《さて、このような決意を固めたからには、もはや我が身も我が命も、自分のものではない。いつなんどき、主君のご用に差し上げるか予測もつかない次第である。そう思えばこそ、ますます身命を大切にして、大食、大酒、淫乱などの不摂生をつつしみ、一日も長くこの世にとどまって、、なんとしても一度は主君のお役に立ってから命を捨てたいものと考えるべきである。
そうであれば、畳の上で病死することさえ残念に思われるのに、ましてや愚にもつかぬ喧嘩口論を起こして友人同僚を討ち果たし、自分もまた身命を失うなどということは、この上ない不忠、不義の振る舞いと知って、十分に自粛自戒しなければならない。
そのための第一の戒めといえば、まず軽々しい口をきかぬことである。
一体武士というものは、口数の多いのを嫌うものであるのに、それを心得ず、役にも立たぬ口を多くきくところから口論が起こり、それが募って喧嘩となり、喧嘩が起これば必ず雑言が飛び出してくるのである。
武士と武士との間で雑言が出てしまっては、それで無事におさまることは、万に一つもあり得ないことである。
それであるから、最初、口論になるより前に、そのことを心に決めて、わが身はかねてから主君に捧げ奉ったものであることを思い出し、怒りを押さえる者をさして、忠義の武士とも分別ある武士ともいうのである。》
「私心」でなく、「士心」つまり〈志〉を持つことが求められる。
それはいわゆる武士の本懐である。そして武士は何を本懐・本望としたかが問題となる。
心得とは、心を得るために必要なことであり、誰の心を得るのか、武家においては、主君の心が中心であった。そこに忠があり、その中心を体得、体現することこそ忠臣のつとめである。
心得とは、心を得るために必要なことであり、誰の心を得るのか、武家においては、主君の心が中心であった。そこに忠があり、その中心を体得、体現することこそ忠臣のつとめである。
一心同体の働きはそこに生まれる。
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