2011年2月25日金曜日

「要塞」(司馬遼太郎)より  2

筆者が乃木希典についてかねて抱いていた疑問は、この将軍が軍事技術者としての自分の能力の乏しさをどの程度まで知っていたか、あるいはついに気づかずに過ごしたか、気づいていながらあえて陛下の将官である体面上気づかぬふりでいたか、あるいは且つもしそれに気づいているとすれば、現実の任務(将官としての)との間にどのような懊悩自責があり、どのように彼自身の中で屈折したか、ということを知りたかった。
この「案山子」がそうにちがいない、と思った。案山子とは、新村出氏の「広辞苑」によれば「竹や藁などで人の形を作り、田畑に立てて、鳥獣のよるのを脅し防ぐもの」とあり、その第一義から転じた意味として「見かけばかりもっともらしくて役に立たぬ人」という釈義も出ている。乃木希典は、自分をもってそれであるとし「その役立たぬ人」というのが自分の肖像であるとして案山子を書かせた。・・・・と筆者は思った。しかしよく考えるとどうも違うように思われる。乃木希典は休職にあたって、「案山子として晩年を終わるべし」ともらし続けていたという。とすればなるほど非職(休職)軍人は姿ばかりの軍人で現務を執らせてもらえないから案山子であり、無能の意味ではない。乃木希典は単に現務をとりあげられたことについての深沈とした心境を案山子に託しているのであり、無能の謂いではない。「晩年は案山子として」という限りは、それ以前はむろん案山子ではなく、生き生きとした能力を持つ活人物であるべきであり、そう思っていたことになるであろう。
・・・乃木希典はおそらく筆者の考えていたような、自分の能力に疑いを持つというようなことは、あるいはなかったかもしれない。


旅順を攻撃するという話が浮かび上がったのは開戦後、ずいぶんの期間が経ってからである。それまでは、旅順を攻めるという案はなかった。故川上操六案にもなかったであろうし、故田村恰与造案にもなく、児玉源太郎案にもなかった。この遼東半島の尖端にあるロシアの租借港に然るべき要塞が築かれつつあるということは大本営も察していたが、これを攻略せねばならぬというほどの戦略上の必要を、日本陸軍は感じていなかった。あくまでも対露作戦の目的は満州の中央平野においてロシア軍を撃滅するにあり、こういう辺地の要塞など、本戦が勝利に帰せば捨てておいても朽ちてしまう。その意味で、陸軍の旅順無視は戦略上正しいであろう。ところが、海軍がそれを要請した。


この当時、既に近代要塞に関する戦術論がヨーロッパではやかましく論議されていたし、そのうち最も優れた意見としてフランスのボーバンのいう「完全築城を施した要塞を攻撃するにはいわゆる正攻法をもって進まねばならない」ということが原則化しており、それらの書物は、参謀本部にも陸軍大学校にも来ているはずであり、軍人ならば当然の義務として読んでいなければならない。ボーバンのいう正攻法とは、要塞とは裸の歩兵で奇襲するべきものではないということであり、構造物そのものを物理的に破壊せねばならないということであり、その方法をいう。つまり工兵と砲兵の圧倒的使用ということであった。日本戦史の上でいえば、城攻め――要塞攻略――でボーバンはいう「正攻法」をとったのは豊臣秀吉であり、備中高松城の水攻めがその好例であった。・・・が、大本営が乃木希典にあたえたのは、わずか三師団の歩兵と野砲一個旅団、重砲兵三個連隊であった。その砲のうち、十五珊(さんち)の青銅臼砲、九珊の青銅臼砲が混じっていた。火砲が鋼鉄になってから久しいというのに、維新前後に通用した青銅砲を持たせてやるというのは、理由は別として、乃木希典はこの事態の中では、客観的存在として既に不幸な戯画である。


とにかく、大本営の方針は、「強襲をもって一挙旅順上を屠る」というものであっった。敵要塞から多少の抵抗を受け、それがため多少の犠牲を払うとも、あくまでも肉弾をもって奪る。肉弾をもって火砲の不足を補わねばならぬ、というのが基本方針であった。それには精神家の乃木が最適であろうと大本営は思ったかどうか、それは分からない。「乃木には乃木でなければならぬ役がある」といった前記山県有朋の言葉は少なくとも旅順を想定した時期の言葉でなく、この言葉をもってこの人選の理由を探るわけにはいかない。


要するに乃木の最初の不運は、名だたる旅順軽視論者をその参謀長と副参謀長にしたことであろう。ちなみに、日本陸軍の慣習は、司令官の能力を棚上げにするところにある。作戦のほとんどは、参謀長が立案し、推進してゆき、司令官は統制の象徴であるという役割のほか、作戦の最終責任をとる存在であるにすぎない。


彼がドイツ滞在中に感じた欧州各国における徳義の根源は、宗教であると見たようであった。「しかるに我が邦仏教のごときは、目下殆ど何の用をなすところなく」と書き、軍人の徳義の根源は天皇と軍人勅諭と武門武士の伝統的忠誠心に求める外ない、と見、その旨を前記意見具申書に含めて書いている。徳川時代に確立した武士道は死を前提とした上に成立しており、それへの到達は自己を常住死の意識の中に置くという自己鍛錬以外にない。乃木希典は自己美の感性のために絶えずそこへ意識を集中してきた。彼は軍事技術者よりも自己美の求道者であり、この「棺が三つ並ぶまで葬式を出すな」といったのは、他人への演出ではなく、自分自身への演出であった。


