2011年2月21日月曜日

日本の道10(「町人の道」)

鳥居宗室
安土桃山の変革期を生き抜いた博多の豪商である。その私の五年前の慶長十五年(1610)に、子孫の戒めとした十七条からなる遺言状がある。
まず貞心、律儀と慇懃すなわち人間としての徳目を挙げ、五十歳になるまでは後生ねがいなどの信仰は無用であるとし、次いで四十歳頃までの心得として、賭け事、碁、将棋、謡い、舞、茶の湯、物見遊山などは一切無用で、商売を専らとすべきこと、三味線、小唄好き、大酒飲みの友人を避けること、親類は勿論他人への飲食の振る舞いを慎み、衣装好み、道具集めなどの奢侈を禁じ、ひたすら節約をむねとし、朝夕は主人が自ら竈の火をたき、買い物はすべて値切って買うこと、特に唐、南蛮などの外国貿易への危険な投機を避けること、ただし殿様である黒田家やその家老などへは、しばしば付け届けをせよ・・・
その遺訓の最後に宗室はこういっている。――いくさの名人はまず負けるときの用心と手立てをよく考えて弓矢をとるものである。たとえ破れても国を失わず人も損なわない。思案のない武士はその分別がなく、人の国を取ることばかり考えているから、いったん破れると国を失い身もあい果てるものである。「徒然草」に双六の上手は勝とうと思って打たず、負けまいと思って打つとある。しょうばいもそれとおなじである・・・と。日露戦争と第二次大戦の軍首脳部の違いを思わせるような箴言だが、それはさておき、商いの道も、戦いと同様に、まず負けないこと、損をしないことを心がけることが第一だと宗室はいうのである。
その先には、厳しい身分制の確立と鎖国があった。宗室はそこまで見通していたのかもしれない。大名たちとの取引と情報の場として利用していた茶の湯を、宗室は子孫に禁止するのである。これまで中世商人の利殖の最大の源泉は利貸しと外国貿易であった。これからは利貸しと内国商業になる。宗室はその切り替えをいち早く先取りしたともいえるかもしれない。しかし流通ルートは異なっても、勤倹と蓄積が商いの道の基本原則であることには変わりがない。そのためには宗室のいうごとく「いずれの道にも、我と心労候わずば、所帯は成まじく候事」であった。


本阿弥光悦
風流人としての光悦は、自らその好むままの道を歩んでいた。しかしその道には、明らかに一本の筋があった。それは彼に私淑した灰屋紹益が、その著「にぎはひ草」の中に書いている。すなわち「光悦はよをわたるすべ、一生さらに知らず」という生き方である。「よをわたるすべ」とは、封建社会の現実を肯定して、権力に順応していく生き方である。この安易な方法を、はっきり拒否した。さらに「一生涯へつらい候事、至って嫌い」といいきった。


近松門左衛門
幕藩体制の整った中で、武士階級を逸脱した近松が、市井にくぐって全的に引き出した義理と人情の相克は、町人の時代閉塞の世界を、その内部から凝視し、告発する世界観的な把握であった。この世界観的な高さを、現実世界の単なる負け犬でしかない任侠渡世道の肩肘張った虚勢の合理化につかわれた、やくざ的な義理・人情にまで、低落させることはできない。近松の悲劇における義理・人情の相克を見たものにとって、後代幕末の任侠の徒がもったやくざ的な義理・人情など、まったくの頽廃としか、いいようはない。


十返舎一九
これら膝栗毛より後の時代にできたものも多い。私はこれを行動文化と呼んでいる。一人であれ、集団であれ、歩いていくのである。歩いてそれに参加するのである。私の自由意志で、勝手に振る舞う態度で参加する。野次・北はそういう庶民である。庶民がそのような行動をすることができるようになったのである。東海道も木曾街道も、江戸近郊の道々もすべて、庶民にも開放されたのである。


為永春水
春水は、近代日本の尾崎紅葉や永井荷風へ発展する文学の源流という見方もあり、いろいろな評価がある。しかし私はこの作家を、封建社会における女性の規範であった女大学の世界から彼女たちを解放したという所に、最も大きな功績があったと思う。


任侠の群れ
江戸時代の前期、幕藩体制が次第に固められ、士農工商という身分制の締め付けが強まるにつれ、この身分からはみ出た、またはみ出された群落は、かぶき者、伊達者、男達、たて衆などと呼ばれた。伊達者が近代になったダンディーを意味する言葉として残されたように、そこには弱者特有の自己顕示の威風を伴った。「だて」とは、身分的征服の枠外の自由な異装であった。かぶき者の原義が「傾く」つまり異装であったことは、そのことをよく物語るものである。
町奴は、身分制抑圧に対する町人の不満と、町人の経済的上昇ムードの上に奔放なる振る舞いをした。彼らの主観的意図はともかく、客観的には、旗本奴に対応するという形で公義の掟にレジスタンスを示した点で、消極的ながら庶民の声を代弁し、密かに庶民の支持を得たのである。
だが、これらの裏街道の不文律が、後世に庶民たちから任侠道などと呼ばれるようなものとして喧伝されるようになった江戸中期に遊興の徒の社会的堕落が本格的に始まったことは、歴史の皮肉というべきものであった。


岩崎弥太郎
岩崎にあっては、士魂と商才とは矛盾しなかった。商才といっても、結局は判断力、決断力であって、商売に関して判断力を働かせることである。問題は、商売に関して判断力決断力を働かせることに意義を認めるかどうかということに関わっている。武士に商才がなかったのは、軽蔑していたからであり、商才を軽蔑していたのは、商売を軽蔑していたからである。


渋沢栄一
岩崎弥太郎が戦国武士の魂を実業の中に持ち込んだのに対して、渋沢栄一は、武士道徳の儒教精神を実業の中に持ち込んだ。
下世話に、「商売と屏風はまがらなければたたぬ」といわれた実業界に入るに当たって、渋沢は、自分は「論語」の教えに従って商工業に従事し、知行合一主義を実行する決心である、徒断言した。それは渋沢の「論語ソロバン主義」といわれたもので、彼の終生の心情であった。
彼によれば、富貴は望ましい者なのである。そして、それは、必ずしも道と矛盾するものではないのである。もともと、文明とは、人間が、それぞれに創意、工夫、発明につとめ、自分の富だけでなく、社会全体の富を高めて、封建社会の停滞性を打ち破ることであった。従って、渋沢の解釈によれば、「論語」のこの言葉は、道に適わない仕方で富貴を求めてはならないという消極的な意味の裏に、富貴は道に適った方法で求めよという積極的な意味を含んでいたのである。
渋沢は、近代経済における自由競争は、あくまでも「君子の争い」であるべきであると考えた。同じく自由競争であっても、岩崎弥太郎の場合は戦争であった。渋沢は「商戦」という言葉を嫌った。渋沢からすれば、競争は、相手を倒すことではなく、人々が、互いに能力を競い合うことであった。渋沢は「論語」にいうとおり、人の道は、結局、「忠恕」――まごころと思いやり――の一語に尽きると考えていたのである。
渋沢は、道徳を離れた商売はあるべきでなく、またあり得ないという信念を持って行動した。そして、このことが、彼の社会的信用を高めた。

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