2011年2月18日金曜日

日本の道_4(「芸能のおこり」)

盲僧の道
私は、権力を握った者が記録した歴史よりも、こういう社会の底辺にあった芸の者たちが、この列島の本道を、あるいはそこから枝分かれしていくわき道、細道を、たどりつつ残していった足跡に、興味を持つ。この隠れた道の足跡の方が、私たちにとって真実の歴史を語っているからである。

くぐつの道
むろん観世座その他の能の者たちも、統制のもとにあったから、こんにち日本芸能を代表する能・歌舞伎が、この大和の賤民芸の座から出てきた、あるいはそれと深い関連のもとに出てきた、ということに、私たちは、注目しなくてはならないのである。
ところで、先の七道の者たちの名が、多くアルキと呼ばれていること、アルキがついていない者もやはり実際に道を歩いた者たちであることが、大事である。
これらくぐつは散所民であり、七道の者と同じく賤民視された者たちである。しかし既に明らかなように、これら道を行き、道に生き、道に死んだ者たちが、芸道の基礎を築いたことを私は、この列島の歴史にとって、本質的なことと見る者の一人である。

衆人愛敬
芸能の<みち>ということを私がすぐに想起するのは、世阿弥がいった次の言葉である。
たとい天下に許されを得たるほどの為手も、力なき因果にて万一少し廃るる時分ありとも、田舎遠国の褒美の花を失せずば、ふっと道の絶えうることあるべからず。道絶えずば、また天下の時に逢うことあるべし。
しかしこのような芸の道に対する考え方は、実はかつてち父の観阿弥から教えられたものだった。同じく「風姿花伝」にこういっている。
この芸とは、衆人愛敬をもて一座建立の壽福とせり。故にあまり及ばぬ風体のみなれば、諸人の褒美欠けたり。(中略)さればいかなる上手なりとも、主人愛敬欠けたるところあらむをば、壽福増長のしてとは申しがたし。されば亡父は、いかなる田舎・;山里の方辺にても、そのこころを受けて、所の風儀を一大事にかけて芸をせしなり。
それを今、貴人の賞翫を失うに及んで、山里遠国の衆人愛敬にこそ生きる道はあるのだと確認したのが、先の言葉に他ならない。貴人の賞翫の回復が求めるところとはいえ、そのためには衆人の愛敬という芸の原点に戻らねばならないとしているのである。
貴人に対する衆人、都に対する田舎・遠国こそ芸の<みち>を支えるものであり、いわば芸能のふるさとだったのである。
現代における「衆人愛敬」とは何か、「山里・遠国」とはどこなのだろうか。


古今伝授
わが国には学問芸術の継承における特色として、古代末期から中世にかけて、しばしば「秘事口伝」という形式がとられたことがあげられる。・・・こうした相承形態は平安中期、寺院社会にも現れ始めているから、学問芸術の世界に限るものではないが、しかし後者の場合には秘密主義がとられるところに権威主義と形式化の度合いが著しいのである。


天文花伝書
家元制度とは、このような普及(茶の湯人口の増大)を前提とする一方、それ故にかえって家元に収斂しようとする封鎖性が強調され求められるという、二つの要素なり傾向の統一体として、元禄期の後に成立したものなのである。そのどちらかを看過しても家元制度を正しく認識することにはならないだろう。

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