「学問、風流もときに大害」の一項で「歌道のこりすぎは軟弱のもと」に続くものである。
《次に茶の湯の道であるがこれは室町将軍の時代から武士のたしなみとされてきたものであるから、
自分の家においてはせぬまでも、人から茶席の招きを受け、身分高い人と同席する機会などもあり得ることである。そうした折りに、茶庭への通り方、茶室に入るときの作法、茶席での諸道具の見方、料理のいただき方、茶の飲み方など、いろいろな心得がいるものであるから、その道の師について、いくらかはその作法を知っておくことが望ましい。また茶道の精神というものは、世間の富貴栄華を離れて、簡素で静かな境地を重んじるものであるという。従って、繁華な町や城内に住んでいても、庭に木を植えて山林渓谷の風情をつくり、茶室といえば竹の垂木、皮付きの柱、萱葺きの軒、下地窓、粗いすだれ、簡素な木戸などのわびた有様を第一とし、さらに茶や会席料理の道具についても華麗なものをさけ、すべてについて俗世間を離れて清閑の境地を最高の宝とするのであるから、これは武士道の精神を養う助けともなるように思われる。そこで、たとえ小身の武士であっても、家の傍に茶をたてる場所をもうけ、新作の掛け軸、茶入れ、茶碗、土焼きのやかんなどの手軽な道具を使っての簡素な茶の湯を楽しむ程度ならば悪いことではない。
しかし、何事につけても、とかく軽いはずのものが深入りして重くなりやすいもので、次第に贅沢になってくると、たとえば茶釜にしても、人の持っている芦屋の釜を見て自分の土釜がいやになり、その他道具一切について、高価なものがほしくなる。さりとて小身の武士としては、ほしいと思うだけで、容易に手に入れることはできぬところから、掘り出し物をあさるようになってきて、目利きを習い、よい道具を安く手に入れる工夫を凝らす。あるいは、人の持つ道具の中にほしいものがあれば無理にねだる。このようになっては、何につけても自分が得をするように、損をせぬようにという計算ばかりが先に立って、まるで仲買か周旋をする商人同様の気風にまでなりさがって、武士の本道を見失い、大小を持つ価値のない人物になってしまうことは目に見えている。こうした風流人になってしまうよりは、いっそのこと茶道の心得などは少しもなく、濃茶とはどうして飲むものやらいっこうに知らぬという状態であっても結構で、それが武士道の障害となるものでは決してないのである。》
現実を見失わないよう、〈過分〉を慎んだのである。茶の湯について新渡戸の『武士道』は次のようにいう。
そのように位置づけられた茶道であっても、過ぎることを慎んだのである。
《質実剛健勤倹尚武》が貧しい時代の支配階級である武士に求められたものである。
今日的には「厳格な仕付け」は個性を殺すと批判されるが、放縦に過ぎると身を滅ぼすことになる。
韓国のセウォル号の沈没事故はこの事を如実に物語っている。
韓国のセウォル号の沈没事故はこの事を如実に物語っている。
『過積載』で復元力を失った船は海に沈み、若い命が失われた。
限界質量を越えた時、暴走は止まらなくなるのだ。〈過〉は「あやまち」とも訓ずるのである。
限界質量を越えた時、暴走は止まらなくなるのだ。〈過〉は「あやまち」とも訓ずるのである。
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