山本七平著『日本的革命の思想』


明恵の「あるべきようは」

《面白いことに明恵上人は決して無為を説かなかった。・・・『我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世にあるべきようにて有らんと申すなり。・・・』と云々』また『遺訓抄出』には『又云ふ、我は後世たすからむと云ふ者にあらず。ただ現世先ずあるべきようにてあらんと云う者也。云々』とあり、この言葉は座右の銘のように耐えず口にしたらしい。》

《元来この言葉は、僧に対して、それぞれの素質に応じた行をして解脱を求めるように、その行を「あるべきように」行えといった意味ではなかったかと思われるが、後に、一般人すべてに共通する規範として受け取られるようになった。高山寺所蔵の「伝記」の断簡に「人は阿留へきやうはといふ七文字を可持也、帝王は帝王の可有様、臣下は臣下の可有様、僧は僧の可有様、俗は俗の可有様、女は女の可有様なり。このあるべきようそむくゆえに一切あしき也」と記されているのは、このように受け取られた証拠であろう。最もこれは室町時代のものといわれる。》

《泰時はもちろんこの言葉を聞いたものと思われる。彼は明恵上人のこの言葉をどう受け取り、それが彼の施政、特に「貞永式目」の中にどのように反映しているであろうか。先ずこの「あるべきようは」を具体化すれば、細かいことまで「こうあるべきだ」と定めた一種の律法主義になる。事実、明恵上人にはそういった律儀な一面があり「聖教の上に数珠・手袋等の物、之を置くべからず。文机の下に聖教、之を置くべからず。口をもって筆をねぶるべからず。壇巾と仏具巾と簡別せしむべし・・・」といったような、学問所と持仏堂における細かい規則が定められている。これは当然で、「あるべきようは」は先ずそれを示さなければならない。それをしないで、いきなりしかるとか罰するとかいうことは、それこそ「師」の「あるべきようは」に背くであろう。だがそれはいわゆる律法主義であってはならず、・・・すなわち「ただ心のじっぽう(実法)に実あるふるまいは、おのずから戒法に符号すべきなり」で内的規範がそのまま外的規範であるようになるのが、「あるべきようは」であって、「心の実法に実ある」振る舞いが、ごく自然的な秩序となって、この戒法に一致するように心がけよ、である。従ってこれは見方を変えれば「あるべきよう」にしていれば、自然にこうなるということ、それも決して固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである。そして面白いことに泰時にとっては「法」も、こういったものなのである。》

法の形をとらぬ実法

《ではその武家・庶民が完全に「無法」かというと決してそうではなく、一種の「法の形式をとらぬ実法」があり、社会は律令格式によらずそれによって秩序を保ってきたことは否定できない。その意味では、「武家法と民間の慣習法」の存在を言外に主張していると見てよいであろう。簡単にいえばそれが自然的秩序であり、そのため逆に律令が浸透しなかったとも言える。そして人々は、不十分ながらその秩序の中に生きており、それを当然としているのに何かあって法廷に出れば「俄に法意をもって理非をかんがえ」となり、「人皆迷惑云々」という状態になる。そして泰時がこの状態に終止符を打とうということである。》


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