武士道
新渡戸は、武士道とは武士の必ず実践すべき倫理綱領であるとし、その内容として、正義、勇気、仁愛、礼儀、至誠、名誉、忠義、克己などあげ、特に中の観念を「封建諸道徳を結んでの均整美あるアーチと為した要石である」と述べている。江戸時代に完成された武士階級の道徳綱領としては、ほぼ正しいであろう。もちろんこれは武士はまさに「かくあるべきもの」という規範であって、現実に「こうである」という意味ではないことは当然である。
正義も、勇気も、仁愛も、礼儀も、至誠も、名誉も、克己も、いずれも武士にのみ特有の倫理ではないはずである。すべて規律ある社会人として生活する以上、すべての人間が当然これらの道徳律を目標とすべきであろう。それが武士道として、特に武士階級に強く要求されたのは、武士が封建社会における指導的階級とされ、農工商に範たるべきものとされていたからにちがいないが、もっとも肝要な点は、忠義という武士に特有の観念が、これらの道徳の要石としてすえられていたからだ。忠義の一点を除けば、他の諸点は、欧米の紳士道についてさえ、ほとんど一致するといってよい。
従って、武士道の根底をなす「忠」という観念を究明することなくしては武士道の本質を把握することはできない。
それならば、武士道というものは、封建社会の平和を維持するために作り上げられた、将軍や大名たちのためご用道徳というほかない。果たして、幕末、再び全国動乱の時がやってくると、いわゆる「江戸時代の武士道」は、轟然たる音を立てて崩壊した。
個人同士の場合には、刀のこじりが触れたとか、挨拶の仕様が悪かったからとかいうような些細なことでも、刀にかけて面目を立てようとするくせに、相手が幕府や主家とあれば、頭から恐れ入って引き下がるのが、江戸時代の武士道の現実の姿である。
福沢諭吉が「文明論の概略」の中で述べている。
――日本の武士は、権力偏重の中に養われ、常に人に屈するを恥としない。上下の名分が定まっており、それに応じて権力道義を異にし、一人として無理を蒙らない者はなく、一人として無理を行わない者はない。乙は甲に対し卑屈を極め忍ぶべからざる恥辱を忍んでも、丙に対しては意気揚々として誇る楽しみがある。故に前の恥辱は後の愉快で償い得る。西洋の人民は自己の地位を重んじ、その権力は鉄のごとく、膨張することは困難であるとともに収縮することも困難であるが、日本の武士の権力はゴムの如く、下に向かって大いに膨張し、上に向かっては急に収縮する性質がある。伸縮自在の権力を一体に集めて武家の威光と名づけている――と。
もともと武士という階級の勃興したとき、彼らの間に行われた「もののふのみち」は、もっと粗野ではあるが、より雄渾な活気に満ちた人間的なものであった。それは戦塵の間に自然に生まれたものであり、上からの教義として教えられたものではない。いわば、戦友の間の情誼である。戦闘が現実に要求する勇気と義務と名誉と克己と相互扶助の実践道徳だったのである。
源平の時代のもののふの道が血肉の通った道であるとすれば、いたずらに煩瑣に形式化した江戸武士道は神経衰弱的武士道といえるだろう。
農民道
身分の秩序を天地の上下に比し、天のご恩と地の職分を説く思想は、農民をひたすら体制への奉仕者に位置づけるものとなった。十八世紀の初めに生まれた安藤昌益は、南部八戸の町医者となったが、彼はこのような封建教学の思想を鋭く批判して、直接生産者である農民の耕作、すなわち「直耕の真道」を力説した。
そこでは天の恩よりも地の恩、法の世よりも自然の世、不耕貪食の世よりも直耕の世を重視する、働く者への共感にみなぎっていた。
昌益は、「直耕の真道」を叫んだが、その人自身が「直耕」の人ではなかった。
(尊徳は)「天に従うを自然となす。これを名づけて天道という。人を以て作事となす。これを名づけて人道という。人道は田畑を開き、天道は田畑を廃す」という発言は、道の確たるものは農にありとする農民道そのものへの自覚に根ざしていた。
与えられた自然を、天道とする考えを尊徳はとらない。自ら働いて荒廃した田畑を復興した体験は、人間の働き、作事すなわち人道という認識を導き出す。自然の道徳化によって、人間社会を規制する空理空論は、尊徳にとっては無用の長物に過ぎないのだ。
体制批判にとどまって実践的に深められなかった昌益の「直耕の真道」と、実践的であったが結局は治者を助ける「農の大道」となった尊徳の「人道」と、その両者の止揚はさらに後代に残されることになる。
0 件のコメント:
コメントを投稿