荻生徂徠
徂徠においては「道」という観念はその思想の中核的位置を占めるが、彼は「先王の道は外にあり」(弁名)という。そして彼以前の儒学は「外を軽んじ重きを内に帰した」(弁道)と批判する。・・・徂徠のいう道は、外的な者、客観的実在としてとらえられるものである。
前期の思想家たちの主要関心事は世俗社会における人間的真実の内的探求ということであり、彼らの探究の態度は求道的、求心的であった。ところが徂徠以後の儒者の主要関心事は一方においては文献学的、考証学的研究であり、他方では経世済民の問題であった。いずれにしても彼らの探究の態度は、外面的、遠心的となった。そしてこのような展開の機運をつくったもの、それが徂徠の道についての考え方なのである。
徂徠は、この道は、一言でいいあらわすことのできない多様なものであり、多くのものをその中に含めた包括的存在(統名)であるという。・・・彼は老荘のいうように道は自然に存在するのではなく、中国の堯舜等の先王たちによって制作されたものと考えたからである。その制作されたものの内容には、卜筮や医薬や農業のような「利用厚生」的な面も含むけれども、徂徠が最も重んじたのは「礼楽」という人間を人間らしい存在とする文化的制作物であった。人間は文化を持つことによって人間となる、と徂徠は考えていたのである。
しかし、徂徠以後、文化の道と経世済民の道とは分化した。そしてこの傾向は今日まで続き、この両者が相互に影響し合うことによって、それぞれを豊かにしていく可能性はほとんど見失われてしまった。この統合の道は何か、それは徂徠がわれわれに残した宿題であろう。
本居宣長
宣長によれば、ことごとしく「道」をいいはることじたいが、"からごころ"であり、儒者たちの説く"聖人の道"は所詮「ただ人の国をうばわんがためと、人に奪わるまじかまえとの、二つにすぎずなもある」ということになる。儒者が「皇国をしも、道なしとかろしむる」のは、わが国には「道」があったからである。そのゆえに道についての"ことあげ"がわざわざなされなかったことを知らないためであり、逆に儒者が「道々しきことをのみ言いあえる」は、実は「道ともしきゆえ」であったためだと断言する。
道徳としての道、治国教化の道は、心の「道」にあらずとした宣長の立場は、人間の心情(まごころ)を重視する契沖以来の国学の思想を、最も端的に表明したものであった。
彼はいう。「其はただ物にゆく道」である。その説くところは、極めて明白である。「美知(みち)とは、此記(このふみ)に味御路(うましみち)と書ける如く山路野路などの路に、御ちょう言を添えたるにて、ただ物にゆく路ぞ。これをおきては、上代に、道というものはなかりしぞかし」。
人の歩むべき道、あるいはまた人が歩まされる道ではなく、人がおのずからに歩んできた路、「ただ物にゆく路」のみが、「道」であった。それは「おおらかにして事足りぬる」道であり、「優れたる大きな道」であって、「実は道あるが故に道ちょう言なく、道ちょうことなけれど、道ありしなりけり」という「道」の姿であった。
何々せねばならぬ道、かくかくあるべしとする道、強制の道、当為の道、規範の道は、彼が最も嫌った道であった。
儒者の"からごころ"にあれほど厳しかった宣長が、幕藩体制の治者の世界に、心情に基づく"ことあげ"のやいばを向けず、そのさかしらをあばきえなかったのも、宣長自体が被治者の立場にとどまって、変革者の立場にいたり得なかったためである。彼は単なる復古主義者ではない。だが「今より後もまたいかにあらん。今に勝れる物おおく出来べし」としながら、未来への展望は、なお不十分であった。道は"未知"でもある。未だ知られざる明日にいかに創造してゆくか、そのことを問わなかった宣長学の限界は、同時に彼における道の限界となっている。
佐久間象山
佐久間象山は思想史的に言えば、儒教の合理主義的側面と、自然科学に代表される近代西欧の合理主義とを同一化することを通じて、儒教文明に属した日本を、近代ヨーロッパに発祥した科学文明へとバトン・タッチし、そのことによって日本の国家的独立を守ろうとした人であるといえよう。
彼の「道」についての考え方にはこれまでにない要素が三つ結びついていた。第一は道と科学技術との結合であり、第二は道と時勢との結合である。第三は、道と力との結合である。
では彼のいう時勢――幕末・維新期の日本のおかれた状況とは何か。それは国際政治においては、力が何よりも有力な地位を占めるということである。彼は国際政治における道徳や正義の要素を無視するのではない。しかし力なくしては、道徳も正義も実現できない、というのが象山の考えである。
たとえ中国は敗れても、それが儒教文明そのものの敗退であってはならない。そのためには、儒教文明を維持しつつ、しかも日本が西洋諸国の科学技術・軍事・政治・経済等の諸力に対抗しうる道を発見する以外に取るべき態度はない。――象山の思想と行動の源はここにあったというべきであろう。
吉田松陰
松陰は一方において現実主義的側面をもっていたが、他方では絶えず現実を突破することを通じて現実と関わろうとする主体的・実践的面を強く持ち、求道的・求心的な、しかも現実から逃避しない実践者ともいうべき人であった。従って「道」ということは松陰にとって重要な問題であった。
「道が清純であるか、ないか、事業が成るか、ならないか、は、ひとえに志が立つか立たないかによる。ゆえに士たる者は自己の志を立てなければならない」という言葉がそのことを最も明らかに示すであろう。
松陰にとって士道は儒者の道であるとともに武士の道であった。儒教の武教化すなわち士道は山鹿素行において本格的に成立したが、松陰はその直系であり、士道的武士の理想像といってよいかもしれない。文武の興隆や文武の一致ということは、当時の心ある武士たちによっていわれたことだが、彼は文武の興隆の動力となる精神的要素を重要視する。
そしてこの精神的要素というのは「文武御興隆の大本は御家中貴賤をえらばず剛毅木訥の風をなすことが、第一義と存じ奉ります」とあるように、「論語」に言うところの剛毅木訥の気風である。彼は、剛毅木訥の気風が培われなければ、どれほど文武に長じても、どれほど人材を成就しても国家に益するところは全くないという。
儒教世界に生きた人々にとっては、それは普遍的倫理と信ぜられた。「道は天下公共の道」であり、「道は天地の間一理であって、そのおおもとは天から出たのである」と信ぜられたのである。この信念は、極東世界における自然法的理念の根拠であった。
「天下は一人の天下であって天下の天下ではない」といって、一君万民の考えを提出する。この考えが明治維新の変革の原理になり、明治国家の支配の原理となったことはいうまでもない。ただここで見落としてならないことは、松陰においては、日本の国体に現れた道は、あくまで日本の「独」であって、他国にも通用する「同」ではない、とされていることだ。
勝海舟
彼が「御公儀=幕府」に義理を感じなかったのは、龍馬が「土佐=御国」に冷淡だったのと同じだった。
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