また武勇の道においても、生まれつきの勇士というものは、戦場に臨んでは、矢や鉄砲がどれほど激しかろうとも、ものともせず、忠と義の心になりきったわが身を的として、突き進んでいく。その勇ましい心は、おのずと形にあらわれ、その振る舞いの見事さはなんともいえぬものである。
しかしまた、人によっては、さても危ないことだ、これはどうしたらよかろうなどと、胸もとどろき、膝もいくらかは震える有様とは言いながら、皆が行くのに自分ひとりが行かぬとあっては、味方の人々の見る目もあり、後日、口も聞かれぬ始末になろうというので、やむなく決意をして、右の勇士とともに進むというような人もいるものである。これは、右に上げた生まれつきの勇士に比べては、はるかに劣っているように思えるけれども、このような人であっても、こうした場面に幾度となく出合い、場数を踏んでそれに慣れていくならば、やがては度胸も据わり生まれつきの勇士と比べても、さして劣ることのない武勇の誉れ高い天晴れの武士に、必ずやなれるのものなのである。
したがって、義を行うにも、勇を励むにも、まず恥を知るという以外に道はないのである。人に不義といわれようともいっこうに気にすることなくそれを重ね、腰抜けと笑われても、笑わば笑え、かまわないなどと臆病なまねを続けるようなものに対しては、なんとも教えるすべがない。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。》
いわゆる節義・節操を重んじたのである。節義節操に悖ることを恥じたのである。《節義・節操・悖る》などの、は現在では死語となった。確認しておこう。
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