雲右衛門の義士伝が、「武士道鼓吹」を掲げていたことはよく知られているが、彼に限らず明治末から大正期にかけての忠臣蔵は、武士道精神の花盛りであった。それを最もよく示しているのは、芳賀矢一「戦争と国民性」(大五・一)である。その中の一章「花は桜木人は武士」の中で、芳賀は西洋人をしばしば驚嘆させる「ハラキリ」について、日本の武士道が培った「剛毅な精神」の所産として捉え、あらためて四十七士の美学を称えているのである。
そうした武士道を背景に語られる「忠臣蔵」の中で、ひときわ異彩を放つのは、井上剣花坊の存在である。井上は、まず司馬僧正の名前で、「拙者は大石内蔵助じゃ」を刊行するのであるが、これは帝国軍人後援会による刊行で、前編が大正二年二月、続編が大正二年九月で、発行所はいずれも敬文堂である。その前編に序文を寄せているのが、森鴎外なのである。
ところで、司馬僧正が、内蔵助は「義士」ではなくて「人間」だというとき、もちろんそれは、五感を持ち、欲望にとらわれる者を指していよう。と同時に彼は、続編の冒頭に付した「冗語」の中で、その「人間」を「自然主義および象徴主義で書く」と注記してもいたのである。自然主義というのは、ありのままに赤裸々にという意味であるが、象徴主義というのは「平々凡々の人間」でありながら、しかしそれでいて「常人に超越した」処のある内蔵助の「人格の閃き」を「象徴」させるという意味なのだという。
芥川の「ある日の大石内蔵助」は、討ち入り後、細川家にお預けの身となった内蔵助が、復讐という「事業」を「彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した」ことの「満足」に浸ったのも束の間、堀内伝右衛門が外部の噂を持ち込むことによって、彼の満足に曇りが生じ、不快な種が蒔かれるという、ある春の一日を描いたものである。噂というのは、江戸市中に仇討ちをまねることが流行しはじめたということであるが、それを契機にして、同志の中には「背命の徒」をなじり、「乱臣賊子を罵殺」する形勢が生まれている。それについて内蔵助は「変心した故朋輩の代価で、彼らの忠義が益々褒めそやされ」るというこの事態を「新しい事実を発見」と解剖しつつ、いっそう不快さを募らせていくのである。既にこの「代価」という観察に、芥川の独自さは明瞭であるが、しかし、その「内面」を満たす自足感が、他者による相対的な評価の中で揺らいでいるという視点についてはどうであろうか。
「道徳上の要求」すなわち「正義」あるいは「善」の自足性が、あらためて「社会」の中での葛藤や軋轢に晒されて変容するという、その構図が思い浮かべるのは、唐突さを承知の上でいえば、ルソーという存在であろう。
そのルソーについて、かつて寺田光雄(「内面形成の思想史」昭六一,未来社)は、近代人の「内面」が形成される典型を見ていたことがある。ルソーといえば、既に「人間不平等起源論」の中で、いわゆる「自然状態」としての人間の内面的な価値を「社会状態」における人間の「自尊心」に対抗させていたことは知られているが、それはさらに「孤独な散歩者の夢想」に至って、より歴然としてくると寺田はいう。
芥川の捉えた内蔵助も、このルソーと同じ内面の軌跡をたどりながら、しかし結果は「冴え返る心の底へしみ透ってくる寂しさは、この云いようのない寂しさとは、いったいどこから来るのであろう」という吐露で終わっている。その吐露が、寒梅の老木を眺めながら発せられた感慨であることに注意が必要で、彼の内面を一種特権的に満たした「満足」も、また「寂しさ」も、社会を相手にするよりも、むしろ自然による慰藉に傾くことで、自足的な位置のバランスをとっていたことが知られるのである。
芥川の捉えた内蔵助の内面が、他者による相対的な評価にいらだっているとするなら、野上弥生子の大石良雄は、同志によってその内面をことごとく見透かされるものとして描かれている。
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