2011年2月21日月曜日

日本の道_12(「道ひとすじ」)

乃木希典
乃木希典の頭の中では、部門と装でない一般国民とが截然と区別されていた。専門の武人は、生命を国家に預けてしまうことによって高給を与えられ、支配階級の一員に加えられている。国家の危急にあたってはちゅうちょなくその生命をささげなければならない。一般国民はそうでない。支配階級の側に席が用意されていないかわりに、支配体制のために死をもって仕えることも要求されていない。乃木は、明治の現実を、そのように、封建時代の武士と庶民の関係からあまり遠くは隔たっていないところでとらえていたはずである。乃木の武士道とはそのようなものだ。武士のみが常に死を覚悟し命がけで主君に仕えるのだというように、徳川時代に観念だけで極度に純粋化されていた武士道を乃木はそのまま受け継ぎ明治国家に当てはめようとしていた。
徴兵制によって、一般国民がほとんど無権利のままで兵役に組み込まれ、事変が起これば死地に立たされることになったのである。乃木が武士道の担い手であるべきだと考えている職業軍人は、むしろ、その庶民兵の生命をいかに有効に使うかという軍事技術者に転化してしまった。

乃木にとって、日露戦争の旅順攻撃は、最大の悲劇の場であった。乃木は、究極のところ国家に提供できるものとして、自分自身の死しかもっていないのだが、軍司令官として、彼の武士道よりすれば生命を求められていないはずの庶民兵たちを、大量に死に追いやらねばならなかったのである。死ぬべき自分は死ねず、死ぬべきでない庶民兵を大量に殺す。乃木の武士道を実としてこの関係をタラ得てみれば、彼の味わった苦しみは常人の想像をはるかに越えるものがあったろう。
殉死をめぐる議論
乃木の殉死をめぐる議論には、大まかに分けて二つの系列がある。一つは、白樺派の作家たちは、また芥川龍之介の「将軍」などに代表されるような、乃木に対する侮蔑と殉死という行為への嫌悪感とを示したものである。近くは、世評高い司馬遼太郎氏の「殉死」も、ちょっと強引な分類で申し訳ない気がするけれども、やはりこの系列に入ると考えてよかろう。
もう一つは、当時では森鴎外、少し遅れて昭和十年代の日本浪漫派の人々に見られたような、乃木を「純粋痛烈な理想家」だととらえる立場である。


内村鑑三
鑑三の重さとは、すなわち、この無限の思想の道を一筋に歩む者の重さだったのである。


河上肇
河上にとっては「道」はすべて命がけの飛躍であった。大観するならば第一は「彼が二十七歳の時」の体験と持ち物一切を放擲して身を「無我苑」に投じたこと。第二はそこに安住の世界を求め得ないで経済学研究に没頭したこと。第三はその経済学はブルジョア経済学であったことよりして、これを踏み越えてマルクス主義経済学への飛躍を遂げたこと、第四は実践としての地下運動・党員活動・獄中における求道生活。第五は一切を通しての宗教的心理と科学的心理との弁証法的統一を自覚したこと。いうなれば彼の人道主義は多くの豊かな肉付けによって非転向マルクス主義者として将来への示唆多いみずからを作り上げたこと。

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