《およそ武士としての誇りを持つ者は、どのような場合にも、消極的な態度をとって相手にひけを取ることがないよう心掛けるべきである。
たとえば、人から無心を受け、援助を頼まれたりした時、これはできることか、できぬ事かを前もって繰り返し検討して判断を下し、協力はできないという結論の場合はともかく、もし、いやとは言えぬ事情で承知するというのならば、できるだけ気持よく引き受けるようにすれば、相手の側も誠に有り難いと感じるものである。ところが、承諾の返事がはっきりせず、何か不承不承のように思われてしまうと、相手側の感謝の気持ちも薄れ、「できることなら、この人のところへは無心をいいに行きたくはないが、ほかとの関係もあるからそうもできない。やれやれ残念なことになってしまった」などと、口惜しく残念に思わずにはいられないであろう。
このような者をさして「気性がいさぎよくない」とか、「きっぱりとしたところがない」とかいうが、結局は、その為に損の上に損を重ねるともいわれるのである。このところをよくよく考えるべきであろう。》
武士道は、「後れること」を嫌った。臆病として恥としたのである。そうした後れを生ずる一因が「消極的な態度」にある。
また武士道は、「吉凶を転ずる力」を期待した。それを〈勇〉と称したのである。
状況を転じて、生気、活気を養い、育むことを求められたのである。
「機転(気転)を利かす」力、それは積極的でなくては発揮できない。
その為に、求められたのが「潔さ」であった。未練があると機転が利かないのである。
「潔さ」で連想されるのは、「清廉潔白」である。
〈清廉〉とは、《心が清らかで私欲がないこと》とある。また〈潔白〉とは、《心や行いがきれいなこと。真っ白なこと》とある。「無欲無心」である様を云う。
今、世情を「東芝」問題が賑わしている。
東芝には、土光敏夫氏が居た。「行革の顔」として活躍された。「廉直の士」であったように思う。
どうしてこうなったのだろう。日本の企業の行く末が案じられている。
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