまな筋道が理解できるようになってくると、次第に要領がよいだけの仕事ぶりとなって、新任のころには決してしなかったような失敗をしたりするものである。》


慣れると、緊張感がなくなり、人間の性、本性が現れる。気ままにせず、常に改める必要を説く。
〈改める〉とは《新しいものに変える》意であり、新しいうちは自然に刻まれることも〈なれて〉くると刻めなくなる。それが人間なのである。新鮮な気持ちを保ち真心をこめて仕えることを説く。
〈なれる〉が《為れる、生れる、成れる、馴れる、慣れる、熟れる、狎れる》と多様に表記されるのも現れるものの違いを表現する必要からであろう。
経験が増すことに拠って成長するか、退化するか、人それぞれである。
《克己復礼》と謂う。その意は《《「論語」顔淵から》自制して礼儀を守るようにすること。》とある。

2014年5月13日火曜日

心得 第四十一 「後輩いじめは最大の卑怯」

職務と私情を混同するなの一項で「絶交中の同僚とも仕事は仲良く」に続くものでる。

《ましてや、日頃から何のゆきがかりもない同僚と同役を勤めることになったときには、なおさら親密な関係をつくるようにするのが当然のことであろう。
それを、ややもすれば、同役との権力争いをする者や、また相手が新任で万事に不案内な時には、いろいろと気を使ってやって、手落ちなく勤めさせるという先輩らしい配慮もせず、不慣れなための失敗でもあれば、喜んで騒ぎ立てるものがあるが、まことに見苦しいともきたないとも、批判のしようもない次第である。このような心がけの武士は、いったん、変事が起こった場合には、必ずや味方がとった首を奪ったり、味方を売ったりといった卑怯きわまる大不義をやってのけるような者である。よくよく警戒してつつしまねばならない。
以上、初心の武士の心得として申すものである。》


公務、いわゆる職務があって、役割が与えられるのである。
義理を完成させるのが武士である。
私情に左右されず、理(事割り)に従い、判断を的確にするのが武士である。
味方を援け、勢力を増強することは忠義である。
味方を損ない、勢力を減退することは不忠である。
《強きを挫き、弱きを助ける》侠気を尊び、怯懦を警戒したのである。
私情ではなく、職務を判断の基準におくことを説いている。
吉田氏の【解説】は『職務と私情を混同するな』の講を次のようにまとめる。
武士の意気地を尊ぶ立場からすれば、藩中の傍輩同士が絶交状態に陥ることもあながち非難はできない。だが、ご奉公のために必要とあれば、わたくしごとの遺恨はしばらく棚上げにして、一致協力して主君に尽くせということである。

2014年5月12日月曜日

心得 第四十 「絶交中の同僚とも仕事は仲良く」

職務と私情を混同するなの一項で「後輩いじめは最大の卑怯」へ続くものでる。


《奉公する武士として、多くの同僚の中には、何かの事情で絶交中の者がいるというのはあり得ることである。ところが、主君の仰せによって、その絶交中のものと同役となった場合には、直ちにその相手の所に行き、次ぐのようにはっきりとのべるべきである。

「自分は、この度貴殿と同役となるよう仰せつけられ、ただちにお受けした。あなたと自分とは、日頃絶交の間柄ではあるが、いったん、同役を仰せつかったからには、少しでも私情をさしはさんでいては殿のおためにならぬことゆえ、今後は互いにこだわりを捨て、ひたすら御用をとどこおりなく勤めるようにしたいと考えるしだいである。ついては、あなたはこのお役については先輩のことであり、何かとご指導いただきたいと思うばかりである。ただし、明日にでも、あなたか、じぶんか、どちらかが、このお役を離れるようになったならばその節には再び絶交することになるかもしれないが、それまでは、ひたすら心を合わせていくことだけを考えていきたい」
このように申しのべて、互いに心を合わせて勤めにはげむのが武士の正道である。》

