「日本人と死の覚悟」「続・日本人年の覚悟」というブログを見つけた。
「同類が・・・」と考え、他人の「死の覚悟」評なるものを参照しながら、考えて見た。
日本人と死の覚悟
- 総務省によると、昨年10月1日時点で、65歳以上の高齢者の人口は初めて3000万人を超え、総人口に占める割合(高齢化率)は24.1%と過去最高を更新した。1990年に12.1%だった高齢化率は12年間で倍になり、全都道府県で65歳以上の人口が14歳以下を上回っている。
- 「今の日本人には『老・病・死』を自分で引き受ける覚悟がない」
- 「老いが受容できなければ、死が受容できるはずがない」
- 現代の価値基準は「健康」「若さ」「生産性」にあり
- 生産に参加するから尊いのではなく、どのような状態でも、生きているということには使命があり、存在意義がある
- 日本医師会はTPP[3](環太平洋連携協定)参加によって国民皆保険は崩壊すると訴える。
- 病院に行って病名を付けてもらうと、そのうちなんとかなると考え、「お年寄りは医者の飯(メシ)のタネ」になっている。
- 本人自身が治せないものは医療も治せない
- 戦前の「鴻毛より軽い命」が戦後の「地球より重い命」へとコペルニクス的転回を経て、日本人は日常生活の場面から死を消し去った。
- 「死の外注」が進み、死が日常の場面から追いやられた。
- 「死が非日常化されたため、本来自然であるはずの現象が、今や不安や恐怖の対象になってしまっている」
- 医療現場でも実際に「自然死」を見たことがない医者が増えている。
- 医療への過剰期待も加わって、老も病も、場合によっては死もコントロールできるという幻想につながる。
- 「ドゥフカ=思い通りにならないこと」を表す。
- 「死を視野に置いて今を生きることの重要性」
- 最期に目をつぶる瞬間、後悔することが減るだろう。
《老いが受容できなければ、死が受容できるはずがない》とは、まったく、その通り。「喜怒哀楽」の個別感情を味わうことが必要だ。〈濃く〉がどうとか判ったようなことをいうが、苦み、渋み、辛みなどの深さは年齢とともに、また弱さときに頓に感得できるものである。このチャンスを逃してはならない。
《死の外注》という現代を象徴するキーワードは、《仕合わせの外注》でもあり、外発的な死の受容は、一生に一度の苦しみを回避することである。それは最大の不仕合せだ。
最後に、《後悔することが減る》とあるが、「前向きであれば、後悔できない」と考えている。
続・日本人と死の覚悟
- 医療や介護に対する国民の意識が変わらない限り、根本的な改革はできないと、
- 家庭の介護機能の低下とともに「生」のみが謳歌(おうか)されるようになった。
- 医療(医療者、薬、技術)に対しては「信仰」にも似た過度な期待を持つようになった
- 病気やケガを治す主役は、患者自身の「自然治癒力」であって、医師の腕や薬の力ではないと語る。自然治癒力は、年齢と共に衰える。
- 諦めるのに時間とお金がかかることになる。
- 本来は治すための医療を徹底するほど、死から穏やかさを奪い、死にゆく人に無用な苦痛を与え、悲惨な結果を招来することになる」と中村氏。
- 「簡単に医療を受けられなかった以前のほうが、よほど安らかに死ねたのではないか」と同氏は問う。
豊かさは、「意気地を無くす」ということだ。
自然に還る時には、借金は清算しなければならない。生きた分だけ借金は多くなっているのである。
年齢に応じでその都度支払うべき借金(例えば、病気にかかり、免疫抗体をつくる苦労)があったにもかかわらず、それを薬で誤魔化していた。そのつけがたまっているのである。人生の最期でこの借金を払うのは同党の覚悟が必要になるのである。
幸せは仕合わせとも表記する。
〈仕合う〉ことであり、それは年齢に応じ、与えられた生を、生きることが〈仕合わせ〉である。
「医療の充実」が「医療への過度の期待」を生み、「生の投資(医療費)」により、〈主体的な生〉ではなく、〈従属的な生〉により、仕合わせを実現しようとしているようだ。
《生老病死》を、医療は患者の主体的・主観的なものから、医療関係者の従属的・客観的なものに置き換えている。同時に〈仕合わせ〉を本人の内発的なものから、関係者の外発的なものに置き換えている。
〈死の覚悟〉にしてもそれが内発的なものか、外発的なものかでその意味は大きく変わる。
年とって、外発的〈死の覚悟〉をしなければならないのは最大の不幸である。
《諦めるのに時間とお金がかかる》のだ、死ぬまで、間に合うかどうか常に不安に苛まれることになる。
自然に還る時には、借金は清算しなければならない。生きた分だけ借金は多くなっているのである。
年齢に応じでその都度支払うべき借金(例えば、病気にかかり、免疫抗体をつくる苦労)があったにもかかわらず、それを薬で誤魔化していた。そのつけがたまっているのである。人生の最期でこの借金を払うのは同党の覚悟が必要になるのである。
幸せは仕合わせとも表記する。
〈仕合う〉ことであり、それは年齢に応じ、与えられた生を、生きることが〈仕合わせ〉である。
「医療の充実」が「医療への過度の期待」を生み、「生の投資(医療費)」により、〈主体的な生〉ではなく、〈従属的な生〉により、仕合わせを実現しようとしているようだ。
《生老病死》を、医療は患者の主体的・主観的なものから、医療関係者の従属的・客観的なものに置き換えている。同時に〈仕合わせ〉を本人の内発的なものから、関係者の外発的なものに置き換えている。
〈死の覚悟〉にしてもそれが内発的なものか、外発的なものかでその意味は大きく変わる。
年とって、外発的〈死の覚悟〉をしなければならないのは最大の不幸である。
《諦めるのに時間とお金がかかる》のだ、死ぬまで、間に合うかどうか常に不安に苛まれることになる。
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