2011年2月21日月曜日

日本の道9(「風雅のこころ」)

大伴家持
体制に批判的でありながら、体制内にとどまらざるを得なかった。官僚家持の矛盾の表明が、一見矛盾するかに見える彼の"ますらおぶり”と"出家修道"への願いとの交錯となって歌の世界に結晶した。家持もまた時代の人であった。大丈夫たらんとしてその実は大丈夫たり得ない心のゆれが、家持の歌の歌心になっている。そこにこそ万葉における"ますらおぶり"の本質があると思われてならぬ。
道を求める心、それは安心立命の境地においてはかえって起こらぬ。むしろ苦悩のなかにこそ、「修道を欲する」こころが渦巻くのである。
和泉式部
彼女の歌集を読むと、近代を思わせる情熱的な、又肉感的なものに注意を引かれがちなのだが、実は基調となっているのはむしろ人の心のたよりなさ、恋のはかなさを歌った方である。師営の死を悼む百二十四首の哀調が、彼女の本領であると見てよい。師営との恋の成立からその邸に迎えられるまでの事情を綴った日記にも、彼女の恋のあり方がよくうかがえる。正妃への気兼ねや世間への気遣いでためらいながら、親王の心ざしを無にするに忍びないと、その意向のままに邸に移るあたりがそれである。 


西行
西行が遁世する以前の名は、佐藤義清(のりきよ)。台記によれば”重代の勇士”であった。佐右衛門府の藤原氏の意味で、直接の祖はムカデ退治で有名な藤原秀郷である。
義清の遁世は、記録が残っていて、保延六年、(一一四〇)十月十五日である。生まれたのが元永元年(一一一八)だから、二十二歳のことである。この年若いのに興味がある。一つの時代の新しい変動期は、同時に先行する古い時代の複雑な維持への動きと絡まっている。義清は、新しい時代への政治的な動きに参加するには、あまりにも朝廷的な武士の家系に属した。義清は新しい武士の時代への変動に駆けるよりは、古い分化、和歌の形式に、旧来の貴族の心情とは別のものの、新しい時代の人間――直接には武士――の詠歎を盛ることに、自分を賭けたのである。それはつまり武士であることをやめるという形になった。
西行は、いち早く現実の時の流れ、貴族から武士の世の中へ変わる、あるいは変える動きからは、身をそらした。そして、このそらしたことが、かえって西行をして、一個独立の時の流れとは別の、個性的な道をたどり、開いていく者たらしめたのである。西行にまつわる道の者的イメージはここからくる。
時代の進歩的方向に自己を同化させる道は、それなりに、歴史の隘路を切り開く。頼朝や、仲清や能清は、そういう人間であった。しかし、こういう同化(自己が自己であること)をこわす場合もある。古い支配体制への同化も拒否し、新しい時代を開く運動への同化も拒否した遁世者西行は、そのことによって、自己が自己である道を切り開いたのである。
歴史の隘路を乗り越えるのは、政治的な変革の道だけではない。それとあわせて、既に築かれた古い文化を読みかえ、書きかえて、新しい内容をもる変革も必要だし、そういう変動の仲で新しい時代の人間像を打ち出していく道も、必要なのである。


源実朝
西行は出自の武士をも捨てることで、貴族の和歌を、自己漂白の歌に変えることができた。実朝は、武士の頂点、将軍の座にいて、その空しさをうめるべく貴族の和歌を学び、それでいて、貴族歌を越える個性をつくるだした。あり様の対照的な二人がつくり出した、個性的漂白に、私は打たれる。個性的漂白を風雅のこころと呼べば、風雅とは、権力正統から身を引きはがすことと、分かちがたく結んでいるように見える。はるかの後生、やはり武士の出自を捨てて”風雅の乞食”となった芭蕉が、西行、実朝を並べ評価したのも、偶然ではない。


千利休
利休は、信長のあと秀吉に仕え、秀吉の権力者らしい黄金趣味の茶に対して、彼の「茶の湯の真味は草庵にあり」という主張を貫くことに悩み抜いた。
利休の歩んだ道は、堺がつくり上げたように思われる。それは利休の茶の中に、庶民的な自由な感覚として伝えられた。「茶の湯の道とて他にはなく、ただ湯をわかし茶を点てて飲むばかり」と言い切ったのも茶の湯に加えられるさまざまな規制に対して、堺の町人らしい感覚を持って積極的に主張したものであった。


芭蕉
みちのくは、もと道奥と書いた。ここでの道は、五機七道という律令制下の国を意味しているから、道奥とは、国の外、大和朝廷の国の外という意味である。これが道奥の国となったとき、道奥は大和朝廷の国の中に入ったのである。
文化という者は、常に同一化を目指す。一つの文化は、その中心から、それがない地方へ伝播していくこうして文化の同質化が進むが、そうなると、文化はやや停滞を免れなくなる。文化は他方で、常に異質なもの、他者との接触や対決による刺激を、必要とするのである。
私は芭蕉を考えるとき、西行と切り離して理解することができない。あるいは別の言い方をすれば、芭蕉その人にだけ興味があるのではなく、芭蕉と西行との五世紀を隔てた精神のコミュニケーションに、興味がある。
人間の歴史においては、しばしば、政治的な変動が重視される。もとより現実の生活に響きが大きいのは、政治史上の出来事である。
けれども政治史とは関わりのない、あるいはあらわには政治との関わりをたった人間の営為の中に、政治史の変動では捉えきれぬ人間の面目が現れてくるのを、忘れることはできない。


与謝野晶子
明治三十四年、時に晶子は数えで二十四歳、近代日本の青春とたぐいまれな個性の青春とが重なり合った、えがたい時代の産物であった。
近代日本は、旧民法について穂積八束らがいっているように、平民の慣習は慣習でも何でもないとの立場に立って、もっぱら武士社会の慣習を国家の伝統とし、国民の道であるとするところから出発した。国(藩)のため主君のためには、家も妻子も捨てて武器を取らねばならぬのである。武士ので存在価値はそのことだけにあったのである。しかし平民には、そうした伝統はない。町人にとって大切なのは家業であり、日常生活であって、それ以外のものではなかった。しかもその家業は、農家が村の共同体に縛られているほど、外からの規制を受けてもいなかった。
封建意識のままで近代人になることはできない。町人の家業大切だけでは近代国民の資格には欠けるところがあろう。桂月の非難の中にはその点が含まれてもいた。しかし問題はそれだけではない。同じく近代国家を作るにも、武士の伝統中心にではなく、町人の慣習中心に作り上げる道あったはずである。

0 件のコメント:

コメントを投稿