《知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい》と、漱石の「草枕」の冒頭にある。その意味は《理知的でいようとすると人間関係に角が立って生活が穏やかでなくなり,情を重んじれば,どこまでも感情にひきずられてしまう。》と謂う。
《心身一如》《知行一致》を意気地としたとき、角が立ち、絶交することもあり得るのである。人間関係に気を使い過ぎると情に流される。働きを第一とする武士の心がけを具体的に丁寧に説いている。
断る〉とは事情を知り、分を弁えた慎重な態度である。〈断り〉は(事割る・言割る)ことに始まり、断りを入れることは分別して、〈〉を通すことになる。それが挨拶であり礼法に適った仕儀であった。
「ことわる」は「断る」または「判る」と表記される。二つ合わせて判断となる。詳細はこちらから
〈唐変木〉は《気のきかない人物、物分かりの悪い人物をののしっていう語》の謂いであるが、武士の場合、「とうへん」は〈刀偏〉〈武偏〉であり、融通が利かなかった。
融通無碍〉は達道の極意であるが、初心者には分に過ぎるものである。

2014年5月11日日曜日

心得 第三十九 「風流のつもりが道具屋に転落」

学問、風流もときに大害の一項で「歌道のこりすぎは軟弱のもと」に続くものでる。

《次に茶の湯の道であるがこれは室町将軍の時代から武士のたしなみとされてきたものであるから、
自分の家においてはせぬまでも、人から茶席の招きを受け、身分高い人と同席する機会などもあり得ることである。そうした折りに、茶庭への通り方、茶室に入るときの作法、茶席での諸道具の見方、料理のいただき方、茶の飲み方など、いろいろな心得がいるものであるから、その道の師について、いくらかはその作法を知っておくことが望ましい。また茶道の精神というものは、世間の富貴栄華を離れて、簡素で静かな境地を重んじるものであるという。従って、繁華な町や城内に住んでいても、庭に木を植えて山林渓谷の風情をつくり、茶室といえば竹の垂木、皮付きの柱、萱葺きの軒、下地窓、粗いすだれ、簡素な木戸などのわびた有様を第一とし、さらに茶や会席料理の道具についても華麗なものをさけ、すべてについて俗世間を離れて清閑の境地を最高の宝とするのであるから、これは武士道の精神を養う助けともなるように思われる。そこで、たとえ小身の武士であっても、家の傍に茶をたてる場所をもうけ、新作の掛け軸、茶入れ、茶碗、土焼きのやかんなどの手軽な道具を使っての簡素な茶の湯を楽しむ程度ならば悪いことではない。
しかし、何事につけても、とかく軽いはずのものが深入りして重くなりやすいもので、次第に贅沢になってくると、たとえば茶釜にしても、人の持っている芦屋の釜を見て自分の土釜がいやになり、その他道具一切について、高価なものがほしくなる。さりとて小身の武士としては、ほしいと思うだけで、容易に手に入れることはできぬところから、掘り出し物をあさるようになってきて、目利きを習い、よい道具を安く手に入れる工夫を凝らす。あるいは、人の持つ道具の中にほしいものがあれば無理にねだる。このようになっては、何につけても自分が得をするように、損をせぬようにという計算ばかりが先に立って、まるで仲買か周旋をする商人同様の気風にまでなりさがって、武士の本道を見失い、大小を持つ価値のない人物になってしまうことは目に見えている。こうした風流人になってしまうよりは、いっそのこと茶道の心得などは少しもなく、濃茶とはどうして飲むものやらいっこうに知らぬという状態であっても結構で、それが武士道の障害となるものでは決してないのである。》

2014年5月10日土曜日

心得 第三十八 「歌道のこりすぎは軟弱のもと」

学問、風流もときに大害の一項で「我が国の伝統を見失うな」に続くものでる。

《次に歌道のことであるが、和歌の道は我が国特有の文化であって、公家の間は言うに及ばず、武士たちの中においても、古今の名将勇士のうちにその道の名人が数多くいたものである。従って、小身の武士であっても、歌道を学び、折に触れてはつたないながらも一首を詠むほどの心がけは好ましいことといえよう。しかしながら、この道も悪く凝り固まるのは困ったもので、古来の歌の名人と呼ばれた人でさえ簡単には作れなかったような名歌を、なんとしても詠んでみたいと思い込むようになり、他のすべてをなげうち、ひたすら歌の道だけに専念するようになると、いつしか心も形も公家やら武士やらわからぬように軟弱となって、武士本来の姿を失ってしまうものである。

