「下っぱのときの心を忘れるな」の一項で、「人事への不当な介入を許すな」へと続くものである。
《番頭、支配頭の下で奉公している小身の武士は、上司の人々の心掛け、部下の使い方などについて、自分の日頃の経験からよく判断ができるものであり、もしも我々が立身出世をとげて組を預かるような身分になったならば、部下の者たちをいたわり、なつかせて主君のお役にたつようにしたいものだと考えているものだ。そうした場合には、依怙贔屓などということは絶対にすべきではないと考えるに違いない。しかしながら、自分がだんだんに出世して、番頭、支配頭といった重い役目につくようになると、かつて人の部下として勤めていたころの心がけとは変わってきて、部下をいたわり、なつかせて主君のお役に立てたいなどという気持ちはなくなってしまうものである
もし幸運にも、主君のお気に入ってお取り立てを頂き、どれほど立派な地位に昇ろうとも、小身の時のことを少しも忘れることなく、人間の幸福とは得難く、失いやすいものだという謙虚な心を持ち続けるならば、自然と物事をいい加減にしないようになる。そのようであれば、我身に災いを招くこともあり得ない。
ところが十人のうち九人までが、自分に運が向いてくると、それにつれて高慢な心になってくるというのが古今の人情の常である。
織田家の佐久間(盛政)、羽柴家の魚住(景固)といった人々は、小身の時代には大変優れた武士であったのだが、大身となってからは考え違いをして、主君から見放され、家を滅ぼしてしまったものである。このようなことは、奉公している小身の武士として心すべき先例である。
小身の武士が、人の部下として奉公していううちに、同僚の中で転勤となる武士があった場合、その武士が役目の上での貢献も少なく、また素質といっても別にすぐれていないにもかかわらず、他の先輩を飛び越えて意外な栄転を遂げたとすれば、それは上司である番頭、組頭の検討が不十分だったためか、または依怙贔屓が行われたのであろうと、人々が内内に非難するのも当たり前である。
もし、わが身が立身出世して、番頭、組頭の役に付くようになったならば、このような点を忘れることなく、部下の人々の人柄の善悪、奉公の年功などに十分に注意して、かりそめにも依怙贔屓の心を起こすことなく、公正妥当な組の運営を行うというのが武士の正しい姿である。》
《部下の者たちをいたわり、なつかせて主君のお役にたつようにしたいものだと考えているものだ。そうした場合には、依怙贔屓などということは絶対にすべきではないと考えるに違いない。》
という。当然のことである。当たり前のことを説いているように思えるが、限定合理的、自己中心的な考え方に傾くのは人間の性であろうか。きつく戒めている。
小身から大身になるし従い、衆目の集まる処となる。見るもの感じるものも異なってくる。その状況に惑わされ、本来を失うことの内容に戒めているのだ。
武士道精神は「修身斉家治国平天下」で貫かれている。最終目的は治国平天下にある。
奉公とは、私心を働かせないことである。常に公に奉ずることを旨として励めというのである。
要するに、公僕となれというのである。成りきれるだろうか。非常に難しいことである。
例えば、世上では、「電力の温暖化対策、つばぜり合い激しく 経産省と環境省」が伝えられている。そこには、上述で懸念された「依怙贔屓」や「我田引水」が横行し、自論に固執した縄張り争いに終始している姿が映る。
今日、我々が成すべきは、「自立」もさることながら、「公」の確立が喫緊の課題である。
「公共」を図ることである。公を共有すること、それは、一つには「国柄」を考えることである。しかしどこまでを国として捉えるべきか?今日、「国柄」に対する話題に欠けるのは、安保次第で国柄が左右される、「国柄」を考えることの虚しさを先取りしている帰結?
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