2014年11月7日金曜日

心得 第六十九 「一緒に暮らすなら睦じく」

女房をなぐるは臆病武士の一項である。

《武士というものは、自分の妻について、どうも気に入らぬというようなことがあれば、その道理を説き聞かせ、十分に納得するように教えてやって多少のことであれば、こちらが我慢をし、許してやるのが妥当なやり方である。
但し、いたって性格が悪く、これは到底役には立たぬと思うほどであれば、はっきりと離縁をして親元へ送り返すというのも、やむを得ないことである。
ところが、そのようなこともせず、自分の妻と定めて、他人にも奥様とか、かみさまなどと呼ばせている者に対して大声で怒鳴り、さまざまな悪口雑言をするなどというのは市井の裏長屋に住む人足、日雇いなどの風情ならばともかく、一人前の武士のすることとしては決して許されぬ所行である。ましてや腰の刀をひねくり回し、げんこつの一つでも振うなどとあっては、全く言語道断の次第であるが、これはすべて臆病武士のすることである。
およそ武士の娘と生まれ、人の妻となる程の年齢になれば、男子であれば人からげんこつで撃たれて我慢できるものではあるまい。そこを女性の悲しさ、やむなく涙を流してこらえているのである。そもそも、自分に手向かいはできぬ相手と見て取って非道な行為をするというのは、勇気ある武士の決してせぬことである。勇気ある武士が嫌ってやらぬことを喜んでするようなものを臆病者というのだ。


「法の前に道理がある」。武家社会は自然法、道理を重んじた。
家も、主人も、その妻も道理に従って生きている。
従って、《どうも気に入らぬというようなことがあれば、その道理を説き聞かせ、十分に納得するように教えてやって多少のことであれば、こちらが我慢をし、許してやるのが妥当なやり方である。》と道理を納得させれば、ほぼ問題は解決すると説く。

それを暴力によって従わせようとするのは、その武士が〈臆病〉であるからだという。
なぜ、〈臆病〉に繫がるのだろうか。
それは「〈勇気〉ある武士がしない行為」だからと片づけているが、果たして、それが「〈勇気〉のない武士がする行為」であるといえるか。
「〈勇気〉のない武士」の中には、「しない者」もいるだろうし、「する者」もいるだろう。
「しない者」の中にも臆病者はいるかもしれない。
〈勇気〉がなく、「〈勇気〉ある者が嫌うこと(ここでは弱い者いじめ)」をする者は〈臆病〉であるというのであるが、「〈勇気〉がある者が嫌うこと」がすべて〈臆病〉ではない。たとえば、〈卑怯〉も「〈勇気〉ある者」が嫌うことである。とすれば〈卑怯〉と〈臆病〉とは同じであるか?
〈臆病〉は、ことバンクによれば、《ちょっとしたことにも怖がったりしりごみしたりすること。また、そのような人や、そのさま。》とある。《怖がる》《しり込みする》ことであるが、この項でいう〈臆病〉は〈しり込みする〉ことを指している。「躊躇する」「二の足を踏む」ことは「出遅れること」、闘いにおいては「敗け(死)」を意味する。結果として人前で恥をさらすことになる。その根本原因として「臆病」があることを指摘しているのである。「妻をなぐる」という卑劣な行為そのものは、「臆病」というよりも「弱み」に付け込む「卑怯」な振る舞いといえるが、その背後にある「臆病」を捉え、説いているのである。〈勇気〉〈臆病〉〈覚悟〉について考えてみるのも一興である。


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