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芥川が忠臣・賊臣という選別に内蔵助の内面とは無縁の、いわばメディア市場における消費的な「代価」の交換を嗅ぎ付けていたといえば、野上は、唯物的な金銭の力が結局は忠義という観念さえ乗り越えて行くという、これまた鋭い見通しをつけていたといえよう。この芥川と野上のおける、「代価」あるいは「御用金」の観察を、人物の内面と心理の解剖から解き放して、歴史的・階級的な観点による批評に変換したところに、昭和という時代における「忠臣蔵」論の特徴が見えてくる。
それを代表するのは、たとえば羽仁五郎の「大石良雄の場合」(「新興科学の旗のもとに」昭四・三)であり、また長谷江川如是閑の「唯物史観赤穂義士」(「中央公論」昭六・五)である。
羽仁は、赤穂事件について、封建貴族が生産の搾取と所有の争奪という基盤を失い、朝廷尊崇と百姓慰撫とが唯一の根拠となったときに起こった、いわば「変態的・観念的」事件であると総括する。浅野家は、そういう歴史的必然の中で、大名取りつぶしの「囮にかかった者」であり、またその家老大石良雄も、復讐のために浪士を「団結」させたのはいいとして、しかし封建貴族的な価値のほかには「一つの希望」も見いだしえず、「解放的改革的意識の酵母」となることもできなかったというのである。つまり、彼らの決起とは、封建貴族団の「最後のあだばな」として、「最も観念的」で、そして「華やか」で、しかし「束の間」的な行動に過ぎなかった。従って、幕府や民衆が与えた「忠臣義士」という呼称は、実はそういう歴史的な現実が彼らに与えた「同情」だったのである。この事件が「文化的存在」として「伝承の中に観念化され美談化」される限り、封建貴族階級の性質は保存され、赤穂義挙録はいくたびも繰り返されて、小市民を感激させ続けるだろう、というのが羽仁の結論であった。
羽仁の言説が、その歴史的な必然論から、一貫して冷めた論調を保持していたのに対し、如是閑のそれには、事件の本質について、も少し突っ込んだ理解をしようとする姿勢が見られる。それというのも、如是閑の論は、復讐に加わりながら結局生き延びた寺坂吉右衛門と、裏切り者にされた大野九郎兵衛が偶然に出会い、「昔物語」に興じる中で、寺坂が大野の「唯物史観」についての講義を聞くというスタイルになっているからでもある。
大野の講義は大星由良之助が芝居の中で「主の仇」など「釣り合わぬ」といったセリフの解説から始まっている。それは敵を欺く計略であったと反駁する寺坂に対して大野は、由良之助のセリフには、封建主従とは契約関係であるという「本音」が隠されており、にもかかわらずその「本音」が「歴史」に押されて、算盤にあわない義挙となったと説くのである。そして、その「歴史」とは、世界は初期資本主義社会へと押し流されている中にあって、徳川政府はむしろ封建社会を旧形態の側に引きとめ、工業経済への転換や商人による富の蓄積を防ぎ、ただ遺産としての金銀だけを、自身を含む大名家の相続で経営するという政策をとったことだという。その上で、そこに温存された封建的隷属関係を、「贋造血縁関係」にまで成長させた過程が、「観念と実践との結合」となったところに赤穂の義挙があったというのである。
ここに、伝統的な隷属関係に生きてきた人間の原始的な感情が、封建的なヒューマニティとなって「臍の辺り」にへばりつき、十二月十四日が彼らのメーデーとなった。また、町人階級は、封建関係を常々外部から暴露的に見る傾きがあるから、武士の「不義挙」を「義挙」に対照させようとして、あの歌舞伎役者のグロテスクな扮装を、すなわち劇化された「忠臣蔵」の方を、「赤穂事件」より持て囃すということにもなった。
振り返っていえば、芥川の捉えた内蔵助は、この復讐が「形式」の点でも「道徳」の上でも、「満足」に近いといっていた。また野上も「相続」された軍資金という拘束性の中で、武士としての「正しさ」を発揮するとすれば、それは仇討ち以外にはないという洞察を語らせていた。そういう二人の観点を、羽仁と長谷川の言説で裏読みすれば、ある「封建貴族」が、既に「無効」となった「契約関係」に準じつつ、「原始的な感情」による事件を引き起こしたということにもなるだろう。そして、この経済的な裏読みが、正面から取りざたされるのは、あの高度経済成長期に続々刊行された忠臣蔵ものであったことは、いうまでもなかろう。
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