「武士は死に際が大切」の一項で「臨終には、まず主君にお礼を」に続くものである。
《右のようであってこそ、まことの武士の最後ということができるのだが、とうてい全快は難しい病気であるとの覚悟を決めることもなく、死の恐怖におびえて、自分の病気を人が軽く言えば喜び、重くいえばいやがり、あれやこれやと医者に苦情を言い、役にも立たぬ祈祷や願掛けなどをさせるうちに、病気はますます重くなるが、最後まで死に臨む覚悟がつかぬままに、何一つ言いおくこともできず、まるで犬猫の病死同様に、一生一度の臨終をし損なう者もいる。このような者は、この書の最初に述べておいた、常に死を心に覚悟するということをしていないのであり、仮に他人が死んだということを聞いても、縁起でもないと思うばかりで、自分だけはいつまでもこの世にいられるものと思い込み、人生を奥深くむさぼろうとする心がけであるから、こうした死に損ないの恥をさらすのだ。
太平の世において、重病におかされ、さまざまの治療をしても効果がなくて、次第に病状が切迫してきても、死の覚悟を決めることのできぬような卑怯な根性であっては、戦場に臨んだとき、なんの恨みもない敵を相手に、ただ忠義一途の心だけで戦い抜き、あっぱれな最期を遂げるなど、とうていできるものでない。それであるから、武士にあっては、畳の上で病死を遂げるにしても、死ということを一生一度の大事だというのである。
すでに述べたように、現在のような天下太平の世にあっては、主君に奉公する武士といっても、親の代にも自分の代にも、命をかけてのご奉公などということはただの一度も勤めることもなく、何十年にもわたって、過分の俸禄をいただいてはそれを費やしてきたのである。それ故、畳の上で病死を遂げる際には、子孫への遺言などのことは後回しとして、まず主君のご恩に対してお礼を申し上げるべきであるにもかかわらず、そうした配慮もなく、上司の人々を迎えても自分の子孫への家督相続のことばかりをひたすら頼み込んでいるなどは、まことに残念な次第であって、武士としての正道とはいえない。》
生は死によって完成するということである。その完成の機会を失うことを恥じたのである。
生に執着することを貪るという。そして一生一度の臨終という機会を損なうことなると誡める。
生に執着することが生きざまを壊すことになるというのだ。我々現代人に対する訓戒である。
その死に際が無様である武士は、武士の本分を弁えぬものであるから、戦場で役に立つはずもないのである。
〈滅私奉公〉が武士の生き方の基本におかれた。それは〈私利私欲〉で力をつけてきた武士が四民の最上位に位置することになった時、武士に求められたものは〈公利公徳〉に付くことであった。《ノブレスオブリージュ(高貴なるものの責任)》、武士の教養として必要とされたのである。
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