福本日南の主張の背景をなしているのは、明治三十七年の国定修身教科書の改訂に伴う「家制国家主義思想」の確立であろう。また明治四十年の「師範学校規定」などの教育制度の制定とも呼応していよう。それらは、翌四十一年の第二次桂内閣の成立とも連動し、又穂積八束や井上哲治郎らの発言とも重なりつつ、「近代忠臣蔵」のイデオロギー的な性格を色濃く投影していたといえるだろう。
忠臣蔵のイデオロギー的な性格を代表する作家といえば、さらに大町桂月を欠くことはできない。・・・「四十七士」(明治四十三年)の結びの一節にはこうある。
四十七士を解せんには復讐を解せざるべからず。復讐を解せんには、忠孝を解せざるべからず。殊に我が国は万世一系の皇室を戴ける国にて忠孝二途なし。四十七士の精神が我が国運の消長に関すること極めて大なり。
それについで、大町はまた「日本及日本人」(明治四十三)の特集「四十七名士之四十七士観」に対して、「四十七名士の四十七士観」を「東京日々新聞」(明治四十三)に連載し、当代の名士の義士観にいちいち批評を試みてもいくのである。
まず乃木・東郷・島村の三将軍、島津、秋元の旧大名のそれについては、文句なく賛辞を呈する一方、元良勇次郎・加藤弘之・浮田一民の三人については、「日本武士の精神を解せざる者」として厳しい批判を浴びせる。そして、彼らとは対照的にラフカディオ・ハーン「神国日本」への思慕を語る高橋是清と、為永春水「正史実伝 いろは文庫」を「忠義浪人」として英訳した斉藤秀一郎の仕事が称揚されている。
「忠臣蔵」の民間への普及において、芝居や小説の果たした役割には大きなものがあるが、とりわけ講談については特筆すべきものが多くある。・・・当時の講談界を三分する神田派・松林派・桃川派の名手や新鋭が競合した場としてもよく知られている。博文館はこの「文芸倶楽部」のほかにも「講談雑誌」や「小説講談ポケット」などを刊行しており、いわば講談文化をリードしていたといっていいだろう。
この「文芸倶楽部」増刊号の講談・落語の人気に注目して、既に雑誌「雄弁」を刊行していた大日本雄弁会が、明治四十四年十一月に「講談倶楽部」を創刊し、新たな組織としての講談社を立ち上げることになる。博文館に次ぐ雑誌王国の誕生である。これに加えて「秀才文壇」を発行していた文光堂が、明治四十五年十月に競争誌「講談世界」を創刊するに及び、ここに講談というジャンルは、明治期における読み物文化を導いていくことになるのである。
講談の需要の多かったことは、当時の新聞の多くが、必ずと言っていいほどに掲載していたことでも知られる。読者のニーズに応えたわけであるが、一方では、学校教育を補完する通俗教育の必要性が、内務大臣床次武二郎などによって声高に唱えられ、その一助として浪花節や講談が、国民道徳の涵養のために推奨されるという背景もあったという。
そしてその成果として示されたのが、通俗教育普及会の編になる「赤穂誠忠録」(大二)という忠臣蔵ものだったのである。この会の顧問には、芳賀矢一、新渡戸稲造・上田万年・森鴎外らがその名を連ねているが、その「序」に芳賀矢一はこう書く。
この時代は、まさに国民誰もが読書をなす時代である。欧米文明国では通俗教育の普及のために図書館設立の運動に努めているが、我が日本では、徳川時代より一種の通俗教育者の任に当たってきたのが講談師で、彼らの役割を無視することはできないと。
この序に続いて、「緒言」には、演劇・小説によって喧伝された義士伝ではなく、的確な考証と教訓の中に、血あり涙ある精神修養書として、かねてから義士伝に通暁している桃川如燕・若燕の口演でこれを世に贈るとも記されている。すなわち「赤穂誠忠録」は講談としての「忠臣蔵」が、史伝としての考証のみならず、いわば国民道徳の宣揚とも結びついた決定版であったともいえるだろう。
羽織なしの着物と肩まで垂らした長髪――その得意な姿にも、人々の注目が集まったという。そうした風貌と、さらに雲右衛門に弟子入りした「三十三年の夢」の著者宮崎滔天との関係をも踏まえながら、かつて花田清輝は、この一代の寵児によって生まれた「雲右衛門節」の形成に、明治初期の書生や壮士に代わる「浪士」の時代を見ていた。すなわち、「日露戦争後、文字通り、時代の子としてときめいていた、福岡の玄洋社を中心に結集」していた「浪人」たちとの関係を見据えての表現である。・・・九州福岡という土地は、近代忠臣蔵にとってのいわば「るつぼ」であったともいえようか。
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