2011年2月25日金曜日

「要塞」(司馬遼太郎)より  1

余談だが、この時期、一般の感覚としては――山県有朋でさえ――軍旗はさほど尊貴なものとはしていなかったであろう。第二次大戦での降伏によって日本陸軍は終焉したが、いわゆる帝国陸軍の特徴のひとつは軍旗を異常に神聖視し、あたかもそこに天皇の神聖霊が宿っているが如くあつかったことであった。この精神的慣習はおそらく乃木希典から始まったであろう。明治十年、それを敵に奪われたがために連隊長が自分の生命を消すことによって詫びようとした。ということで、世間も軍も、その尊貴さを発見した。同時に――話は別だが――この事件は、乃木希典自身の歴史にとっても重要であった。彼はこれ以前にはごく普通の快活な、人並み以上に派手好みの軍人であったに過ぎず、後年の精神主義者としての形相は少なくともその行跡からは片鱗も見られなかった。が、これ以後、明らかに変化している。その面貌に陰鬱さが加わり、その骨相上の固有の特徴である泣きっ面がこの時期から目立ちはじめ、しばしば大酒をし、酒を飲むとかならず荒れ、常住、何か痛刻なものを宿している様子の人物になった。それまで彼自身の中で背をかがめていた精神家が、このあたりから顔をもたげたように思われる。
乃木にとって軍旗を失ったことは天子への罪であり、その罪を常に意識し続けることによって、ちょうど封建時代の殿様と家来の関係のような、そういう直接的な手触りで天皇の存在を意識し、意識するだけでなく体の中で感ずるようになったのであろう。他の日本人にとっては天子は明治政府の教えるが如く生神さまであり、多分に観念の中での存在であったが、乃木希典の場合はひどく肉体感のある君主であった。その明治帝が崩じたとき、乃木希典がちょうど封建武士が殿様に殉死するような、そういう肉体的親さを感じさせる自然さで殉死したのは、やはりこの軍旗事件における自責の念から育っていった感情であるに違いない。
その感情は、後になるに従って、明治帝にも自然に通じてゆき、明治帝にとっても乃木希典がまるで鎌倉時代の郎党であるかのような、そういう実感を持つようになり、そのことが乃木にも伝わり、乃木を感動させ、彼をして近代日本の中で希有といっていい古典的忠臣にしていった。
この軍旗事件は、もし他の別な士官の身の上に起こっていたならば、自責の結果、この残酷なばかりに不名誉な過失を契機に、あるいは違った発奮をするかもしれない。例えば敗北を苦にし、再び右のようにならぬよう自分の近代的軍事技術を磨こうととするかもしれない。しかし乃木は――これは彼の特質であるであろう――精神主義の方へ行った。精神主義は多くは無能な者の隠れ蓑であることが多いが、乃木希典の場合にはそういう行為はない。しかしながら歴史の高みから見れば、結果としてはそれと多少似たものになっている。


明治十八年、三十七歳、五月二十一日、陸軍少将に任じ、歩兵第十一旅団(熊本)旅団長に補せらる。
明治十九年、三十八歳、十一月三十日、ドイツ国留学を仰せつけらる。
このドイツ留学の結果が、少々乃木希典の性行、容儀、嗜好、日常習慣、といったものをすべて一変させた。大げさに言えば、倫理性が一変した。人間を倫理的存在としてみる古い時代の哲学者の定義を借りるとすれば、乃木希典は別人になって帰朝したといっていい。そういう人間現象がありうるものかと疑う者があれば、われわれは乃木希典を実例に出さねばならないであろう。
かれらが(乃木と川上)がドイツでやらねばならぬことは、世界的戦術家とされる参謀総長モルトケに師事し、その推薦による参謀に直接の教授を受けることであった。
乃木希典は主に服装と容儀に関心を持ち続けた。デュフェに毎日親炙することによって、デュフェが居常笑顔を惜しみ、常に威厳に満ち、その挙措の端正であることにほとんど衝撃に近い感動を受けた。
ドイツ人はこの点ではヨーロッパ諸民族の中で特異であり、かれらは何よりも制服を好み、制服によって人格をつくるとさえ他の民族から揶揄されていることなど、極東から来た乃木にはむろんわからない。
乃木希典はドイツ参謀本部への留学以後、その居常は独特の生活規律を持つようになり、精神家として大きく傾斜した。彼の生涯を深く歴史に印象づけたのは旅順における近代要塞への攻撃とされているが、このドイツ留学中、その生涯で唯一というべき近代戦術の習得の機会において要塞と要塞攻撃に関する研究はなかったようであった。乃木希典の関心事は、あくまでも教育(自己に対する教育も含めて)であり、精神美の追求であったにちがいない。

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