2011年2月18日金曜日

日本の道_3(「他者の道」)

死出の旅路
仏教の往生思想を受容する以前に、日本的な"たましい”のよみがえり信仰があったことを見逃してはなるまい。それが仏教的な往生信仰との癒着をたやすくした要因でもあった。神道を生の宗教とし、仏教を死の宗教と簡単にわりきることはできない。原神道の信仰には、死の儀礼と祭祀が豊かであった。それが後に、権力に編成された"ミソギ”と"ハライ"の神道によって、死は一方的に"ケガレ"の世界に閉じこめられてしまったのである。


瑜伽の
そこで、死の悩みや生活苦から人間を解き放つ理想の道として、宗教は絶えず、国家と民衆とのどちらを選択するかという岐路に立つことになる。


六道
科学的世界観は、未知の領域を、次々と分析的に明らかにした。この結果、われわれ人間の世界は、透明で一重の現実世界だけになった。世界は、奥行きのない、多層でない、単調なものになってしまった。われわれの世界は、未知の<他者>の世界を失ってしまったのである。
・・・<他者>の世界を喪失した現代人は、一重の単なるホモジニティ(同質性)の世界しか持たなくなっている。ヘテロジニティ(他者性)を失ったところに、偉大な思想は生まれない。"イデオロギー"の終焉を越えて、"思想喪失"の不幸に、われわれは、はいりこんでいる。
<他者>への道こそ、<みち>の思想のもっとも本質的な性格である。ホモジニティに埋没したとき、思想も生き方も、創造もすべてが<どう>というマンネリズムに転落する。いきいきとした<みち>の思想は、ヘテロジニティへの通路を切り開かなくてはならない。


遁世
一般に遁世は、現世の否定として、隠遁という消極的な形をとる。人生態度を道にたとえるなら、それは<隠れ道>を行く者となることである。しかし、現実世界が存する限り、遁世して生きているとも、これとのかかわりをどうするか、という問題が残る。
超越者のいない日本では、政権の移動で、ことが落着する。公卿、武士は移動した政権に付着して、元の木阿弥に終わる。この伝統的な貴族社会を否定した遁世者兼好は、その否定を通じて、底辺庶民の肯定、救済をも志向したと見ていいであろう。遁世の道を、単なる世捨て人の文人趣味と見るのはあたらない。むしろそこには、現世へのラジカルな批判がこめられていたのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