《これに対して不勇者はどうか。彼らは主君や親を敬うといっても表面だけのことで、本当に大切に思うまごころは持っていない。それだから、主君のお家の禁制や親たちの嫌がることはしまいという自制がなく、行くべきでない場所をうろつき、するべきでない行為にふける。万事に我儘が先に立ち、朝寝昼寝を好み、学問などは大嫌い、武士の天職である武芸を習うといっても、なにか一つを突き詰めて身に着けようとする気がなく、あの芸、この術といい加減にならって、実際の腕は立たないのに口先ばかりの芸自慢をしゃべりまくる。わずかばかりの知行をいただけば、それを前後の考えもなしに使いまくって、役にも立たぬ馬鹿騒ぎや食道楽には惜しげもなく金をかけるかと思えば、非諜なことには費用を惜しみ、親譲りの古い鎧のおどし毛は切れ、塗の剥げたのを修理しようともしない有様であるから、何よりの大切な武具や馬具が不足していてもそれを点検し新調することなど思いもよらない、もし病気にかかったときには主君への奉公もできず、親たちに心配、苦労を掛けることになるとの考えもないため、大食、大酒を過ごし、色の道にふけって、自分の寿命にやすりをかけるような真似をしている・・・。
これらはすべて、物事を耐え忍ぶということのできぬ柔弱未練の心から起こることであり、不勇者、臆病武士の証拠であると判断して、まず間違いはない道理である。
こうしたわけで、勇者と不勇者との区別は、泰平の世の畳の上においても、まぎれもなく見分けられるというのである。》
真心があれば物事に耐え、従弱未練を断ち切り、我儘に振る舞うことはなくなる。
そうであれば天職である武芸を怠ることはなくはずである。
要するに、勇者不勇者は初めから〈在る〉ものではなく、〈成る〉ものなのだ。
因果関係で物事を捉え、その因を心の置き方にあると考えた。
《平生往生》なのであり、《一事が万事》である。
従って、現在の姿の中に、将来を読み取ったのである。
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