2011年2月17日木曜日

日本の道_2(「道理の創造」)

道の起こり
近代化のあらしは、けものの<みち>や神の<みち>にも吹きすさぶ。まさかりかついだ金太郎がけものと遊ぶ昔話は、今の子供に想像もできない。開発によってけものの<みち>は侵害され公害はけものの世界にもおよんでいる。神の<みち>もそうである。神の遊行する<みち>は、車の騒音の中に途絶えがちとなる。
こうして細道の影も薄く、古道が忘れ去られてゆく。はたしてこれでよいのか。


精神の道
邪馬台国の卑弥呼について、中国の史書である「魏志」は次のように述べている。「鬼道に事えて能く衆を惑わす」とあるのがそれだ。ここに「鬼道」と記すのは、五世紀の前半頃に編集された「後漢書」が、「鬼神の道に事えて」と書いているように「鬼神をまつる道」の「鬼道」であった。それは決して歩く道ではなかった。神の行いの道である。理念の道、精神の道の、わが国に関する初見であった。
学問や技術を道と呼んでいる。人間のくらしのしかたを道とよんだものに、万葉歌人山上憶良の歌がある。・・・"かくばかり術なきものか世間(よのなか)の道"・・・古代の文献に見える神道の道も、神のおこないにかかわる言葉であった。
・・・<みち>を人倫の道とうけとめる思想は、古代の人々には希薄であった。かくかくしかじかであらねばならぬ、当為の<どう>は、とかく人間の行為とこころを規制する。人間解放の道を助けるのではなくて、逆に塞ぎるのである。<道>は、何らかの意味で、集団規制の産物となり、体制擁護の道となった。
閉塞の道ではなく、自由と解放の<みち>こそが、現代の道の思想に必要であろう。「新古今和歌集」に"山奥のおどろが下も踏みわけて道ある代とぞ人に知らせん"という歌がある。どんな山の奥にも<みち>はあるのだ。<みち>のすべてを、<どう>の思想に集約することには反対である。武士道のみが<みち>であるような論説は、まさに言語道断というべきであろう。


やましな道理
「大鏡」は、公卿たちを震え上がらせた興福寺側の「非道」を「やましな(山階)道理」と称している。山階寺とは興福寺のこと。山階寺にかかると、世の人はとやかくと批判をしないで「やましな道理」といってそっとしておいたというのである。
・・・当時の人々の間に、興福寺衆徒の「非道」を道理と呼ぶような時の感覚があったことはたしかである。律令による法の世界が、その根底から動揺して、法力に代わって武力がものをいう世相が現実にあらわであった。人々のよりどころは法にはない。力であった。いまやみずからが体験し、みずからが求めきずく行動の道こそが、道理なのである。
世の道理とはいったい何か。そのことを求道して、われらの祖先は苦しみ悩んできた。そう簡単に「道」を説いてもらっては困るのである。「やましな道理」は神木や神輿をかかげて「非道」を貫こうとした。そこに「やましな道理」の古き権威主義がある。今の民衆にとっての道理は、権威や権力に仮託したものであってはならない。


慈円の道理
日本最初の歴史哲学の書などと評価されている、相慈円の「愚管抄」は、道理に注目した代表的な著述であった。彼は「一切の法は、ただ道理という二つの文字」であると断言した。
慈円という人物は、関白藤原忠通の子であり、当時の貴族中の有力者九条兼実は同母の兄であった。従って彼のいう道理には貴族的な道理の色合いが強い。
天台宗の座主を歴任した慈円のいう道理は、王法と無縁ではなかった。というよりも王法の衰微を末法の到来として認識した彼にとっては、いかにして王法秩序の中に「武士の世」を位置づけるのか、その道の模索が道理の強調になったのだといった方がふさわしいくらいである。
ここ(貞永式目)にいう道理は、武家の世特に源頼朝以来のならわしを中心にしたものであって、慈円が説いた貴族の立場からの道理とは異なっていた。


主従の論理
武士道というモラルがはっきりした形をとるようになるのは、江戸幕府および各藩による土地・人民の支配が固定化してからであった。武士道という観念は、それ以前に顕著ではない。
"死は鴻毛より軽し"とし、君が君たらずとも大義に殉ずるというような精神は、中世の武士たちには希少であった。もちろんそこに<みち>のこころがなかったわけではない。兵の<みち>とよばれた部門の誇りはあった。けれども、それを近世の武士道と同一視するのは鎌倉武士たちにとって迷惑な話であった。

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