「元来、種々の評判多き司令部なれば」と、参謀本部次長の長岡外史が、満州総軍参謀井口省吾少将へ長文の電報を送っている。評判というのはその信じられぬほどの無能と上級機関の助言に一切耳を傾けぬ頑固さということであろう。大本営の中には乃木と伊地知で構成している第三軍司令部を復員解散させ、人事を一変させてしまおうという意見も有力になりつつあった。そうなれば乃木は自殺するに違いない、しかし、自殺させよ、戦局の危機を救うために乃木を殺すこともやむを得ない、ということであった。大本営の長岡外史は、「司令部内の空気を清め、一方には新鋭の兵力を呼び寄すること必要なりと断定す」と、満州総軍に打電している。
しかしながら、乃木と伊地知は、なおも二〇三高地に攻撃の主眼をおこうとはせず、頑固に最初の強襲攻撃の方針を捨てず、連日おびただしい死を累積させつつあり、そういう乃木や伊地知の姿は、冷静な専門家の目から見れば 無能というよりも狂人というに近かった。


「伊地知では無理だったのだ。乃木がかわいそうだ」と、児玉は馬を粉雪の中にかけ入らせながら、彼のただ一人の随員である田中国重少佐に向かって叫んだ。少佐は叫び返したが児玉の言葉が聞き取れず、やむなく馬をあおって近づいてきた。「あいつには、ヨーロッパ人が何者であるかがわからん。シナ人同様に思っていたのがあいつの作戦の根本のあやまりだ」と、児玉はいった。この戦争の初動作戦の一つである第二軍の金州、南山攻めで奥保鞏が費消した弾量だけで日清戦争の全期間の費消量を越えてしまっており、これには大本営も狼狽した。これほどの物量を使用せねば対抗できぬ相手であるとは、どの日本人も感覚としては思ってもいなかった。ヨーロッパ人が感覚として日本人の中に入ってきたのは、金州・南山の激戦によってであろう。
・・・児玉源太郎によれば軍人の頭脳は柔軟でなければならず、新しい現象に対して幼児のように新鮮な目を持たねばならないということであったが、乃木と伊地知の組み合わせはどうもそうではないらしく、いつまでも十年前の日清戦争であるらしかった。伊地知は軍部きってのヨーロッパ通であり、少将級では最も留学期間が長い。しかしながら外国文字も読めぬ徳山毛利藩士出身の児玉の方が新しい現実の理解度が鋭いというのはどういうことであろう。将器というのは教育によるものではなく、ついには生まれついての才能によるものであろうか。


乃木大将をして永久に歴史にとどめしめた水師営の会見が行われた。乃木は降将ステッセル以下に帯剣を許し、またアメリカ人映画技師がこの模様を逐一映画に撮ろうとしてその許可方を懇望してきたが、乃木はその副官をして慇懃に断らしめた。敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは日本の武士道が許さない、というものであり、この言葉は外国特派員のすべてを感動させた。
しかしながら、かれら特派員にとって必要なのはこの降伏の写真であり、重ねてそれを懇望した。乃木はついに、「それならば会見後、われわれが既に友人となって同列に並んだところを一枚だけ緩そう」という返答をした。この場合、この許可のいきさつそのものが特派員たちにとってニュースであり、かれらはそれぞれ感動的な電文を綴ってその本国へ打電した。乃木の名は世界を駆け巡り一躍、日本武士の典型としてあらゆる国々に記憶された。・・・乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。彼によって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。
この評判は、あるいは彼と彼の参謀たちを救ったことになるかもしれなかった。大本営内部や満州軍の高級幕僚の間では、この旅順攻囲戦が集結し次第乃木とその幕僚は更迭されてしまうだろうという観測が圧倒的であった。が、乃木はその軍人としての最大の恥辱から免れた。それを免れしめた理由の一つは明治帝の乃木に対する愛情であり、一つには陸相寺内、参謀総長山県の長州人としての友情であり、今ひとつはもし乃木を旅順攻略後に罷免するとすれば旅順における日本軍の戦闘が、最後は勝利をおさめたとはいえ、その途上において記録的な敗戦を続けたということを世界に喧伝する結果になり、外国における起債に響くことは明らかであった。このため、乃木と伊地知以下の人事は国際信用のためにも触ることができなかった。


乃木は自分の軍事能力に(あるいはその不運に)絶望するとき、常に自殺を思い、自殺によって自分を恥辱から救い出し、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射のように起こるようであった。
児玉にとって乃木ほど手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さに殺したいほど腹立たしかったが、しかし軍事技術以外の場面になってしまえば児玉は乃木のようなまねはできない自分を知っていた。児玉ならばたとえ失敗しても一軍を死に陥れることがあっても、そのあとでこのように純粋な泣きっ面はできなかったであろう。これが乃木だ、というのは、乃木の美しさはそこだという意味であったように思われる。

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