とりわけ、近頃世間にはやっている俳諧などに凝りすぎると、同僚たちのまじめな談話の席にあっても、ともすれば冗談、軽口、だじゃれどを口に出してしまう。その場をおもしろくすることはできるかもしれないが、武士としては、のべつしゃれを口にすることは昔から好ましくないこととされており、こうした点に気をつけた方がよろしい。》

「歌舞音曲」は芸の幅を広げる上では由とされたが、その本道から外れてはならないとする。
芸事には〈守破離〉の三段階があるといわれるが、〈破〉も〈離〉も、〈守〉があってこそ成立する。
心を学ぶためのものであって、心を失ってはならないというのである。
《口は災いのもと》、無駄口を「分に過ぎる」と警戒したと考えられる。
〈常〉に流され〈変〉を忘れることのないよう、常に心に刃をあて、慢心・増長することを警戒した。
いつでも〈潔く〉行動できるように、心が「汚されないように」行動を慎んだのである。
〈凝り〉が〈懲り〉に転じないように、「洒落」が字のごとく、酒で身を滅ぼすことのないように・・・。


2014年5月8日木曜日

心得 第三十七 「我が国の伝統を見失うな」

学問、風流もときに大害の一項でる。


《武士道においては、力強くたくましい気風を第一に重んじることはもちろんであるが、ただひたすらに強いというだけであっては、あまりに教養に欠け、何か百姓上がりの武士を見るようで好ましいとはいえない。学問、歌道、茶の湯といったことは別に武芸のうちにはいるものではないが、こうしたことについても少しずつは心得ておきたいものである。
まず学問であるが、これを心得ていないことには、古今の物語の意味を知り、判断を下すことができないから、日常のことについてはいろいろと知っていて賢そうに見えてもこととしだいによっては判断のつきかねることが起こらぬとも限らない。異国のこと、我が国のことについて、いろいろな知識を持ち、実際の場においては時期、立場、力関係などを総合的に考え合わせてその知識を活用し、事態に対処していくならば、失敗ということもそれほどは起きないものである。しかしながら、間違った心構えで学問をした者は、たいてい高慢になって、たとえどれほど意志強固で立派な武士に対しても、その人が無学文盲であれば、それだけで軽蔑するものである。その上、中国風ばかりがよいものと思い込み、理屈はよいが、我が国の現状では役に立たぬようなことを思慮もなく、むきになって主張し続けるなど、まことに困り果てたことである。
なぜならば我が国においては、古来から名人、君子といわれる立派な人々が数多くおられて、その人々が中国はもとより、遠くインドの地のことまでも詳しく調べ上げ、さらには直接に人を使わして検分した結果を、我が国の国情に合わせてとり入れ、日本の国のあり方をつくりあげてきたのである。こうして日本六十余州を、ただお一人の天子によって治めること、三種の神器による皇位の継承、御摂家をはじめとする華族の制度などを定め、公家と平民の差別を明らかにした。これらはすべて日本独自の制度である。それだけではなくて、男女の服装、衣服や家の構造、諸道具の作り方に至るまで、さまざまなことに心を配り異国の習慣と採り入れながらも、それをすべて作り変えて、万事にわたって中国とは異なった日本独自の文化をうちたてたのであり、これこそが永遠に守るべき神道の国日本の姿なのである。こうしたことは、私などのいたらぬ判断によっても推察のつくところである。
ところが、近頃の若い武士の中には、学問のやり方を間違えて、何事によらず中国風が最高と思い込み、我が祖国である日本の文化を軽視するような者がいるが、こうなってしまっては、全くの無学文盲の武士が武勇一筋に凝り固まっているのに比べて、はるかに劣っているといわねばならない。学問をするに当たっては、ここのところをよくよく考えることが必要であろう。》

