《右に述べた盜臣というのも、もちろん不届き極まる不義のものではあるが、主君の物を盗むという武士にあるまじき行為を働いて天罰を受け、事が露顕して身命を失い、自滅してしまえば、それで事が落着し、人々の難儀迷惑ということもさしてなく、お家の運営の妨げ、国の災いとなることは、さほどないものである。それにひきかえ、聚斂の臣というものは、広く人々を苦しめるよなことを考え出し、二度とやり直しのきかぬような国の政道を妨げるような行政を行うものであるから、たとえ自分の私腹を肥やすような横領などの行為がなくとも、この上ない大罪人に違いないのである。それだからこそ、中国の聖人のお言葉にも、「聚斂の臣あらんよりはむしろ盜臣あれ」といわれているのであろう。
そもそも武士の身として、盜臣と呼ばれるより以上の悪事はないかのように考えるものであるが、この聖人のお言葉に「聚斂の臣あらんよりは」といわれているところを見ると、武士の犯罪として最大のものは聚斂の罪であるということになる。とすれば、盜臣の刑罰として首を切るものであれば、聚斂の臣は、はりつけにでもかけるべきものであろう。》
ここでは「盜臣」と比較し、「衆斂の臣」大罪を説いている。刑罰で測れば、「斬首」と「磔」の違いである。
「盜臣」の不義は、その身一個に及ぶだけのものあるが、「衆斂の臣」の不義は、国民や国家に及ぶ。だから、中国の聖人も「聚斂の臣」が居るよりも「盜臣」が居る方が益しだという。
今日、我々は民主主義を謳い国政に参加すること、権勢を揮うことを大望とする者もいる。しかし、その中に多くの「聚斂の臣」を見つけることができる。
「原子力村」や「安保村」が公然と問われているにもかかわらず、それが社会機構として再構成されているのは「聚斂の臣」の増殖であり、日常化といえる。
今、世上で「東芝」の不適切会計が問題になり、経営者責任が問われている。グローバル企業は国政の枠組みを超え、グローバルスタンダード志向で活動する。
過分の経営が期待されているのだ。
しかし、東芝は、今、「聚斂の臣」の巣窟のように映る。
身の丈を越えた経営、それが「聚斂」を託った。「貪欲の病」に罹ったのである。
「貧すれば鈍する」という。東芝の場合は、「福すれば貪する」を体現しているようだ。
連想を続けてみる。
「鈍」という病に懸って迷走したのか?
東芝は貧ではなかった、裕福であった。「福して貪になった」のである。
グローバルスタンダードに組みして、白旗を上げて、服したことによって「貪」になったのである。「福すれば鋭する」そして「鋭すれば貪する」のである。
利巧という病のように思える。知に傾き過ぎるのである。
「貪を患った」原因はどこに在るのか。
さすれば、貧するとは、決して金の多寡のことを言っているのではないことになる。
心の貧しさをいうのである。心が貧しいことを貪というのだ。
鈍だから貪になるのではなく、鋭だから鈍になることを示したのが「東芝」問題ではなかろうか。
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