第一には、親の気持ちが素直であって、心からその子を愛し、教育にも熱心で、その上人並み以上にすぐれた知行に添えて、武具、馬具、家財までも不足なく取りそれろえ、よい嫁までも迎えて、なに不自由なく家督を譲り渡してから隠居して引き籠った親などに対しては、その子が、通り一遍の孝行をしたぐらいでは、別に感心することもなく、ほめることとてもない。》
《これに対して、親の気持ちが素直ではなく、しかも、もうろくしてひがみっぽくなり、くだらぬ理屈ばかり言って、息子には何一つ譲ってやったわけでもないのに、生活に苦しむ息子に養われているのだから満足すればよいものを、その分別もなく、朝夕の飲み物、食物、衣類などについても、いろいろのねだり事ばかりいい、さらには他家の人に行き合えば、”倅が不幸者なので、この年になって思わぬ苦労、お察しのつかぬほどの目にあっております”などと言いふらして、わが子が面目を失うことも少しも構わない・・・。このような心得違いの親に対しても、親として尊敬し、取りにくい機嫌もとり、ただただ親が老衰したことを悲しんで、毛頭も粗末にせず、孝行の誠をつくすような者こそ、真の孝子ということができるのである。》
親子関係は、時代と共に変わる。今、封建時代の親子関係をそのまま求めることはできない。
上述のように大きく二通りの親子関係が考えられるが、親らしいことも不十分に、愚痴や不満を他人にこぼし、子供の面目を台無しにする親に対しても「孝」を尽くすのが「孝子」であるという。
少子高齢社会にあって、「自立」、「独立」、あるいは「親離れ」、「子離れ」が求められ、親子関係も相応に相応に変化している。
少子高齢社会にあって、「自立」、「独立」、あるいは「親離れ」、「子離れ」が求められ、親子関係も相応に相応に変化している。
しかし、「孝」ということについては変わるものであろうか。十分に尽くしているであろうか。
今日、「老害」という言葉は、「孝」という「年長者」に対する〈はたらき〉を離れ、「孝」をないがしろにして居る表徴ではないか。
世の中が豊かになったお陰で、自我欲求をふくらませ、他所の家庭と比較し、「親が至らない」と不平をもっていないだろうか。そうして「これだけで十分だと割り切ってしまう」子供が多くなれば、どうであろう。
特に、認知症等高齢者問題が浮上しているとき、親子関係の改善が社会的負担を軽くすることになる。
その為にも、「親らしい親」であると認識しているか、また認識されているか、自省してみよう。
今日、「老害」という言葉は、「孝」という「年長者」に対する〈はたらき〉を離れ、「孝」をないがしろにして居る表徴ではないか。
世の中が豊かになったお陰で、自我欲求をふくらませ、他所の家庭と比較し、「親が至らない」と不平をもっていないだろうか。そうして「これだけで十分だと割り切ってしまう」子供が多くなれば、どうであろう。
特に、認知症等高齢者問題が浮上しているとき、親子関係の改善が社会的負担を軽くすることになる。
その為にも、「親らしい親」であると認識しているか、また認識されているか、自省してみよう。
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