2011年2月18日金曜日

日本の道5(「町人道の確立」)

元禄の生きがい論
百科事典の売れ行きは大衆社会のバロメーターといってよい。そうした現象を過去に求めるなら、元禄時代がまさに最初の大衆社会の出現期であったと思う。
利休が古聖人に祭り上げられた背景に、元禄三年が天正十九年秀吉に殺された利休の百回忌に当たっていたことが、大いに関係したようだ。
茶の湯のことを「茶道」といういい方はこれ以前から用いられてはいたが、その中に封建倫理・道徳が込められるようになるのは、元禄時代のことであった。
つまり芸の道における元禄時代は、それの大衆への広範な普及の一方、それを否定して精神主義が強調されるという、二面性を有していた時代であったといえよう。

西鶴の目
町人が最高権威としての天守閣に到達するためには、当然何段階かの空間を通過せねばならなかった。しかも、しばしばこの空間群は、外に向かって閉ざされていたのである。曲折・閉鎖・断絶こそが、封建都市居住者としての町人の道であった。
京都・大阪、そしてやや雰囲気を異にしながらも江戸、この三都市の町人たちは、周知のごとく「天下の町人」と称し、将軍直属を誇ったが、彼らの意識の構造はそのままに、天領都市の、単一的・同質的・開放的空間構造に対応するものであった。
ここに道がある。この道こそは連続し、空間を単一化する。この道こそは町人生活を、はたまた天下の流通を支える動脈である。目的への到達のために、まず迂回し、まず足踏みせねばならなかった多くの封建諸都市の町人たちと、天下の町人たちとの意識は、かくして截然と分離するだろう。
しかし、天下の町人が、如何にしても町人以外の何ものでもないという認識を迫られる日がやがて訪れる。いやそれよりも、封建体制下において町人とは何かという根源的な、苦い発問を自らに課し、町人階級の歴史的・普遍的認識に到達せねばならぬ日は、そう遠くなかったその日もなお道は、直として四通八達していたのであるが・・・。

町人意識
豊臣秀吉と交わった一代政商島井宗室の遺訓は、早い時期の町人意識の書として有名であるが、それを武家処世訓、例えば「朝倉宗滴話記」などと比較するとき、本質的な差異は認めがたい。「遺訓」が十七条であるのも、太子憲法にならうものであるとともに「朝倉敏景十七箇条」が投影しているとも考えられるだろう。
富の問題にしても「春鑑証」や「翁問答」などは多く肯定的であり、「清正公記」などでは、貧窮を「曲が事」として責めているのである。
富への追求能力を武士たちは失い、次いで富そのものを失ってしまった。武士道のストイシズムの多くはここから説明されるのであって、可なり副次的な意味しか持たないだろう。
十七世紀、西鶴の描いた町人たちこそ、十六世紀の武士たちの生き方の、最も正統的な後継者であったのだ。

義理と一分
概括的にいえば、西鶴の町人たちには、義理の観念は、なお潜在的である。それは町人生活に外在する、異質の理念であり、しかも武家社会においてさえ、原理的というよりは情的に機能するものであった。それに対し、近松の町人たちの行為はすべて義理に収斂するようである。かつて倫理的な裏打ちを伴わなかった行為すらが、倫理――義理により裏打ちされねばならぬことは、共同体モラルの成熟を意味するものであるか、それとも共同体そのものの変質・頽廃を意味するものであるのか。その両者とも正しいであろう。元禄から享保へ、そこでは封建体制そのものが、大きく揺れ動いた。その変動のプロセスにおいて、意識面における倫理的締め付けとして義理が町人化したということは充分考えられうだろう。
義理に追い詰められた小町人たちの最後の拠り所は何か。それはこの情念としての「一分」であった。それはもはや、倫理や原理ではなく、家や職能、その他もろもろの他者とは何の関わりもない。それらすべてに対決する一個の人間の孤絶における信念であり、意地である。・・・しかし一分においては全く純粋に「古」のみが問題である。・・・町人の義理に対する小町人の一分として図式化することには、幾分の危険性を含みながら正統さが認められるだろう。義理における挫折よりも一分の挫折はさらに絶望的である。
一分――それはもはや町人生活の規範としての義理からこぼれ落ちた近松の主人公たちの、最も激しく最も切実な心情告白であった。軽蔑され、迫害され、死にまで追い詰められた小町人たちの、傷だらけの自我であった。


石門心学
享保改革路線が、それまでかつがつ覆われていた町人対武士の関係、すなわち貨幣経済対自然経済の関係における諸矛盾をあらわにさせたとき、その生々しい現実の上に、否応なしに立った町人が、自己の位相への認識を検証したものが石門心学に他ならない。梅巖はそれら諸矛盾の解決に一筋の道を想定する。すなわち、人間の本質を起時の目、生地の耳でとらえ、その根源的究明によって、人間が人間となりうる道が見出されるとするのである。梅巖の描く理想像は、かくして全く日常的な相貌となる。彼は倹約をその思想の究極原理とするが、その倹約とは、無私、無心、生まれながらの正直心と相即の関係にあるものであった。

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