2014年5月7日水曜日

心得 第三十六 「人にはできぬことをする意欲を持つ」

どこかで人に差をつけよの一項でる。

《武士という者は、大身小身を問わず、勝つという文字の意味をよく理解しておかなければならない。”勝つ”という文字は”すぐれる”と読むのであって、なんにせよ人にすぐれたところがなくては、立派な武士ということはできないのである。
例えば、さまざまな武芸などについても長年、努力を重ねて修練し、名人とまではいかなくとも、せめて上手といわれるほどに腕をあげるならば、人にすぐれた武士ということができる。また主君への奉公についても、たくさんの同僚の水準より上をいって、人々の目から見てもまことにみごとな勤めぶりとうつるようであれば、これがすぐれた勤め方である。
とりわけ大切なのは戦時の際であって、戦場においても、人々の行くところならば自分も行く、人々が持ちこたえているところならば自分も持ちこたえるといった状態では、別に感心もされず、ほめられもしない。
そうではなくて、味方の人々が進むのをためらっているような場合にも、ただ一人、突き進んで行き、味方の人々がもはや持ちこたえられない場所にも、ただ一人踏みとどまってたたかってこそ、人にすぐれた剛勇の武士と呼ばれるのである。
そのほか、なにごとについても、人にすぐれようとする意欲がないことには、人なみのことさえできないものと心得て、万事につき、心をこめて努力することが大切である。》
 
すぐれる(優れる、勝れる、選れる)には三つの表記がある。
ここでは〈勝〉について説いている。勝れ→選れる道理を説いている。
立派一派を立てる意から。一説に「立破」の音から》に成るには、上手物事のやり方が巧みで、手際のよいこと》と認められるような、衆目の基準を超えた、ぬきん(抜きん、抽ん、擢ん)ひときわ高く出る。ひときわすぐれる。秀でる。でた心技体(知識・技能・態度)が必要である。
千万人と雖も吾往かん》、孤高俗世を間から離れて、ひとり自分の志を守ること。》を貫く心構えを身に付ることである。そのような剛勇《人並みはずれて,強く勇気がある・こと》と呼ばれるためにはまず〈勝〉という意欲を養うよう努力せよと説いている。


2014年5月6日火曜日

心得 第三十五 「”借りたるものは返す”が正直」

主君のご威光を借りる法の一項で「家来に権威を盗まれる主君の損失」に続くものでる。

《奉公をする武士としては、以上のような点を十分に考えて、主君からご信頼をいただき、目をかけて下さるようなときにこそ、ますます慎重な態度を取り、心のおごりをおさえて、何よりも主君の御威光がますます照り輝くことだけを願うようにすることが大切である。昔の言葉にも”忠臣は君あることを知りて、わが身のあることを知らず”とあると聞いている。
もし、そのときの事情から、主君のご威光をお借りするような場合があっても、いつまでもお借りしたままにせず、なるべく早くお返しすることである。くれぐれも、あれは主君のご威光を盗んだなどといわれることがないよう、気をつけなければならない。》

威儀を正すことが世間の要である。威儀は意義に通じる。
偽装と儀装の差は・・・。威信と以心と維新の底流にあるものは・・・。
仕事は仕組みと仕来りに従うのである。
忠孝二つの道を説く武士道においては忠臣は君あることを知りて、わが身のあることを知らず”の以心で仕事するのである。
分に過ぎることのないように慎むように誡めている。
要するに〈滅私奉公〉を説くのであるが、慎重に心を働かせなければ、おごり高ぶることになる、心を働かせ、増長・傲慢に陥らないよう気をつけろというのである。

