2011年2月25日金曜日

「腹を切ること」(司馬遼太郎)より

自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治以前まで受け継がれてきたごく特殊な思想の一つであった。希典はその系統の末端にいた。いわゆる陽明学派というものであり、江戸幕府はこれを危険思想とし、それを医学とし、学ぶことを喜ばなかった。この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、時に主観をもあわせつつ物事を合理的に格物致知してゆこうという立場のものではない。陽明学派にあっては己が是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのように己が知った以上、精神に火を点じなければならず、行動を起こさねばならず、行動を起こすことによって思想は完結するのである。行動が思想の属性か思想が行動の属性かは別として行動を伴わぬ思想というものを極度に卑しめるものであった。
いわば秩序の支配者にとっては恐るべき思想であり、学問をいうよりも宗教であることのほうがややちかい。
陽明学を信奉すれば「懦夫をも志を立てしめ、頑夫をも潔からしめ、人格に生気を帯び、行動に凜気を帯びしめる」と当時いわれたが、それだけに危険であった。この学派にあっては動機の至純さを尊び、結果の正否を問題にしない。飢民を見れば惻隠の情を起こす。そこまでが朱子学的世界における仁である。陽明学にあっては惻隠の情を起こせば直ちに行動し、それを救済しなければならない。救済が困難であってもそれをしなければ思想は完結せず、最後には身を滅ぼすことによってて仁と義をなし、おのれの美をなすというのがこの思想であった。・・・この学問にあっては事の成否を問うことを卑しむ。事が成功するかどうかを考え、成功するならやるというような考え方を不純として排斥するのであり、この思想に忠実である限り、大塩平八郎は何人も出るであろう。
乃木希典のこの道統は、これの縁族である吉田松陰と玉木文之進から出ているという意味で、長州における陽明風山鹿派のもっとも正統な系譜を継いでいるであろう。
この陽明学をたれに施してもことごとく右のようになるというのではなく、もともと性格として陽明学的体質というのがあるのであろう。そういう性格者の中に陽明学思想が入ったとき、その性格に正義が与えられ、倫理的に琢磨され、その行動に論理が与えらえるのに違いない。あたかも十七世紀の英国キリスト教会に起こったフレンド派の如く、その会派に属する者のことごとくが身を震わす者になるのではなく、選ばれた気質の者だけが主の御言に戦慄し、絶対平和のために挺身し、常識外の純粋行動をとるのと酷似していた。


帝にとって鉄舟がかけがえがないというのは、鉄舟が帝にとって郎党であることであった。資本主義体制下の立憲君主国の君主である帝は、近代憲法上の法制的存在であり、自然人としての人間である部分を少なく生きている。帝が率いている者は臣僚であり、官僚として存在し、彼らも又法制的存在であり、帝の前に出たときは自然人ではない。彼らに対して帝は家来であるという人間的親密さを持つことができないのである。中世の頃、草深い関東の野で鎌倉武士たちがつれて歩いたあの郎党・郎従・家の子といわれる存在に近いものが山岡鉄舟であり、それであればこそ、帝は鎌倉武士がその郎等を愛したように鉄舟を愛した。
一種の錯覚がなければならない。狂言における太郎冠者がそのあるじの大名に対するように、あるいは「義経記」の武蔵坊弁慶がその主人の義経に対するように、自分という自然人の自然人としての主人が帝であると思わねばならなかった。他の臣僚のように、帝を近代国家の法制的存在として尊崇するのではなく、帝が草深い田舎の土豪であるような、自分がその土豪の家の子であるような、そういう錯覚を持たねばならなかった。鉄舟にはそれがあった。希典の成熟時代は鉄舟の頃よりも国家も皇室もはるかに整備され、帝の存在はいよいよ象徴化されていたが、乃木希典という性格はそういう法制や法制的組織をたとえ頭脳で理解できても彼の過剰な、異様なほどに強い従者としての情念はそれらに対して無感覚であり、彼が帝を思うときは常に帝と自分であり、そういう肉体的情景の中でしか帝のことを思えなかった。希典は、常に帝の郎党として存在していた。


が、帝は、この戦争をその知謀と精力的な活動によって勝利に導いた児玉よりも、希典の劇的たたずまいのほうを好まれた。希典の劇的さは、その性格行動だけでなくその宿命までが劇的であり、彼はその二児をこの戦争で喪わしめた。戦闘服を着ていま嗚咽している希典の姿は、児玉などよりも日露戦争そのものであり、この戦争の悲壮と壮烈を一身に具現しているかのようであった。乃木には礼服でなく戦闘服が相応しかった。


本来東郷という人は若年の頃から忠義忠誠などという言葉をことさらに言わぬ人物であった。東郷だけでなくこれは薩摩士族の共通性格であり、彼らはたとえば西郷や大久保でさえ、忠義や忠義哲学についてあらたまって語ることをしなかった。島津時代からのこの藩の士風で、忠義などは人が飯を食うが如く当然のことであり、それをことさらに言挙げするを恥ずる風さえあった。これとは逆に希典の育った長州は観念の論議を喜ぶ風があり、しきりと忠を言い、それを終生言挙げし続けることを以て武士たる者のほむべき骨柄としていた。


希典とその妻の殉死の報は、それから一時間後には、大葬拝観のために堵列している群衆の間に広がったらしい。すぐに世界に広がった。希典は既に旅順要塞の攻略者としてこの当時の日本人としては他国に対する知名度が最も高く、その死は文明世界のほとんどの国の新聞に掲載された。その論評のことごとくがこの日本の貴族の演じた中世的な死の様式に驚きつつも、そのほとんどが、激しく賞賛した。既にヨーロッパにおいてはどの国でも王室の尊厳と貴族の権威が失われつつあり、その典雅で剛健な秩序を哀惜する者はこの希典の死を世界史的な感覚で捉え、奇蹟の現象として感動した。彼の思想の過去の系譜の中にあるこの稿の冒頭の人々が、すべてその行動よりもその劇的な死によってその同時代人や後生に思想的衝撃を与えたように彼の死もその劇的な時宜を得た。

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