《主君を持って奉公している武士としては、同僚たちの身の上について悪事を見聞きしても、それを陰で噂をしないという心がけが大切である。なぜならば、自分にしても聖人賢人というわけでもないのだから、長い年月のうちには、何かのやりそこない、考え違いなども必ずあるということを前もって考えておくのである。
とりわけ、そのお家の家老、年寄りなどと呼ばれて侍たちの上に立つ人々について、「身分、俸禄共に重いのであるから、当然、人格、才能ともにそれ相応でなければならないのに、いっこうにそのようでない」などと批判することは、一間、理屈が通っているようだが、結局は理屈に合わぬことなのである。そのわけを述べよう。
天下を治められる将軍家のもとにおける老中などの人々は、その時代の数多くの大名たちの中から、先ずその人格によって選ばれたのであるから、その職にあるほどの人であれば、さして劣った人がいるわけはないのである。
しかしながら、一国、一郡を治める大名の家中においては、俸禄、家柄ともに家老職にふさわしいような侍は、多くの家臣の中にも数多くいるものではない。そこで、厳しく人を選ぶこともできかね、家柄と俸禄から見てふさわしい者の中から、先ずは人並みの者を選んで家老、年寄の列に加えておけば、次第に職務にも慣れ、年功も経て、後には役を勤めることもできるであろうとの、主君のご判断によって任命される場合もあるわけである。
そのような家老、年寄りの場合には、その身分、責任から見れば、いささか不足という人がいるのも、ありうることである。しかしながら、その不足の所を見たり聞いたりして問題にし、何かと批判して非難し、あざけるなどということは、はなはだ心得違いというべきである。
なぜならば、草木についてみても、年によってよく花が咲き、身を結ぶ年もあれば、花も実もよくできぬ年もある。人間についても同様で、賢い親の子に不出来なものが生まれ、そのまた子は親にまさる出来であるといったことは昔からのならいである。
主君の御目から見て、不足なところがお分かりにならぬわけではないのだが、その者の先祖代々の忠義、功績をお忘れにならず、その家柄に応じて重い役職についておかれたのであるから、御家来の身としては、まことにたのもしく、ありがたいことと思あわねばならない。
従って、もし、そうした家老、年寄りの口から、納得のいかない無理を言いかけられ、そのままにはしておかぬと思うときにも、言いたい放題に反論することはひかえて、適当に応答し、そのままにしておくのである。これが、もし主君のお言葉であったならば、どれほどのご無理があろうとも、一言の反論も許されまい。家老、年寄などについても元々主君のご名代の身分であり、その言葉は主君のおことばと同様の意味を持っている。ただ、それにしても、主君と家臣という相違はあるのだから、こちらの一応の考えを、できるだけ穏やかな言葉で述べることは結構であろう。但し、如何にこちらに道理があろうとも、家老、年寄などという重い身分の人たちに対して、ことばに角をたて、いいたい放題のことをいうなどということは、主君に対しても非常な無礼にあたるのだと判断するのが武士の道である。》完全なる人はいない。《俸禄、家柄ともに家老職にふさわしいような侍は、多くの家臣の中にも数多くいるものではない。》〈場〉に相応しい人が最初からいるわけではない。《その身分、責任から見れば、いささか不足という人がいるのも、ありうることである。》のだから、《無理を言いかけられ、そのままにはしておかぬと思うときにも、言いたい放題に反論することはひかえて、適当に応答し、》場を弁え、適当に対処すること、《判断するのが武士の道である。》という。
《なぜならば、草木についてみても、年によってよく花が咲き、身を結ぶ年もあれば、花も実もよくできぬ年もある。人間についても同様で、賢い親の子に不出来なものが生まれ、そのまた子は親にまさる出来であるといったことは昔からのならいである。》と、〈自然の摂理〉、〈長幼の序〉によって調えられた〈場〉が人を涵養すると考えるのである。
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