〈おごり〉も、「驕り、奢り、傲り」の別がある。その違いはどこにあるのだろうか。確認しておくとよい。

心得 第三十四 「家来に権威を盗まれる主君の損失」

主君のご威光を借りる法の一項で「責任を果たすには権威が必要」に続くものでる。

《一方、主君のお立場から見れば、時と場合によっては、家来に権威をつけようとの御意図によって、威光をお貸しになることは、十分に理由のあることであって、古来の名君、賢将についても、こうした例はいくらもあるのである。これが”主の威を貸す”ということなのだ。
しかしながら、それによって家来が役目を果たすことができ、もうよかろうという状態となったならば、貸し与えておかれた御威光を次第に取り返されるようにしなければならない。それを、いつまでものんびりとかまえて取り返そうとなさらないから、しまいには取り返そうにも取り返さなくなってしまい、結局は家来に御威光を持ち逃げされることなる。これを称して”家来に威を盗まれる”というのである。
このようになると、主君にとって大きなご恥辱であるばかりでなく、さまざまなご損失が生じてくる。第一には、家来が権威を持ちすぎるようになれば、自然と主君の影が薄くなり、すべてはその家来次第となる。下々の者までも、あの人の承諾さえ得られれば、どうせ殿様はあの人次第なのだから・・・と考えるようになるが、これはちょうど、天に太陽が二つあるのと同様で、たいへん不都合なことである。
第二には、こうなれば、家中の侍たち、下々の者までも、その者の機嫌をとる事を第一に考え、主君の事はどうでもよいという気持ちになるから上下の結束は弱まり、忠義の武士は育たず、もしも危急の事態が生じた時には役に立つものがいなかったという状態となることは目に見えている。

2014年5月5日月曜日

心得 第三十三 「責任を果たすには権威が必要」

主君のご威光を借りる法の一項でる。

《武士の奉公においては、主君の御威光を借りるという場合があり、また主君の御威光を盗むという者もある。また主君のお立場から見れば、家来に対して威光をお貸しになるということもあれば、また家来のために威光を盗まれるという場合もあるのである。これはどういうことであろうか。
武士として重い役目を仰せつかったが、まだ年が若かったり、小身であったり、あるいは家中の気風なり、その時の事情なりによって、主君の御威光をかさに着て働かなければ、その責任を果たすことができないという場合があるものである。そうした時には、結局は主君のためになることであるから、主君の御威光をお借りして、自分に権威をつけ、それによって任務を果たしていくのだ。これが主君の御威光をお借りするということである。
そのようにして、人々からも重んじられ、支障なくお役を勤めることができるようになったならば、最初お借りした主君の御威光はいち早くお返しして自分の職分に応じた権威によってその責任を果たしていくことが望ましい。ところが、主君の威光をお借りしていることによって、同僚の間ではもとより、他家、他藩の人々からも、あれは誰様の身内の何様などと大切に扱われ、幅がきくことを喜ぶものがある。また、人々から重んじられれば、それに伴ってのいろいろな利益も大きく、その欲にひかれて、しまいには主君の御威光を自分のもののようにしてしまうことがあるが、これを”主君の威光を盗む”というのである。》


奉公には公主の威光が必要である。その威光は職責を果たす為に必要とされ、また職責を果たすことによって身に付くものである。
家制度、封建制度を成立させた権威・威光のもとにある武士は、《お蔭さま》の存在なのである。
職分に応じた権威を身に着けることが武士の勤めである。
《身分、職分、気分が与えられて自分になる》と謂われる所以である。
今日的管理論からは「権限と責任照応の原則」を説いていると考えられる。
「《虎の威を借る狐》になるな」と誡めている。擬装で終わってはいけないのだ。
今日の資格制度による擬装社会は、封建社会の身分制度を笑うことは出来ない。
「坂の上の雲」を目指した気分・精神は今日以上のものであったかもしれない。

