柳生宗矩
柳生宗矩は宮本武蔵より十三最年長であり、武蔵の死後一年して亡くなっている。いわば同時代の剣客ではあるが、正確には宗矩の方が一世代早いといわなければならない。武蔵を座標軸にとってみると、彼の誕生時には石舟斎は五十九歳塚原卜伝は死後十五年、上泉伊勢ノ上は亡くなって七年たつことになる。荒木又右衛門は武蔵の十六歳の時に生まれる計算だ。このような見取り図から想定されるのは、宗矩が武蔵以上に動乱と太平の時代の相違を体験していたということである。武蔵は剣の理念化につとめたが、宗矩は政治の中の剣のあり方を極めた人物といえる。
政治の中で剣を志した柳生が、結局は政治の中に埋没してしまう結果となった。
宗矩は父の開いた柳生流の剣技、特にその哲学的な認識を敷衍し、体制中政治の剣へと推し進めた。彼は死に臨んで、一万二千五百石の領土の返還を申し出ている。この行動を、与えられた封土を世襲するという考えを拒み、徳川家へ戻すことによって、剣による技術者としてのぎりぎりの誇りを示そうとしたものだと理解するのは、私の深読みであろうか。
山本常朝
「葉隠」で常朝は、近世的な秩序ができあがる前の戦国風の武士の「死」と「狂」をほめたたえ、それにひきかえての今の武士たちのふぬけぶりを罵倒する。しかし、その主張は、彼自身が「死に狂い」で死ぬべき時に死ななかったという一点で、いかに古風をあこがれていようと、現体制が法を以て押しつけてくれば、いくら不本意でもそれに従わなければならないということを教える羽目に陥ってしまった。「あわれ昔ならば」の一語が持つ意味は大きい。この一語によって常朝は、実際の行動では現在の秩序に従いながら、頭の中でだけいにしえの武士の風を追うという分裂をさらけ出してしまっている。そうして、自分の行動によってではなく、頭の中でだけいにしえの武士道を追い求めるから、過去の価値への傾倒はますます大きく、ますます純粋になる。論理の完全性、てっっていせいも、おそらくはそのような関係の中で得られるのである。
常朝は死ぬべきところを生き続けたからこそ、自分も死ぬべきだったという結論を導き出すような武士道論を生み出し得たのであって、もしその主張を直感的に先取りして腹を切ってしまっていれば、そのような純粋の武士道論は生まれはしなかったろう。行為をしなかったからこそ、その行為をすべきだという理論をつくりえたのである。ひょっとすると、思想とか哲学とかいうものは、おおむねそのような本質を持つのかもしれない。武士道に限らず「道」という得体の知れない名前のものはことにそうだろう。
武士道を受け継ぐのは絶対にお断りであるけれども、常朝を悩ました行為と思想との関係、自分自身の行為を欠いたがゆえに自己の思想が「狂」というほどの純粋さを求めてしまうという関係は、そういう問題として冷静に受け継いでみるのに値するのでは亡かろうか。
大塩平八郎
平八郎には倒幕などという大それた考えはさらになく、むしろ父祖以来およそ二百年、二百石取りの武士として安穏な生活を保証してくれた徳川幕藩体制に、心から感謝と報恩の念を抱いていたのである。
それではそのような平八郎が、どうして武装蜂起という革命的な道を選んだのであろうか。平八郎はかねがね各地に頻発する百姓一揆にひしひしと幕藩体制の危機を感じていた。そしてその危機感は飢饉による市中の惨状を眼前にするにおよんで最高潮に達したのである。このままで幕府は崩壊する。挙兵はもとより非常手段ではあるが、そうすることで従前の政治のあり方を変え、、幕府の崩壊を食い止めることができるならば、非常手段も又正しい”道”である。しかも陽明学の最大の特色の一つは知行合一を標榜する高度の実践性にあった。だから平八郎の挙兵は彼がその学問に徹する限り、当然の帰結というべきものであった。
0 件のコメント:
コメントを投稿