「武士は死に際が大切」の一項で「見苦しい死に様は一生の不覚」に続くものである。
《こうした点を考えるならば、平穏な時代にあっても、武士の身分にあるからには、同様の覚悟が必要である。老人はもちろんのこと、若年の者であっても、大病にかかって治療も功がなく、次第に悪化していくようであれば、前もってその覚悟を決め、この世にはなんの心残りもないようにしておきたい。もし大切な職責を持っていればもちろんのこと、たとえ軽い奉公の身であっても、もはや我が身もこれまでという様子になってきたならば、まだものをいえるうちに番頭、支配頭などの上司をお招きして対面し、「長年の間、殿様のご高恩を受けてきた身として、なんとしても一度はお役に立ちたいものと心がけては参りましたものの、このような重病にかかり、いろいろと養生もいたしましたが回復の見込みもない状態となってしまいました。殿様のお役に立つこともなく病死いたしますのは、誠に残念ではございますが、是非もございません。ただただ、これまでのご高恩をありがたく存じております。私が相果てましたならば、このことを御家老にまで申し上げてくださいますように」と、主君へのお礼の言葉を述べ、もし、私ごとの用事でもあれば、それも申し上げておくことが望ましい。
その上で、一家親族、また親しい友人などにも死後の暇乞いをするが、その折に子供をも呼び出し、「自分は、多年にわたって殿様のご厚恩をいただきながら病死してしまうのは武士として残念なことではあるが、太平の世であればこれもやむを得ないことである。その方たちは、年も若いことであり、自分の志を継いで、もしも危急のことが起これば必ずや殿様のお役にたとうとの覚悟を持って、常に忠節、忠功の心を奮い起こしつつ、ご奉公の道を油断なく勤めよ。もしも、こうして自分が最後に臨んで述べるところの遺言に反して、不忠義の振る舞いをすることがあれば、草葉の陰からも勘当すると心得よ」などと、厳しく遺言しておくことが武士としての道である。中国の聖人(曽子)の言葉にも“人のまさに死なんとするや、その言うことや善し”といわれているということである。》
覚悟とは、ことバンクによれば《悟りを開くこと。観念すること。あきらめること。》とある。《我々が覚悟すべきは「独り来り独り去りて、一(ひとり)として随う者なけん」(『無量寿経』)ということである。人間は本来一人ひとりが独立者でありながら、この世では絶対に独りでは生きられない。生かされて生きているのが人間である。》という。本来の姿を実現せよということである。
本来の場とは〈変〉のときにある。従って武士の死場は戦場にある。ここでは〈常〉の場における死に方を説いている。武士はその信を〈報恩忠孝〉においている。死に際においても至誠一貫することを説く。
だから曽子の言うように《その言うことや善し》となるのである。
本来の場とは〈変〉のときにある。従って武士の死場は戦場にある。ここでは〈常〉の場における死に方を説いている。武士はその信を〈報恩忠孝〉においている。死に際においても至誠一貫することを説く。
だから曽子の言うように《その言うことや善し》となるのである。
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