2014年5月4日日曜日

心得 第三十二 「死に際の悪いものは戦場の役にも立たぬ」

武士は死に際が大切の一項で「臨終には、まず主君にお礼を」に続くものである。

《右のようであってこそ、まことの武士の最後ということができるのだが、とうてい全快は難しい病気であるとの覚悟を決めることもなく、死の恐怖におびえて、自分の病気を人が軽く言えば喜び、重くいえばいやがり、あれやこれやと医者に苦情を言い、役にも立たぬ祈祷や願掛けなどをさせるうちに、病気はますます重くなるが、最後まで死に臨む覚悟がつかぬままに、何一つ言いおくこともできず、まるで犬猫の病死同様に、一生一度の臨終をし損なう者もいる
このような者は、この書の最初に述べておいた、常に死を心に覚悟するということをしていないのであり、仮に他人が死んだということを聞いても、縁起でもないと思うばかりで、自分だけはいつまでもこの世にいられるものと思い込み、人生を奥深くむさぼろうとする心がけであるから、こうした死に損ないの恥をさらすのだ。
太平の世において、重病におかされ、さまざまの治療をしても効果がなくて、次第に病状が切迫してきても、死の覚悟を決めることのできぬような卑怯な根性であっては、戦場に臨んだとき、なんの恨みもない敵を相手に、ただ忠義一途の心だけで戦い抜き、あっぱれな最期を遂げるなど、とうていできるものでない。それであるから、武士にあっては、畳の上で病死を遂げるにしても、死ということを一生一度の大事だというのである。
すでに述べたように、現在のような天下太平の世にあっては、主君に奉公する武士といっても、親の代にも自分の代にも、命をかけてのご奉公などということはただの一度も勤めることもなく、何十年にもわたって、過分の俸禄をいただいてはそれを費やしてきたのである。それ故、畳の上で病死を遂げる際には、子孫への遺言などのことは後回しとして、まず主君のご恩に対してお礼を申し上げるべきであるにもかかわらず、そうした配慮もなく、上司の人々を迎えても自分の子孫への家督相続のことばかりをひたすら頼み込んでいるなどは、まことに残念な次第であって、武士としての正道とはいえない。


生は死によって完成するということである。その完成の機会を失うことを恥じたのである。
生に執着することを貪るという。そして一生一度の臨終という機会を損なうことなると誡める。
生に執着することが生きざまを壊すことになるというのだ。我々現代人に対する訓戒である。
その死に際が無様である武士は、武士の本分を弁えぬものであるから、戦場で役に立つはずもないのである。
〈滅私奉公〉が武士の生き方の基本におかれた。それは〈私利私欲〉で力をつけてきた武士が四民の最上位に位置することになった時、武士に求められたものは〈公利公徳〉に付くことであった。《ノブレスオブリージュ(高貴なるものの責任)》、武士の教養として必要とされたのである。

2014年5月3日土曜日

心得 第三十一 「臨終には、まず主君にお礼を」

武士は死に際が大切の一項で「見苦しい死に様は一生の不覚」に続くものである。

《こうした点を考えるならば、平穏な時代にあっても、武士の身分にあるからには、同様の覚悟が必要である。
老人はもちろんのこと、若年の者であっても、大病にかかって治療も功がなく、次第に悪化していくようであれば、前もってその覚悟を決め、この世にはなんの心残りもないようにしておきたい。もし大切な職責を持っていればもちろんのこと、たとえ軽い奉公の身であっても、もはや我が身もこれまでという様子になってきたならば、まだものをいえるうちに番頭、支配頭などの上司をお招きして対面し、「長年の間、殿様のご高恩を受けてきた身として、なんとしても一度はお役に立ちたいものと心がけては参りましたものの、このような重病にかかり、いろいろと養生もいたしましたが回復の見込みもない状態となってしまいました。殿様のお役に立つこともなく病死いたしますのは、誠に残念ではございますが、是非もございません。ただただ、これまでのご高恩をありがたく存じております。私が相果てましたならば、このことを御家老にまで申し上げてくださいますように」と、主君へのお礼の言葉を述べ、もし、私ごとの用事でもあれば、それも申し上げておくことが望ましい。
その上で、一家親族、また親しい友人などにも死後の暇乞いをするが、その折に子供をも呼び出し、「自分は、多年にわたって殿様のご厚恩をいただきながら病死してしまうのは武士として残念なことではあるが、太平の世であればこれもやむを得ないことである。その方たちは、年も若いことであり、自分の志を継いで、もしも危急のことが起これば必ずや殿様のお役にたとうとの覚悟を持って、常に忠節、忠功の心を奮い起こしつつ、ご奉公の道を油断なく勤めよ。もしも、こうして自分が最後に臨んで述べるところの遺言に反して、不忠義の振る舞いをすることがあれば、草葉の陰からも勘当すると心得よ」などと、厳しく遺言しておくことが武士としての道である。中国の聖人(曽子)の言葉にも“人のまさに死なんとするや、その言うことや善し”といわれているということである。》


