《武士においては、人から大いに頼りにされる気性の持ち主であるということは武士道の精神にも合致し、たいへんに結構なことである。しかしながら、意味もなく物事を受け合い、できもせぬことにまで手を出し、自分が苦労する必要のないことまでも背負いこむような者は出しゃばりものとか、ちょっかい好きとか呼ばれて、非常によくないものである。若い人々はこのところを注意するがよい。
このことは、少し手を出してもよいと思うほどのことであっても、人からぜひといって頼まれたのでないかぎり、構うことはないのである。なぜならば、細かなことは言うまでもないが、たとえ、どんなに困難な事柄であろうとも、武士の身として、頼む、頼まれると言い交したからには、自分が責任を取って苦労をし、心配していかなければならない。ことの成り行きによっては、主君や親兄弟のためにさえ簡単には捨てられぬ一命をも、その問題に関係してしまったためにやむなく棄てねばならぬという場合さえあるのだ。それであるから、意味もない安請け合いは無用だというのである。
昔の武士においては、人にものを頼まれたときには、これはできることか、できぬことかという点を検討して、これはできることではないと考えたことは最初から引き受けない。また、これは可能なことと判断した場合でもその実行の方法についての筋道をよく考えた後で、そのことをきっぱりと引き受けたものであるから、引き受けるほどのことについては、だいたいにおいて成功し、計画が狂うようなことはあまりなかったものである。それであるから、人々からもよく解決したとほめられたのであった。
ところが、そのような思慮もなしに、人から頼まれさえすれば簡単に引き受け、計画が外れても、それを何とも思わぬような態度でいるならば、何もできぬやつといわれても仕方があるまい。》
頼りにされることは結構であるが、分を越えた振る舞いをするなと戒めている。
できないことを約束すれば、結局裏切ることになる。それは武士道が最も嫌うものである。
だから一旦約束をしたならば命を賭してそれを果たすことでなければならないというのである。
武士道は「修身斉家治国平天下」を精神の支柱とした。
小事に感け大事を怠ることのないように戒めている。
武士の働きは本来変の時にある。従って常の時には、無用となり、暇が多くなるのである。常にその備えをするのが本筋であるが、飽き足らなくなる。
それを単に頼りにされるからといい気になって、約束などをすると、突然のお家の大事に遅れることにもなる。要するに忙殺されることになるのである。
過分な約束は、違うことが必定であるから、するなということである。
分を弁える。覚悟することによって、自分を弁えれば、安請け合いはしないということであろう。
社会的信頼が身分制度によって保障された封建社会では、分(身分や職分)が固定し、分を弁えることは易かったとも考えられる。
対して、自由平等の市民社会で、我々は信頼を獲得するために多くの安請け合いを必要としているといえないだろうか。
そのため、多忙で、自暴自棄になり、自分というものを見失っていることはないだろうか。
自省してみる必要がある。
「分を弁える」「覚悟する」ということは、死語になったのだろうか?
できないことを約束すれば、結局裏切ることになる。それは武士道が最も嫌うものである。
だから一旦約束をしたならば命を賭してそれを果たすことでなければならないというのである。
武士道は「修身斉家治国平天下」を精神の支柱とした。
小事に感け大事を怠ることのないように戒めている。
武士の働きは本来変の時にある。従って常の時には、無用となり、暇が多くなるのである。常にその備えをするのが本筋であるが、飽き足らなくなる。
それを単に頼りにされるからといい気になって、約束などをすると、突然のお家の大事に遅れることにもなる。要するに忙殺されることになるのである。
過分な約束は、違うことが必定であるから、するなということである。
分を弁える。覚悟することによって、自分を弁えれば、安請け合いはしないということであろう。
社会的信頼が身分制度によって保障された封建社会では、分(身分や職分)が固定し、分を弁えることは易かったとも考えられる。
対して、自由平等の市民社会で、我々は信頼を獲得するために多くの安請け合いを必要としているといえないだろうか。
そのため、多忙で、自暴自棄になり、自分というものを見失っていることはないだろうか。
自省してみる必要がある。
「分を弁える」「覚悟する」ということは、死語になったのだろうか?
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