さて、「近代」という時代に、最初に「忠臣蔵」のステージに上がったのは天皇である。すなわち、明治天皇は、明治元年にはじめて東京へ都を遷したとき、高輪泉岳寺に勅使を使わして、赤穂浪士の墓に対して次のような勅語を与えている。
なんじ良雄等、固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。百世のもと人をして感奮興起せしむ。朕深く嘉賞す。
この天皇の勅語から六年後の明治六年二月、太政官府はいわゆる「復讐禁止令」を発布するのであるが、それにもかかわらず赤穂浪人の復讐劇は、明治天皇のいう「主従の義」の普遍性によって、かつての江戸市民の「感奮」を越えて、さらに近代国民国家の道徳的な指標として引き継がれていくことになるのである。すなわち、「近代忠臣蔵」の始まりである。
「復讐禁止令」は、端的に言えば、仇討ちを私闘による殺人行為と見なし、以後すべては法の下で裁かれることを厳命したものである。封建道徳の美徳として称えられてきた仇討ちが、一転して、犯罪と目されるようになったことは、法制史上当然の推移とはいえ、当時にあって一大変革であったことは想像に難くない。事実、明治新政府は、それに至るまでにジグザグな方針の転換をたびたび重ねているのであるが、
・・・明治元年の暫定的法規としての「仮刑律」の「父祖被殴」の条に「祖父母・父母殴たれ死に至、因って行兇人を殺すは無論」という一節があって、父祖の場合に限って復讐が公認されているという。しかし、
・・・明治四年には、司法省が創設されて法権の統一が再議されるに及んで、ついに
明治六年二月七日、第三十七号布告を以て「復讐禁止令」が発布される運びになったというのである。すなわち、
人を殺すは国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは政府の公権に候処、古来より父兄のために讐を復するを以て子弟の義務となすの風習あり。右は至情やむを得ずに出でると雖も、畢竟私憤を以て大禁を破り、私義を以て公権を侵す者にして、固く擅殺の罪を免れず。
しかし、それでも「孝子の情」については、いまだに定まらず、「今後不幸にして親を害せらる者は事実を詳らかにし速やかにその筋へ訴」えなさいというくだりが「禁止令」には付されていた。それ故、暫定的な法規のまま据え置かれていた「父祖被殴律」について、再度司法省からの伺いが出され、以後たびたびの「改正」を経て、それがすべて撤廃されたのは、実に明治十三年の「刑法」の発布の時であったという。
この「復讐禁止令」の発布をふまえて、福沢諭吉は「学問のすすめ」第六編(明治七年)の中で、何よりも「国法の貴き」ことを標榜し、「国法」に背いて吉良を勝手に殺した赤穂浪人を、私に人の罪を裁いたものとして批判する。ここでは、幕藩体制下における赤穂浪人の復讐が、何のためらいもなく、あたかも既定の事実としての近代国民国家における法の遵守という精神から裁かれていると見ることができるだろう。
それに対して、植木枝盛「赤穂四十七士論」(明治十二年)は、福沢の論は欧米自由文明あるいは公議政体の国法を規範とした啓蒙論にすぎず、現下の日本が「専制独裁の国」と見なさざるをえない以上、たとえ国法といえども「私に裁定」されていると考えるべきだという反駁を展開する。すなわち「人民の与て立定するものにあらざれば、敢えて必ずしもこれに従」う必要はないと植木は述べつつ、彼ら四十七士の止むにやまれぬ「君臣の情誼」による復讐を弁護しているのである。
無論、これは赤穂四十七士論というより、人民の抵抗権をいうために、人々によく知られた赤穂事件を利用した(家長三郎)とされているが、・・・・
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