覚悟とは、ことバンクによれば《悟りを開くこと。観念すること。あきらめること。》とある。《我々が覚悟すべきは「独り来り独り去りて、一(ひとり)として随う者なけん」(『無量寿経』)ということである。人間は本来一人ひとりが独立者でありながら、この世では絶対に独りでは生きられない。生かされて生きているのが人間である。》という。本来の姿を実現せよということである。
本来の場とは〈変〉のときにある。従って武士の死場は戦場にある。ここでは〈常〉の場における死に方を説いている。武士はその信を〈報恩忠孝〉においている。死に際においても至誠一貫することを説く。
だから曽子の言うように《その言うことや善し》となるのである。

2014年5月1日木曜日

心得 第三十 「見苦しい死に様は一生の不覚」

武士は死に際が大切の一項でである。

《およそ武士として、身分の高下にかかわらず、第一に心がけておかねばならぬことは、その身の果てるとき、一命を終えるときのことである。

日頃、どんなに立派な口をきき、賢く見えていた者であっても、今はこれまでというときになって前夜不覚に取り乱し、見苦しい最期を遂げるようであっては、それまでの善行もすべて水の泡となり、心ある人の軽蔑を招くことともなって、誠に恥ずかしいしだいである。

武士が戦場に臨んで武勇をふるい、手柄を立てて名誉を輝かすというのも、あらかじめ討ち死にの覚悟を決めておいたうえでのことである。従って、もしも運悪く勝負に敗れて、敵に首を取られるはめとなったときには、名を問われれば姓名をはっきりと名乗り、少しも悪びれたところなく、にっこり笑って首をとらせるのである。また、もはや手当のかいもないほどの重傷を負ったときでも正気さえあれば、上官や同輩の前で、はっきりとものをいうという見事な態度を見せてから立派に最期を遂げるというのが、武士として何より大切なあり方なのである。》


武士道の神髄である死生観が語られる。
死において本分が現れるというのである。《討ち死の覚悟》の上に《武勇をふるい、手柄を立てて名誉を輝かす》ことができるのである。正気の武士の態度とは《はっきりとものをいうという見事な態度を見せてから立派に最期を遂げる》ものである。〈死生(至誠)一貫〉、〈平生(常)往生〉なのである。
『日本の道』によれば、仏教の往生思想を受容する以前に、日本的な"たましい”のよみがえり信仰があったことを見逃してはなるまい。それが仏教的な往生信仰との癒着をたやすくした要因でもあった。神道を生の宗教とし、仏教を死の宗教と簡単にわりきることはできない。原神道の信仰には、死の儀礼と祭祀が豊かであった。それが後に、権力に編成された"ミソギ”と"ハライ"の神道によって、死は一方的に"ケガレ"の世界に閉じこめられてしまったのである。
信仰が〈神祭〉から〈神道〉になり、死と生は聖別された。
あの世とこの世、死人と生人を区別した。
〈世〉については死後を、〈人〉については死前を聖としている。
この組み換えは、現実(俗)的な、都合のいい(つまり治世的)ものである。

武士は、死を聖として、聖俗(穢)の区別なく死生を一貫して聖とすることを心掛けた。
常に、〈一に止まった〉のである。