《また、兵法の学問を好んで学びさえすれば、知識と才能の二つが育っていくから、もともと賢い者はますます賢くなり、多少鈍い方の生まれつきの者も兵法を長年学んでいけば、その効果が出てきて、それほど間の抜けたことはいわぬ程度にはなれるのである。そこで、武士の学問としては、兵法以上のものはないと思われるのである。
しかしながら、兵法の修行をし損なって、悪い方に道を外してしまうと、上達すればするほど、自分の知恵を誇って周囲の人を見下し、役にも立たぬ高尚ぶった理屈ばかりをいって、修行未熟な若者に誤った知識や心がけを植え付ける。口には正しい道理のような身分不相応な言葉をはくが、心の中は至って貪欲で、どんなときにも自分の損得を計算するのが第一であるから、その人格も次第に悪くなっていき、しまいには、武士としての意気合いさえも失うようになってしまうものである。これはすべて、兵法の修行が中途半端であったことからくる失敗である。
どうせ兵法を学ぼうというのであれば、こうした中途に足を止めるのではなくて、なんとしても、その奥義を究めて、次に再び最初の「愚」に立ち返る、その境地に安住するような修行をすることが大切である。
ところが、お互い様に、兵法の中途に日を過ごし、奥義を学び損ねてはまごつき、自分ばかりでなく他人までをも指導し損なっているというのは、まことに残念なことだが、やむをえぬことではある。
ここでいう「愚に返る」というのは、まだ兵法を学んだことのない当時の心に返るという意味である。およそ、味噌の味噌くさいのと兵法者の兵法くさいのとは、鼻もちならぬものだと古来からいわれているところである。》
「生兵法は怪我の元」の諺と重なる内容である。
《兵法の学問を好んで学びさえすれば、知識と才能の二つが育っていく》、そうすれば誰でも《
間の抜けたことはいわぬ程度にはなれる》という。
しかし、その学びが《中途半端であった》場合、古来、《味噌の味噌くさいのと兵法者の兵法くさいのとは、鼻もちならぬもの》と云うように、他人に迷惑をかけ、本人も《意気合いさえも失うように》なるという。
だから《その奥義を究めて、次に再び最初の「愚」に立ち返る、その境地に安住するような修行をすることが大切である。》と説く。
今日、上述の「鼻もちならぬもの」がはびこっているように思える。それは愚に立ち返る事を忘れ、「功業」に勤しむ故ではないか。
司馬遼太郎『明治という国家』は「功業」と「大事」について、次のように謂っている。
大事ということと功業――手柄を立て後世に名を残したり、現世で栄達したりすること――とは全く別物です。大事と功業は、幕末の沸騰期には、奔走する人々によく使われていた言葉です。長州の思想家吉田松陰も――この人は幕末の動乱の初期に刑死するのですが――このことばをつかいました。小利口で打算的命を惜しもうとする弟子たちを皮肉って、"諸君は功業をなしたまえ、僕は大事をなすのだ"というわけで、西郷というのは、"大事"を担いで、空というもので歩いている古今類を見ない一大専門家でした。「功業」と「大事」の違いを理解することが肝要であろう。
※「意気合い」とは、意気を合わせるしぐさです。
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